22 悪しき魔女マリー
浄化の薫煙たちこめるリシュリュー侯爵の部屋を退室し、マリーは回廊を進んだ。
扈従のひとりもつけていない。
しかしベールで顔を覆った黒衣姿の貴婦人が誰であるか。知らぬ者はいない。
めったに宮廷では見かけず。そしてまた、近日中にエノシガイオスの半島トライデントへと出立する予定の、王太后マリー。
王太后は背筋をぴんとのばし、毅然と歩を進める。ベールや黒衣のすそが、ゆったりとたなびく。
宮廷人はみな立ち止まり、うやうやしくこうべを垂れた。
マリーは、礼を示す宮廷人たちに、ほほえみを与えた。
ベールに隠れて見えずとも、そのようにふるまうことが大事であるように思えた。
ここはフランクベルト宮廷だ。
エノシガイオスの神々が、念をいれて見守る地ではない。フランクベルト建国の神が、他の神々よりおもだって守護する地だ。
そのはずだ。
血の匂いのする、なまぐさい吐息が、マリーの頬に触れた。
それと知らぬ者であれば、気がつかぬような、かすかなゆらぎだ。
しかし、そうと気がつけば、奇妙な空間のねじれが、たしかに存在する。触れたところがひきつれ、ぴりぴりとしびれる。
復讐の女神か、あるいはその使者、もしくは女神に罰せられた過去の死霊たち。そのいずれか。
邪悪な意思を持ったなにかが、マリーについてきている。
マリーの肩から胸へと、両腕をたらし、ぶらぶら遊ばせているのだろう。マリーの黒衣の上で、魔除けの黒曜石が不自然な動きをしている。
大きくとびはねたり、かと思えば、今度はみじろぎひとつしなかったり。
野良の悪霊は、魔除けの黒曜石に触れられないはずであるから、いずれかの神に属しているなにかだ。
やはりこれは、原始の女神に関わるなにかに違いない。
原始の女神は地上において、ほとんどの神々を上回る――三大男神であっても、容易には手を出せないほどの――圧倒的な力を有している。
黒曜石のビーズでつないださきにある、黒曜石のやじりを、マリーはぎゅっとつかんだ。とたんに痛みが走る。
するどく尖ったはしっこが、絹の手袋を突き抜けて、マリーのやわらかい手のひらを傷つけた。
黒曜石は火の女神が産んだ石だ。
火の女神の加護そのもの。火の熱さを内包したまま、冷えた石となった。
火の女神の恵みをぞんぶんに浴びている。
「火の女神様にお伝えください」
マリーはより強く握り込み、やじりを手のひらに食い込ませた。
「我が胸の内に残る、夫ヨーハンへの憎しみを、あますことなくすべて燃やし尽くしてくださいますよう」
黒曜石のやじりはマリーの血を吸っただろうか。
黒曜石に宿る火の精霊は、マリーの祈りを火の女神にまで届けてくれるだろうか。
火の女神は炉から離れられない。願いを聞き届けたからといって、すぐさま駆けつけてくれるような女神ではない。
けれど、もし火の女神がマリーに慈悲を与えんとするならば、女神の使役する火の精霊が、なんらかの手助けをしてくれるだろう。
握りしめた黒曜石のやじりに、熱がともったような気がした。
マリーはほっと息をついた。
いまでは、なににつけても思考するのに、以前より理性に近づいているのを感じる。
感情が邪魔をして、過去を振り返ることは難しかった。しかし最近ではすこしずつ、見通しがきくようになってきた。
リシュリューの地で、トリトンの葬儀をしてからというもの、マリーの胸に巣食っていた憎悪は、ほぐされつつあった。
火の女神はいつの日か、マリーの憎悪をすべてたいらげてくれるだろうか。そうであればいい。
もし、ヨーハンと夫婦になったはじめから、マリーが火の女神に祈っていたのなら。
家庭の守護神でもある火の女神が、マリーの炉から憎悪の熾火をとりはらい、愛情の炎を灯してくれていたことだろう。
いまとなっては、かなわぬことだ。
当時は望んでもいなかった。
回廊を抜け、テラスの小部屋を抜け。マリーは、緑のトンネルをくぐった。
アーチ型の垣根に、くねくねとからまるツタ。風がふくたびに、わさわさと濃い緑の葉が揺れる。
あらわになるのは、ふしだらけで干からびた、ツル状の枝葉に幹。褪せた黒。
明るくはないフランクベルトの曇天が、みっしりとつまったツタや葉にさえぎられ、トンネル歩道は日中でも薄暗い。
それだから、秘密の恋の逢瀬によく使われる。ときには、陰謀やらなにやらの手紙を、すれちがいざまに握らせることもあるだろう。
相手の顔を見分けられなかったと、そらとぼけるのに都合がいいのだ。
ばったり、都合の悪い誰かと行き交うことがあったとしても。ここで見かけたことは、見なかったことにする。それが暗黙の了解になっている。
いまも至極当然のように、衣服を着崩してクスクスと笑い声をあげる男女がいた。
マリーは歩く速度をあげた。
誰と誰が、どんな淫らな行為に耽っているのか。すこしもわからないうちに、通り過ぎなければ。
彼らが彼らの都合を優先することを願おう。余計な好奇心に火をつけるつもりは、マリーにはない。
足早に通り過ぎる黒衣の女が、マリーであると感づかれてはめんどうだ。
ちかごろ宮廷では、息子から見放され、敵国へと売られる王太后の話題でもちきりだった。
病弱だと思われていた王太后マリーは、実のところ、持病のために宮廷をあけていたのではなかったのだという。
先王の生前、妻は夫を裏切り、さまざまな男たちと通じていた。
その数ときたら、両手の指をすべて折っても足らぬほどだ。
フランクベルトで禁じられる占い。それから、正体の知れぬ、あやしく、おぞましい呪い。
王太后マリーは、野蛮な地より伝わる、忌まわしき術を用い、人心を操る。罪なきひとびとをたぶらかす。
ついには、先王ヨーハンまでもを破滅に導いた。先王は妻の奸計に落ちてしまった。
王太后マリーは悪徳の限りを尽くした姦婦であり、邪神や悪魔に通じた、呪わしい悪女。
悪しき魔女だ。
新王レオンハルトは、父王が亡くなって初めて、母の悪徳を知った。
少年王はどれほど苦悩したことだろう。
しかし高潔なる獅子王は、若くみずみずしい正義感でもって、母を敵国へ送ると決断したのだ。
罪と悪を裁き、しかしながら、寛大なる愛でもって命を赦す。
ああ、すばらしきかな、獅子王レオンハルト二世。
新王の治世で、フランクベルトはますます栄光にかがやくことだろう。
とつぜん、マリーの視界が白くひらけた。
トンネルを抜けた。
背の高い生垣を右手に曲がる。
澄んだ水がちょろちょろと流れ、細い水路には装飾的な石橋が架かっている。
マリーは石橋を渡り、すこし歩いてから、北西の二手に分かれる道のうち、西へ進んだ。
そうしてようやく、小さな門扉にたどりつく。
生垣に覆われ、一見すると通り過ぎてしまいそうだ。
マリーが門扉の前に立つと、奥に潜んでいた衛兵が姿をあらわし、こうべを垂れて礼をした。
閂がはずされ、門扉がひらかれる。マリーは扉の内側へと足を踏み入れた。
背後から聞こえるのは、扉の閉まる、わずかなきしみ音。
マリーの目の前で、淡い色合いの、さまざまなバラが咲き誇っていた。
さきほど見たばかりの、そして、マリーの結い髪にさしてあるのと同じ、シャーベットオレンジのバラも咲いている。
亡き夫ヨーハンの小庭園だ。
レオンハルトはいない。その恋人も。
彼らはすでに去ったようだった。




