19 信心と不信心(2)
「おお、マリー」
シャルルは青銅の杯をまわり、ふたたび娘マリーのもとへやってきて、娘を抱擁した。
「愛しい我が娘。おまえこそ、調和の女神」
「あまりに畏れ多いことです、お父様」
マリーは身をよじって父の腕から抜け出した。
たとえ軽口だとして、女神と同等にあつかうことなど、不遜もいいところだ。
神々はみずからの領域を犯す者に、いっさいの情けをかけない。
とはいえ、そうした神々の鉄槌がマリー自身にくだされようとも、今のマリーにとって、脅威ではなかった。
マリーはすでに、女神の怒りに触れている。
神々の中で、もっとも古き女神のわざわいを浴びていた。
それだから、マリーが懸念をいだいたのは、べつのことだ。
調和の女神のこどもたちはみな、不幸な死を迎えている。
「すまない」
眉をひそめる娘マリーから軽口を非難され、シャルルはあわてた。
「喜びのあまり、調和の女神を軽んじるようなことを」
そう弁明すると、シャルルは、いくつもの指輪のうち、淡桃色の貝に浮き彫りをほどこした指輪を選んで抜きとった。
「知謀と弁論にすぐれた交渉の男神よ。この指輪を贈ります」
贖罪の捧げものとして、青銅の杯の中へ、シャルルが指輪を投じる。
「私の軽口をあなたの詐術で救ってください」
シャルルの願いを聞き入れたかのように、香灰の燃えかすが宙に舞う。
部屋にたちこめる神秘的で奥深い芳香が、いっそう強まった。
浮き彫りの意匠は、二匹の蛇が螺旋状にまきつき、上部に双翼の生えた、オリーブの杖。
交渉の男神の象徴が刻まれた指輪を、交渉の男神は受け入れたようだ。
転がった指輪のすぐそばにある、青みがかった乳白色の樹脂が、炭の熱を吸い、ひとすじの白い薫煙をたちのぼらせている。
「交渉の男神よ、感謝いたします」
シャルルの顔によろこびが浮かんだ。
父に続いて青銅の杯に捧げものをするべきか、マリーはしばし考えた。
身に着けている品のうち、捧げものにふさわしいもの。金の耳飾りがちょうどいい。
耳飾りのひとつは魚のかたちをしていて、もう片方の耳飾りは獅子のかたちをしている。
調和の女神が捧げものとして好むのは、どちらだろう。
マリーは左耳の金飾りに手をのばし、きらめく魚と獅子とを耳から外した。
手の内の金の耳飾りと、目の前にある青銅の杯。ふたつを見比べ、調和の女神は願いを聞き届けるだろうか、と考える。
青銅は、調和の女神の夫が発見したものだ。
銅と錫がまじりあい、火の力を借りて形をなす青銅。
古代につくられた青銅の杯が、時を経てなお、目の前に健在するように、永久に変わらぬ神の威光と畏怖を感じさせる。
マリーは体をふるわせた。体の芯が冷えきったような寒さを感じた。
神の怒りは変わらない。消え去ることはない。
調和の女神の夫も、その舅である戦の男神の怒りから解放されることはなかった。贖罪はむくわれなかった。
古の時代、調和の女神が産んだこどもたちにふりかかった不幸と、いまにもマリーの息子たちを覆わんとする暗雲。
この不吉な符号だけであれば、迷信じみた思い込みのまやかしとして、一笑にふすこともできる。
「海の男神様、海の女神様」
マリーは魚の耳飾りだけを、青銅の杯に投じた。
「メリケルテスを悪とわざわいから、お守りください」
魚の耳飾りは小さく、軽い。
そのためか、灰が宙に舞うことはなかった。
白煙もまとまることなく、うすく放射状に室内へとけこもうとしているだけだ。
金の魚は鱗を輝かせるようにして、灰の上、樹脂の燃えるかたまりから離れた場所に落ちた。
メリケルテスにはまだ、わざわいの手はのびていないはずだ。
そうであるはずなのに、捧げものは受け入れられなかった。
マリーの胸は暗く沈んだ。
それだけではない。
メリケルテスだけではないのだ。
マリーはこれまで愛をそそぐこともせず、互いに無関心に過ごしてきた息子たちの不幸を、あらためて神々から予言されたような心地になった。
ジークフリートとレオンハルトのふたりを、原始の女神の目から隠すことはできない。
これまでのように、いくらかさきのばしにすることはできても。
「マリー。メリケルテスだけではなく、レオンハルト陛下のためにも捧げものをしなさい」
シャルルは無邪気に言った。
「神の子たる陛下が、父なる神を信じられないのであれば、父ではない神を信じればいい」
魚の耳飾りが灰に隠れたことで、シャルルは娘の捧げものが受け入れられたと楽観視したのだろう。
マリーは獅子の耳飾りを握りしめた。
捧げものが、受け入れられるはずはない。
薄布のベールがマリーのこわばった表情を隠すので、父は娘の恐怖に気づくことはなかった。
「はい」
マリーは今にもふるえそうになる声を、どうにかとりつくろってこたえた。
「では獅子の耳飾りを」
金の魚に続いて、金の獅子が青銅に投じられる。
神の子を称するフランクベルト家が、神として崇めるのは、建国を手助けした神だ。
男神か、あるいは女神であるのかは、あきらかでない。
当代アングレーム伯爵ブノワは、かの神が男神であると信じて疑わないだろう。
彼は彼の先導する国教の訓えどおり、女が男より劣った存在であると公言してはばからない。
フランクベルト家やアングレーム家をはじめとした、フランクベルト人が偉大なる神と認めるのは、建国の神。それから、その神の子たち。
歴代フランクベルト王。獅子王たちだ。
シャルルのいわんとする、父ではない神とはつまり、エノシガイオスの神々のこと。
しかし。
エノシガイオスの神々を、いや、女神を信じるのであれば、マリーの息子たち、ジークフリートとレオンハルトは。
「この世でもっとも古き、原始の女神様」
つめたくしびれた指先をぎこちなく動かし、マリーはひたいからまぶた、それからくちびる、最後に心臓へと呪いのしるしを刻んだ。
「復讐の女神様。愚かなるこの母の祈祷に免じて、ジークフリートとレオンハルトを見逃してください」
樹脂の燃えるかたまりは、とつぜんその燃焼をとめた。
軽い耳飾り程度では転げるはずのない大きな樹脂が、香炭の上から落ち、ごろりと横転する。
ぞっとするような黒褐色に燃えた痕が、おもてにさらされた。
マリーはうつろに、父シャルルの顔を見上げた。
マリーとシャルルとのあいだには、樹脂からは立ち消えになった白い煙がたゆたっている。
ゆらゆら。ふらふら。
一筋の白い煙は、不規則な弧を描き、しだいにマリーの瞳の奥底へ、渦となってもぐりこむ。
ほら貝のような煙の渦が、不吉な黒褐色の燃え痕といっしょになって、マリーをあざ笑う。
復讐の女神の、決して忘れ去られることのない執念が、ひしひしと伝わってくる。
白煙がマリーの目や鼻、耳に入り込んで、マリーの頭蓋骨の中でおぞましい歌を歌っている。
近かったり遠かったり。低かったり高かったり。優しかったり厳しかったりする女神の笑い声が、マリーの心臓をいっときなでては遠ざかる。
心臓はおそろしいはやさで鼓動を刻んだ。
体中へと送り出される血があちこちで、どくどくと熱く激しく脈打った。
フランクベルトとエノシガイオスの両方を受け入れたリシュリューの血脈が、マリーの体内で暴れている。
ジークフリートとレオンハルト。
マリーの息子たちは、あきらかに、つけ狙われている。
もっとも古き、原始の女神。
復讐の女神に。
なぜなら、息子たちの父ヨーハンは、父殺しの罪を犯したのだから。
復讐の女神は、ひとびとが文字を使い、文明を築くよりずっと昔、太古の時代から存在した。
そして肉親殺しの罪人を、残酷なやりかたで葬ってきた。ひとりとして逃すことなく。




