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23 獅子王




 第十一代フランクベルト王レオンハルト二世。

 建国王レオンハルトと同名の、まさしく獅子王たるにふさわしい名と姿を持つ、マリーが三番目に産んだ息子。

 現王レオンハルト。


 一番目の息子ジークフリート出産時と同様に、産婆(さんば)の手から、アングレーム伯爵ブノワの手へと渡った赤子。

 ブノワの潔癖なまでに純白なローブを汚す赤子。その姿を()の当たりにしたとき、マリーはかん高い笑い声をあげた。

 出産の疲れも痛みも、なにもかも、すべてが吹き飛んだ。


 ぬめっとねばつく液体で濡れそぼった、真っ赤な生き物。

 その赤子はまばたきをする間もなく、輝く黄金の毛に包まれた。


 ちょうどこの庭で、ほんのすこし前まで、レオンハルトはあのときと同じ、黄金の毛に身を包んでいた。

 やわらかそうな毛を風にゆらしては、空からそそがれる弱々しい光を、まばゆいばかりの強い光へと変え、弾き返していた。


 獅子に(ふん)した息子の姿を見るのは、出産時以来、マリーにとって初めてのことだ。


 ながらく固有魔法を発現させず。発現させたかと思えば、期待に反し、息子の固有魔法は、変化(へんげ)ではなかった。

 だがしかし。いまや(おのれ)の意思で、自在に変化できるようになったのだろう。


 レオンハルトは、マリーが望んで産んだ息子だ。

 第一子ジークフリートとは違う。

 ジークフリートは屈辱の証として、マリーの胸に刻み込まれた。

 彼の名や存在そのものが、マリーに苦々しい記憶を呼び起こさせた。


 しかし、レオンハルトはそうではない。

 ジークフリートと同じ、ヨーハンを父に持つ息子であってさえも。それでもレオンハルトは、その誕生がマリーに歓喜をもたらした。


 そのためなのだろうか。

 レオンハルトはフランクベルト家の王子であり、間違いなくヨーハンの息子であるはずなのに、すこしもヨーハンに似ていない。

 昔のトリトンに似てすらいる。

 そしてトリトンの面影(おもかげ)を残したレオンハルトは、祝福されない恋人と、ひと目をしのんで逢瀬(おうせ)を交わしていた。

 トリトンとマリーが、かつてそのような逢瀬を楽しんでいたように。


 それでも、マリーにはレオンハルトのことがすこしもわからない。

 わかることは、ただ愚かで軽率であるという、うわべの言動だけ。そこから推測できるのは、魂のうち、ほんの浅い上澄みだ。

 ジークフリートの感情の動きならば、まだすこしは理解できるのに。


 いいえ、ちがう。

 マリーは黒曜石(こくようせき)のやじりで穴の空いた手袋を引き抜き、地に落とした。もう片方の手袋も同様に。

 傷ついて血のにじんだ手のひらを、じっと眺める。


 青い血。

 建国王がフランクベルト諸侯に授けた血。当時と変わることのない血の色だ。

 そして、獅子王の輝く青い血とは、全くの別物。

 同じ青のようであって、同じではない。


 『尊き獅子王』を理解せんとすること自体が、もしかすると、禁忌なのかもしれない。

 たとえその尊き御仁が、息子であろうと。

 あるいは、夫であろうと。


 マリーは、その細い指で青い血を隠すようにして 、手を握りこんだ。

 獅子王とは、フランクベルトの神であり、その御子であり、そしてまた、神の代理人だ。


 マリーの夫であり、幼馴染でもあったヨーハン。

 理解しあえることなんて、あるはずがないと思っていた。

 幼馴染のヨーハンであればともかく、獅子王となったのちの彼には、すこしも。


 ヨーハンは建国王の子孫で、建国の神の御子だ。

 マリーはエノシガイオスの子孫で、エノシガイオスの神々を崇めている。

 信仰と価値観が、フランクベルトとリシュリューでは、あまりに違っていた。

 そのうえヨーハンの思想は、年を重ねるごとに不可解になっていった。


 マリーがヨーハンに親しみを感じ、彼の考えがわかるような気になっていられたのは、遠い昔だ。

 この小庭園で兄ヴィエルジュとのんきに過ごしていられた、幼いころ。


 兄がとくべつ親しくしている友人だったヨーハン。

 気は優しいが、臆病で引っ込み思案な少年。

 敬愛すべき王太子が、みじめに劣等感にさいなまれている姿を、マリーは見るに見かねた。



「国教のほかにも、リシュリューでは、お祈りする神様がいます」

 思わずマリーは、ヨーハンと兄との男同士の会話に割り入った。そういうことがあった。


 令嬢らしく、しとやかに黙って聞いていることをせず。マリーはしゃしゃりでて、口をはさんだ。覚えている。

 ヨーハンはマリーのとつぜんの割り入りに、ただひとこと「そうらしいな」と、こたえた。

 彼はうつむき、ふたりの視線が交わることはなかった。けれどマリーを否定したり拒絶したりはしなかった。

 だからマリーは続けた。

「国教のほかにも、リシュリューでは、お祈りする神様がいます」と。


 王太子ヨーハンも兄ヴィエルジュも、女が口をはさむことに、眉をひそめる気質ではなかった。

 だからあのときマリーは、男同士の会話に割り入っても、とがめられずに済んだ。


 そう。たしかに幼いころ、マリーはヨーハンとともに、この庭園で過ごしたことがあった。


 『しゃしゃりで』マリーは、当時貴族令息たちからうとまれていた。

 気が強くおしゃべりな女は嫌われるのだ。父シャルルですら、マリーの減らず口に手を焼いているようだった。

 けれどヨーハンはそうではなかった。

 年ごろの近いこどもで、マリーのおしゃべりに根気強くつきあうことのできたのは、兄ヴィエルジュのほかでは、ヨーハンが初めてだった。


 照れ屋なヨーハンが、己の意思をはっきりとマリーになにかを伝えてくることはなかったし、ほとんど視線も交わらなかった。

 それでもヨーハンは、マリーの言うことをいつも、優しく穏やかに受け止めてくれた。


 それだから、あの日もマリーは、ヨーハンの傷ついた心を救ってやりたくて。

 それで『冥界の男神』の神話を引用した。



「死に至れば、誰もが等しく冥界へとまいります」

 マリーは結い髪に手を当てた。


 ヨーハンからもらったバラが指先にふれる。

 みずみずしく繊細で、そしてやわらかい。

 マリーはにっこりと笑った。



「すべての人間の魂を受け入れてくださる、救済と慈愛の、偉大な男神様。それが冥界の男神様です」



 じつのところ、マリーはそれまでに、ヨーハンから『冥界の男神』が思い起こされたことなどなかった。

 けれどヨーハンをなぐさめようと言葉を重ねれば重ねるほど、まるでぴったりだと思った。我ながら、なんて素晴らしい思いつきだろう、と思った。



「まさしく、『ヨーハン殿下にぴったり』ではありませんか」

 そう言ったのは、うそいつわりのないマリーの本心だった。


 しかし、あのとき。

 マリーがヨーハンに冥界の男神について示唆(しさ)しなければ。

 そうすれば、ヨーハンは復讐の女神の目から逃れることができたのではないか。

 マリーが語らなければ。そうすればヨーハンは、今でも生きていたのではないか。

 そして彼はフランクベルトの王として、エノシガイオスの神々について、敵国の相容(あいい)れぬ、見知らぬ神話であるとしか、見なさなかったのではないだろうか。


 いや、そんなことはなかったろう。

 安直な後悔に身をゆだね、自責の混沌(こんとん)へ逃避せんとするのを、マリーはこらえた。

 そんなことをして気が楽になるのは、マリーだけだ。

 真実ではない軽薄な仮定の中に魂を(しず)めようとしたところで、己の罪を己で罰することにはならない。無意味だ。

 何も変わらない。何も変えられない。誰も救えない。誰も救われない。


 ヨーハンは夫だった。

 夫として、そばにいたのだ。リシュリューの女であったマリーのそばに、ずっと。

 リシュリューのマリーは、フランクベルトのヨーハンとともに生きてきた。


 復讐の女神は、肉親殺しをけっして(ゆる)さない。

 それだけではない。肉親殺しの罪を犯した罪人(つみびと)をかくまう者、そのそばに近寄った人間すべてにわざわいをもたらす。

 父アルブレヒトを殺したヨーハンは、復讐の女神の手によって、あの狂気に満ちた最期へと導かれたのだろう。

 そして復讐の女神がとうとうヨーハンの魂をむさぼろうと、あるいは魂を焼こうとしたそのとき。

 その大事な瞬間に近づき、復讐の女神の邪魔をしたトリトンにも、わざわいがもたらされた。

 復讐の女神は、トリトンの魂にその手で触れたのだ。


 もちろん、私も。

 マリーは心臓の上に、手をのせた。

 復讐の女神は、とうの昔に、マリーの心臓をかきまぜた。


 長く親しんできた幼馴染ヨーハンに、それまでマリーは友情を抱いていた。

 そしてまた、臣下として仕え、支え。兄ヴィエルジュとともに、彼の繊細な心を守ってやろうと心に決めていた。

 しかし、マリーはヨーハンに裏切られた。それだから、マリーはヨーハンを裏切ることにした。

 そしてマリーはトリトンに打ち明けた。

 ヨーハンが初めて発現させた固有魔法によって、幾人かの宮廷人の生命を意図(いと)せず散らしてしまったことまでも。


 マリーはただ、トリトンを愛した。

 愛するトリトンだけを夢中で見つめていた。




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― 新着の感想 ―
>ジークフリートは屈辱の証として ううう。確かにマリーにとっては「凌辱による妊娠出産」みたいなものかもしれないけれど、ジーク様にはなんの責任もないのに~。 >ヨーハンが初めて発現させた固有魔法によ…
 レオンハルトは、本当にヨーハンの子なのか。そんな疑問がちらりと。  マリー自身は、ヨーハンの子と確信しているようですし、産んだ本人の確信なら間違いないはずだと思うのですが・・・  でも、もしヨーハン…
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