21 信心と不信心(4)
マリーは室内をぐるりと見渡した。
白と金。大理石彫刻に青銅の杯。たくさんの鏡。
エノシガイオス風ではあるが、トライデントでよく見られる、素焼き粘土やモザイクタイルの品は見当たらない。
それらの品は、父シャルルの好みではないからだ。
いっぽうでエノシガイオスにはない、芸術の都リシュリューならではの、異国風の品々が随所に見受けられる。
この部屋に限らず、フランクベルト宮殿内へも多く献上され、王都周辺でも馴染み深い品。
たとえば、ガラスのピッチャーとガラスの杯。
ガラスの都、ミルフィオリでつくられたのだろう。飲み口をぐるりと金縁が一周し、優美な曲線を描いた芸術的な器だ。
マリーが以前、亡き夫ヨーハンの私室で見かけた品によく似ている。もしかすると、先王ヨーハンの形見だろうか。
形見分けの場にマリーは参席しなかった。
そのころマリーは、リシュリューの地に幽閉されていたし、たとえ誘われたとしても、欠席したことだろう。
それだから、亡き夫ヨーハンの形見を、父が持っているからといって、恨み言をつらねる気はない。
しかし。
「レオンハルトはフランクベルト家の王です」
マリーは顔をあげ、父シャルルを見据えて言った。
「そしてもちろんジークフリートも、フランクベルト家の王子。彼らがフランクベルトの神と国教とを軽視していたのは、父ヨーハンにならっていたからです。ですが、その不信心者ヨーハンはもういない」
「それはそうだが」
シャルルは反抗する娘に、とまどい顔を向けた。
「弟王レオンハルトを支えるジークフリートは、抜け目なく、賢い子です」
マリーは父が反論するまえに、すばやく口をはさんだ。
「あのこであれば、なにがもっとも利となるか、すぐに導き出せるはず。私的な好悪よりも、公的な立場を必ず優先させます」
たくさんの指輪で飾られた、年のわりにシワがなく、なめらかで美しい手が、不満げに顎をしゃくった。
シャルルにとって、思わしくない方向へ話が進んでいる。
しかし、シャルルとてフランクベルト王国の民だ。
それだけではない。建国の七忠、その一柱だ。
国家の樹立にたずさわった名誉ある旧家の子孫であり、それが父の誇りのひとつでもある。
エノシガイオスの血脈だけが、リシュリューの祖ではない。
フランクベルトこそが、リシュリューの忠節を捧げるべき国。守るべき祖国。
そして、王の上級顧問として王の信仰を支えるべきは、リシュリュー家のシャルルではない。
そのことを父には、よくよく思い出してもらわなければならない。
「レオンハルトの改心については、ジークフリートとアングレーム伯に任せましょう」
マリーはきっぱりと言った。
狂信のアングレームは嫌いだ。
夫ヨーハンとの交わりの一部始終を観察していた、あの感情の抜け落ちた瞳。ぞっとする。思い出すたび、今でもおぞけが走る。
女を下等なる生き物とさげすむ国教も大嫌いだ。
けれども、マリーの大嫌いなアングレームと国教。このふたつが、息子たちを救うのだとしたら。
狂信のアングレームであれば、死に物狂いで獅子王を守るだろう。
おのれの命よりも。彼がなによりも崇拝してやまない、理想の獅子王。建国王レオンハルト一世。
その血脈が、野蛮な邪神に汚されることなど。あの男が許すはずもない。
原始の女神。復讐の女神とは、つまり、アングレームの忌むべき邪神。
悪魔、あるいは悪しき魔女に違いないのだ。
「ジークフリートを贔屓にするメロヴィング公も、かならず協力するはずです」
マリーはそう言うと、ほとんど忘れかけていた鈍い痛みが胸をかすめるのを感じた。
産まれたばかりのジークフリートに乳を与えたのは、産みの母マリーではなかった。メロヴィング家を出自とする、今は亡きヴリリエール公爵夫人だった。
レオンハルトもまた、産まれる前から、乳母が決まっていた。メロヴィング公爵オーギュストの末妹だ。
マリーがフランクベルトの息子たちに乳を与えたことなど、一度もない。
赤子だった息子たちを抱いたことも、ほとんどない。いかにも幸福そうな母子の姿を、国家安泰の象徴として、広く見せびらかすことが目的だったときをのぞいて。
息子たちは、母のぬくもりを知らず、メロヴィング家で育ち、守られてきた。
息子たちを育てず、守らず。身勝手に生きる実母の代わりに、メロヴィング家の女たちが、息子たちに教え、与えたのかもしれない。
――愛を。
マリーは思い返した。
バラの棘を落とす、息子の不器用な手つき。うっとうしそうな素振りで、母の手を振りはらったときの、神経質そうな細面。苛立ち。
それから息子は、意外な幼さと未練を見せた。
父親を慕い、母親を恨みながらも、すっかり諦めきってはいないのかもしれない。
ヨーハンが慈しんだ、あの小庭園を『マリーが庇護してきた』だなんて。
メロヴィング家の女たちは、息子たちに示したのだろう。
たとえば、ジークフリートの元婚約者ミュスカデが、息子に与えたような。かけがえのない愛を。信頼を。
「そうとなれば、メロヴィング公女ミュスカデとジークフリートとの縁組を、ただちに結びなおさなければ」
マリーは父シャルルに向かって、有無を言わせぬ力強さで言い切った。
リシュリュー家のシャルルとマリー。
見る者に同じ血脈を想起させる美貌を持った、父と娘。
ふたりはしばし、無言で見つめ合った。
「しかたがない」
シャルルがさきに根負けし、嘆息した。
「しかし、マリー。メリケルテスのことは、おまえに頼むよ」
「ええ、もちろんです」
マリーはほっと安堵の息をつくと、思わずといった具合に口元をほころばせた。
「母親として、メリケルテスをしっかり懐柔しておくれ」
シャルルは気を取り直したようだった。
さきほどまで、ほんのすこしばかり残されていた翳りが、父の顔からすっかり取り払われている。
「それでこそ、おまえとトリトンとの情事を不貞として暴いた際の、七忠どもの不快な侮蔑に耐えた甲斐があるというものだ」
そう言って、シャルルは無邪気に笑った。




