表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
182/212

22 悪しき魔女マリー




 浄化の薫煙(くんえん)たちこめるリシュリュー侯爵の部屋を退室し、マリーは回廊を進んだ。

 扈従(こじゅう)のひとりもつけていない。

 しかしベールで顔を覆った黒衣姿の貴婦人が誰であるか。知らぬ者はいない。


 めったに宮廷では見かけず。そしてまた、近日中にエノシガイオスの半島トライデントへと出立(しゅったつ)する予定の、王太后マリー。

 王太后は背筋をぴんとのばし、毅然(きぜん)と歩を進める。ベールや黒衣のすそが、ゆったりとたなびく。

 宮廷人はみな立ち止まり、うやうやしくこうべを垂れた。


 マリーは、礼を示す宮廷人たちに、ほほえみを与えた。

 ベールに隠れて見えずとも、そのようにふるまうことが大事であるように思えた。


 ここはフランクベルト宮廷だ。

 エノシガイオスの神々が、念をいれて見守る地ではない。フランクベルト建国の神が、他の神々よりおもだって守護する地だ。

 そのはずだ。


 血の匂いのする、なまぐさい吐息が、マリーの頬に触れた。

 それと知らぬ者であれば、気がつかぬような、かすかなゆらぎだ。

 しかし、そうと気がつけば、奇妙な空間のねじれが、たしかに存在する。触れたところがひきつれ、ぴりぴりとしびれる。


 復讐の女神か、あるいはその使者、もしくは女神に罰せられた過去の死霊たち。そのいずれか。

 邪悪な意思を持ったなにかが、マリーについてきている。


 マリーの肩から胸へと、両腕をたらし、ぶらぶら遊ばせているのだろう。マリーの黒衣の上で、魔除けの黒曜石(こくようせき)が不自然な動きをしている。

 大きくとびはねたり、かと思えば、今度はみじろぎひとつしなかったり。

 野良の悪霊は、魔除けの黒曜石に触れられないはずであるから、いずれかの神に属しているなにかだ。


 やはりこれは、原始の女神に関わるなにかに違いない。

 原始の女神は地上において、ほとんどの神々を上回る――三大男神であっても、容易には手を出せないほどの――圧倒的な力を有している。


 黒曜石のビーズでつないださきにある、黒曜石のやじりを、マリーはぎゅっとつかんだ。とたんに痛みが走る。

 するどく尖ったはしっこが、絹の手袋を突き抜けて、マリーのやわらかい手のひらを傷つけた。


 黒曜石は火の女神が産んだ石だ。

 火の女神の加護そのもの。火の熱さを内包したまま、冷えた石となった。

 火の女神の恵みをぞんぶんに浴びている。



「火の女神様にお伝えください」

 マリーはより強く握り込み、やじりを手のひらに食い込ませた。

「我が胸の内に残る、夫ヨーハンへの憎しみを、あますことなくすべて燃やし尽くしてくださいますよう」



 黒曜石のやじりはマリーの血を吸っただろうか。

 黒曜石に宿る火の精霊は、マリーの祈りを火の女神にまで届けてくれるだろうか。

 火の女神は()から離れられない。願いを聞き届けたからといって、すぐさま駆けつけてくれるような女神ではない。

 けれど、もし火の女神がマリーに慈悲を与えんとするならば、女神の使役する火の精霊が、なんらかの手助けをしてくれるだろう。


 握りしめた黒曜石のやじりに、熱がともったような気がした。

 マリーはほっと息をついた。


 いまでは、なににつけても思考するのに、以前より理性に近づいているのを感じる。

 感情が邪魔をして、過去を振り返ることは難しかった。しかし最近ではすこしずつ、見通しがきくようになってきた。

 リシュリューの地で、トリトンの葬儀をしてからというもの、マリーの胸に巣食っていた憎悪は、ほぐされつつあった。


 火の女神はいつの日か、マリーの憎悪をすべてたいらげてくれるだろうか。そうであればいい。

 もし、ヨーハンと夫婦になったはじめから、マリーが火の女神に祈っていたのなら。

 家庭の守護神でもある火の女神が、マリーの炉から憎悪の熾火(おきび)をとりはらい、愛情の炎を灯してくれていたことだろう。


 いまとなっては、かなわぬことだ。

 当時は望んでもいなかった。


 回廊を抜け、テラスの小部屋を抜け。マリーは、緑のトンネルをくぐった。

 アーチ型の垣根(かきね)に、くねくねとからまるツタ。風がふくたびに、わさわさと濃い緑の葉が揺れる。

 あらわになるのは、ふしだらけで干からびた、ツル状の枝葉(しよう)に幹。()せた黒。


 明るくはないフランクベルトの曇天(どんてん)が、みっしりとつまったツタや葉にさえぎられ、トンネル歩道は日中でも薄暗い。

 それだから、秘密の恋の逢瀬(おうせ)によく使われる。ときには、陰謀やらなにやらの手紙を、すれちがいざまに握らせることもあるだろう。

 相手の顔を見分けられなかったと、そらとぼけるのに都合がいいのだ。

 ばったり、都合の悪い誰かと行き交うことがあったとしても。ここで見かけたことは、見なかったことにする。それが暗黙の了解になっている。


 いまも至極当然のように、衣服を着崩してクスクスと笑い声をあげる男女がいた。

 マリーは歩く速度をあげた。

 誰と誰が、どんな(みだ)らな行為に(ふけ)っているのか。すこしもわからないうちに、通り過ぎなければ。

 彼らが彼らの都合を優先することを願おう。余計な好奇心に火をつけるつもりは、マリーにはない。

 足早に通り過ぎる黒衣の女が、マリーであると感づかれてはめんどうだ。

 ちかごろ宮廷では、息子から見放され、敵国へと売られる王太后の話題でもちきりだった。


 病弱だと思われていた王太后マリーは、実のところ、持病のために宮廷をあけていたのではなかったのだという。

 先王の生前、妻は夫を裏切り、さまざまな男たちと通じていた。

 その数ときたら、両手の指をすべて折っても足らぬほどだ。


 フランクベルトで禁じられる占い。それから、正体の知れぬ、あやしく、おぞましい(まじな)い。

 王太后マリーは、野蛮な地より伝わる、忌まわしき術を用い、人心を操る。罪なきひとびとをたぶらかす。

 ついには、先王ヨーハンまでもを破滅に導いた。先王は妻の奸計(かんけい)に落ちてしまった。


 王太后マリーは悪徳の限りを尽くした姦婦(かんぷ)であり、邪神や悪魔に通じた、呪わしい悪女。

 悪しき魔女だ。


 新王レオンハルトは、父王が亡くなって初めて、母の悪徳を知った。

 少年王はどれほど苦悩したことだろう。

 しかし高潔なる獅子王は、若くみずみずしい正義感でもって、母を敵国へ送ると決断したのだ。

 罪と悪を裁き、しかしながら、寛大なる愛でもって命を(ゆる)す。

 ああ、すばらしきかな、獅子王レオンハルト二世。

 新王の治世で、フランクベルトはますます栄光にかがやくことだろう。


 とつぜん、マリーの視界が白くひらけた。

 トンネルを抜けた。


 背の高い生垣を右手に曲がる。

 澄んだ水がちょろちょろと流れ、細い水路には装飾的な石橋が架かっている。

 マリーは石橋を渡り、すこし歩いてから、北西の二手に分かれる道のうち、西へ進んだ。

 そうしてようやく、小さな門扉にたどりつく。

 生垣に覆われ、一見すると通り過ぎてしまいそうだ。

 マリーが門扉の前に立つと、奥に潜んでいた衛兵が姿をあらわし、こうべを垂れて礼をした。

 (かんぬき)がはずされ、門扉がひらかれる。マリーは扉の内側へと足を踏み入れた。

 背後から聞こえるのは、扉の閉まる、わずかなきしみ音。


 マリーの目の前で、淡い色合いの、さまざまなバラが咲き誇っていた。

 さきほど見たばかりの、そして、マリーの結い髪にさしてあるのと同じ、シャーベットオレンジのバラも咲いている。

 亡き夫ヨーハンの小庭園だ。


 レオンハルトはいない。その恋人も。

 彼らはすでに去ったようだった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
>触れたところがひきつれ、ぴりぴりとしびれる。 >魔除けの黒曜石が不自然な動きをしている。 こ、怖い~。いったい何なのだろう~。 でも、何がいてもおかしくないよね。 人の念(怨念とか執念)とかも渦巻…
前回のお話でマリーがシャルルに「ミュスカデとジークフリートとの縁組を、ただちに結びなおさなければ」と言ってくれたのは、ほっとしました。 やはりこの二人は、一緒になってほしいですね。 マリーが宮廷内で悪…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ