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24 娼婦外交




 マリーが夫ヨーハンから初めて『娼婦外交』を任されたのは、ミルフィオリ大使の接待(せったい)だった。


 接待前夜、いつもどおり夫婦別々の夕食をとったあと、ヨーハンがマリーを王の私室へと招いた。

 普段であれば、なにかと理由をつけて(ことわ)るのが(つね)だ。とはいえ、翌日の重要な公務をひかえてまで、王と情報を断絶したままでいるわけにはいかない。失態(しったい)へとつながりうる。

 マリー個人としての過失で済めばよいが、国家にとって重大な損失となれば、取り返しがつかない。


 マリーはヨーハンに指示されたとおり、同伴させた扈従(こじゅう)を扉近くの椅子に座らせ、そこで待つよう命じた。

 王の私室を守る衛兵が、槍の石突(いしづき)を床に打ち鳴らし、声を張る。マリーの到着が、ヨーハンへと伝えられる。

 壁掛けの松明(たいまつ)の炎は、衛兵のくすんだ(よろい)の上で、ぼやけた橙色の(たま)となって、ゆらめいた。

 うっかりとじこめられた火の精霊が、ここから出してほしいと戸惑っているかのようだ。

 扉越しに、ヨーハンのくぐもった声がかすかに聞こえる。

 衛兵が扉を開いた。


 あたたかな空気が室内から冷たい回廊へと、一目散(いちもくさん)に逃げ出していく。

 むっとするような、香ばしくも甘い(まき)の香りが、マリーの鼻から頬へと流れて、まとわりつく。


 ヨーハンは、ぱちぱちと薪の()ぜる暖炉の前に立ち、妻マリーへとぎこちなくほほえみかけた。

「よくきてくれた」


「明日のご用件をうかがいにまいりました」

 扉のしまる音を背後に聞きながら、マリーは夫へと儀礼的にほほえみ返した。


 ヨーハンの前にあるサイドテーブル。

 それほど小さいつくりではないが、王の巨躯(きょく)を覆い隠すには、幅が足りない。王のマントが大きくはみ出て見え、巨漢の王が手をつけば、もろくも崩れ落ちてしまいそうだ。


 マリーはゆっくりと歩み寄った。

 テーブルの上には、火の(とも)された蝋燭が三つ。

 そのすぐとなりに、木枠に色ガラスをはめこんだ美しい装飾盆。盆には、美しいガラス工芸品が並べられている。

 飲み口をぐるりと金縁が一周する、優美な曲線を描いた芸術的なガラスのピッチャー。

 ピッチャーの(つい)になるような、同様の装飾をほどこされたガラスの杯がふたつ。そしてこれまたピッチャーや杯と同様の意匠の、ガラスの平皿。

 ピッチャーは赤黒いワインで満たされている。杯の中身は空だ。平皿にはチーズと干しイチジク。


 マリーはイチジクに目をとめ、口の端をゆがめた。

 干しブドウではなく、イチジクか。見えすいたご機嫌取りだ。

 幼少期からマリーがイチジクを好むことを、ヨーハンはよく知っている。

 王都に滞在中のマリーがリシュリューを恋しがってしおれると、そのたびヨーハンがイチジクを食べにこいと、ヴィエルジュとマリーの兄妹を王宮に招いた。


 ヨーハンはピッチャーを持ち上げ、透明なガラスの杯へとワインをそそいだ。ひとつずつ、順に。

 ワインがふたつの杯にすっかりおさまる。

 すると杯は、透明な輝きと炎のぬくもり。それから、ワインの怪しげな蠱惑(こわく)といった、多面的な光を放った。



「まずは乾杯しよう」

 ヨーハンがマリーへと杯を差し出す。



「いらないわ」

 マリーはそっけなく言った。



「フランクベルトのワインではない」

 ヨーハンはおずおずと、しかし引き下がらずに妻へと杯をすすめる。

「ミルフィオリ産のガラスとともにヴィエルジュが持ってきた、ロデのワインだ」


「けっこうよ」

 マリーは人形のように美しくほほえんで言った。

「先日の旅では、ロデにも立ち寄ったの。そこでじゅうぶん堪能(たんのう)したわ」


「そうか」

 ヨーハンはさみしそうな笑みを浮かべ、杯をあおった。


 脂肪と浮腫(むく)みとで、青白く醜い芋虫のようなヨーハンの指が、ゆっくりと慎重な様子でおろされる。

 木枠にガラスをはめ込んだ盆の上へ。ガラスの杯が音もなく、静かに置かれた。

 そうかと思えば、ワインの満たされたもう一杯を王は勢いよくあおった。



「気が乗らぬようであれば」

 ヨーハンはため息交じりに、迷いのある口ぶりで切り出した。

「断ってもよい。あの男については、あまりよい噂を聞かぬ」


「いいえ」

 マリーはきっぱりと言った。

「接待をすれば、あなたと寝床をともにせずとも済むのでしょう。蛙を見張りに呼び出す必要もなし」



 夫ヨーハンとともにした夜を思い出し、マリーは眉をひそめた。

 ことの始まりから終わりまで。

 寝台の垂れ幕外で、アングレーム伯爵ブノワがへばりついていた。


 世継ぎの男児を身籠(みごも)るための祈祷(きとう)

 結婚初夜においては、当然のようにブノワが在室し、寝所にいたるさまざな儀礼をとりしきった。


 それから、八年の歳月(さいげつ)を経たのち。夫ヨーハンとの二度目の夜。

 マリーにとっての第三子――つまり現在のレオンハルト――を産むにあたっては、彼女自身、ブノワの祈祷をあてにした。


 確実に男児を(はら)むためだ。

 ジークフリートではない、もうひとりの男児を得るために。


 ブノワの祈祷をヨーハンに求めたのは、マリーだ。

 ヨーハンは渋った。

 ひさかたぶりの愛妻との夜に、他人を招き入れたくはなかった。

 しかし、妻は夫と愛し合うことを望んでいたのではなく、男児を求めていただけだった。


 それでも。

 夫との愛のない営みを、よりにもよってブノワの前で披露しようとは。

 マリーは己が求めた過去を思い出し、嫌悪をおさえることができなかった。



「それならば、ミルフィオリ大使へ食事の席をもてなすほうが、ずっと()()というものよ」


「なるほど」

 ヨーハンは憎しみをたたえた瞳で、マリーを()めつけた。

「夫である余との寝所ではなく、あの者の寝所へもぐりこむことが、おまえの望みか」


「汚らわしいことを!」

 マリーはそばにあった燭台を手に取り、ヨーハンに投げつけた。


 蝋燭に灯された火は、風で吹き消えることなく、ヨーハンのマントに燃え移る。

 火の手があがったマントを脱ぎ捨てようと、王はあわてた。


 建国王のマントと呼ばれる黒貂(くろてん)の毛皮。

 愚鈍(ぐどん)な肥満王ヨーハンが羽織れば、まるで道化のようにしか見えない。

 だがヨーハンは、その分不相応の立派なマントに火が燃え広がるのをおそれてだろうか。

 それとも単純に、小心者のおびえゆえだろうか。壊滅的な運動能力のためだろうか。

 そのすべてが原因かもしれない。

 ヨーハンの動作はもたもたと、いかにも鈍重(どんじゅう)だった。



「寝所、寝所、と。なんと下賤(げせん)好色(こうしょく)なこと」

 マリーは夫ヨーハンへと軽蔑のまなざしをそそいだ。


 火は消えたようだった。毛皮の燃える獣臭だけが残り、部屋に満ちる。



「宴席で王室にとって取り込むのに利となるミルフィオリ大使の機嫌をとる。ただそれだけのことよ」

 マリーはヨーハンに背を向け、扉へと歩み去った。

「王妃としての務めを果たすだけだわ」


「マリー!」

 扉を閉める前に、ヨーハンがマリーを引きとめるようにして声をあげた。


 しかしマリーは気にもとめず、退室した。

 扉が閉まり、しばらくマリーはその場にとどまった。扉の向こうで夫の嘆くようなうめき声が聞こえた。胸がすく心地だった。


 結局、とマリーは思い返す。

 初めて接待をしたミルフィオリ大使は、マリーの想像を超える人物だった。


 貿易で栄える海洋国家、ミルフィオリ。

 君主としての王は存在せず、選挙によって元首が選ばれる共和国。

 その大使とは、彼の持つ権力と人生のすべてを金と女に情熱を傾けるような、ひたすらに下劣な品性の持ち主だった。

 厳格なフランクベルト宮廷をうとましく思い、リシュリューの自由を恋しがるマリーからみても、ミルフィオリ大使の無作法は目に余った。


 マリーがいよいよ、大使の無礼に我慢がならなくなったとき。

 酔いがまわり、体調がかんばしくないなどと理由をつけ、マリーは席を立とうとした。

 だがそこで、ミルフィオリ大使もまたおもむろに立ち上がり、マリーの進路をふさいだ。

 そして大使は、困惑するマリーへ下卑(げひ)た笑みを向けた。



「そちらをおどきになって」

 マリーは苛立ちをかくさず、厳しい口ぶりで言った。



「美しい人」

 そう言うと、大使はマリーの腰を強く引き寄せた。

「気の強いところもまた、魅力ですな」



 あっという間のことだった。

 マリーは満足に拒絶することもできなかった。

 フランクベルトの主要貿易を一手に担うリシュリュー侯爵シャルル――王妃マリーの実父――も、椅子から腰を浮かせ、実娘マリーが下衆なミルフィオリ人と対峙するのを目の当たりにし、眉をひそめていたに過ぎなかった。


 国庫を任せられているために、その場に同席していたエヴルー伯爵ロベールもまた同様に。

 王の上級顧問として参席したふたりの貴顕(きけん)は、ミルフィオリ大使の非礼に対し、批判の声を上げようと口を開きかけたばかりであった。


 なんということであろうか。

 衆目(つど)う宴席の場で、ミルフィオリ大使が、フランクベルトという大国の王妃のくちびるを強引に奪ったのだ。


 それからというもの、王妃マリーの個人接待とやらには、悪意ある流言がつきまとうこととなった。

 身体を開いたことは一度としてない。

 だが、一度きりとはいえ、くちびるを許してしまった。


 日ごろから、マリーの言動を快く思っていないフランクベルト宮廷人たちは、こぞってマリーを、まるで娼婦のようだとささやいた。

 そしてマリー自身も、他国の大使や王国内諸侯との接待について、王妃としての公務ではなく。売女のごときおぞましいふるまいだと嘆くようになった。


 なにより、マリーはヨーハンを激しく憎悪した。

 王ヨーハンは妻であるマリーを、王妃としてではなく、娼婦代わりに政治利用したのだ、と。


 今になって思えば、とマリーは振り返る。

 夫ヨーハンは、ミルフィオリ大使が品性下劣な人物であることを事前に知っていた。それはたしかだ。

 けれど夫は妻に、娼婦の役割を求めたのではなかったのかもしれない。

 夫はもしかすれば、妻の貞操(ていそう)について、危惧していたのかもしれない。




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― 新着の感想 ―
>身体を開いたことは一度としてない。 ヨーハンはマリーに娼婦外交をさせていたんじゃなかったんだね~。よかったよかった!  しかし、こうなるとヨーハンがちょっと不憫かなあ。 この「悪意ある流言」がト…
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