表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
179/212

19 信心と不信心(2)




「おお、マリー」

 シャルルは青銅の杯をまわり、ふたたび娘マリーのもとへやってきて、娘を抱擁(ほうよう)した。

「愛しい我が娘。おまえこそ、調和の女神」


「あまりに(おそ)れ多いことです、お父様」

 マリーは身をよじって父の腕から抜け出した。


 たとえ軽口だとして、女神と同等にあつかうことなど、不遜(ふそん)もいいところだ。

 神々はみずからの領域を犯す者に、いっさいの情けをかけない。


 とはいえ、そうした神々の鉄槌(てっつい)がマリー自身にくだされようとも、今のマリーにとって、脅威(きょうい)ではなかった。

 マリーはすでに、女神の怒りに触れている。

 神々の中で、もっとも古き女神のわざわいを浴びていた。

 それだから、マリーが懸念(けねん)をいだいたのは、べつのことだ。


 調和の女神のこどもたちはみな、不幸な死を迎えている。



「すまない」

 眉をひそめる娘マリーから軽口を非難され、シャルルはあわてた。

「喜びのあまり、調和の女神を軽んじるようなことを」



 そう弁明すると、シャルルは、いくつもの指輪のうち、淡桃色の貝に浮き彫りをほどこした指輪を選んで抜きとった。



知謀(ちぼう)と弁論にすぐれた交渉の男神よ。この指輪を贈ります」

 贖罪(しょくざい)の捧げものとして、青銅の杯の中へ、シャルルが指輪を(とう)じる。

「私の軽口をあなたの詐術(さじゅつ)で救ってください」



 シャルルの願いを聞き入れたかのように、香灰の燃えかすが宙に舞う。

 部屋にたちこめる神秘的で奥深い芳香が、いっそう強まった。


 浮き彫りの意匠は、二匹の蛇が螺旋(らせん)状にまきつき、上部に双翼(そうよく)の生えた、オリーブの杖。

 交渉の男神の象徴が刻まれた指輪を、交渉の男神は受け入れたようだ。

 転がった指輪のすぐそばにある、青みがかった乳白色の樹脂が、炭の熱を吸い、ひとすじの白い薫煙(くんえん)をたちのぼらせている。



「交渉の男神よ、感謝いたします」

 シャルルの顔によろこびが浮かんだ。


 父に続いて青銅の杯に捧げものをするべきか、マリーはしばし考えた。

 身に着けている品のうち、捧げものにふさわしいもの。金の耳飾りがちょうどいい。

 耳飾りのひとつは魚のかたちをしていて、もう片方の耳飾りは獅子のかたちをしている。

 調和の女神が捧げものとして好むのは、どちらだろう。


 マリーは左耳の金飾りに手をのばし、きらめく魚と獅子とを耳から外した。

 手の内の金の耳飾りと、目の前にある青銅の杯。ふたつを見比べ、調和の女神は願いを聞き届けるだろうか、と考える。

 青銅は、調和の女神の夫が発見したものだ。


 銅と(すず)がまじりあい、火の力を借りて形をなす青銅。

 古代につくられた青銅の杯が、時を経てなお、目の前に健在するように、永久に変わらぬ神の威光と畏怖(いふ)を感じさせる。


 マリーは体をふるわせた。体の芯が冷えきったような寒さを感じた。

 神の怒りは変わらない。消え去ることはない。

 調和の女神の夫も、その(しゅうと)である戦の男神の怒りから解放されることはなかった。贖罪(しょくざい)はむくわれなかった。


 (いにしえ)の時代、調和の女神が産んだこどもたちにふりかかった不幸と、いまにもマリーの息子たちを覆わんとする暗雲。

 この不吉な符号(ふごう)だけであれば、迷信じみた思い込みのまやかしとして、一笑(いっしょう)にふすこともできる。



「海の男神様、海の女神様」

 マリーは魚の耳飾りだけを、青銅の杯に投じた。

「メリケルテスを悪とわざわいから、お守りください」



 魚の耳飾りは小さく、軽い。

 そのためか、灰が宙に舞うことはなかった。

 白煙もまとまることなく、うすく放射状に室内へとけこもうとしているだけだ。

 金の魚は(うろこ)を輝かせるようにして、灰の上、樹脂の燃えるかたまりから離れた場所に落ちた。


 メリケルテスにはまだ、わざわいの手はのびていないはずだ。

 そうであるはずなのに、捧げものは受け入れられなかった。

 マリーの胸は暗く沈んだ。


 それだけではない。

 メリケルテスだけではないのだ。

 マリーはこれまで愛をそそぐこともせず、互いに無関心に過ごしてきた息子たちの不幸を、あらためて神々から予言されたような心地になった。


 ジークフリートとレオンハルトのふたりを、原始の女神の目から隠すことはできない。

 これまでのように、いくらかさきのばしにすることはできても。



「マリー。メリケルテスだけではなく、レオンハルト陛下のためにも捧げものをしなさい」

 シャルルは無邪気に言った。

「神の子たる陛下が、父なる神を信じられないのであれば、父ではない神を信じればいい」



 魚の耳飾りが灰に隠れたことで、シャルルは娘の捧げものが受け入れられたと楽観視したのだろう。

 マリーは獅子の耳飾りを握りしめた。

 捧げものが、受け入れられるはずはない。

 薄布のベールがマリーのこわばった表情を隠すので、父は娘の恐怖に気づくことはなかった。



「はい」

 マリーは今にもふるえそうになる声を、どうにかとりつくろってこたえた。

「では獅子の耳飾りを」



 金の魚に続いて、金の獅子が青銅に投じられる。


 神の子を称するフランクベルト家が、神として崇めるのは、建国を手助けした神だ。

 男神か、あるいは女神であるのかは、あきらかでない。

 当代アングレーム伯爵ブノワは、かの神が男神であると信じて疑わないだろう。

 彼は彼の先導する国教の(おし)えどおり、女が男より劣った存在であると公言してはばからない。


 フランクベルト家やアングレーム家をはじめとした、フランクベルト人が偉大なる神と認めるのは、建国の神。それから、その神の子たち。

 歴代フランクベルト王。獅子王たちだ。


 シャルルのいわんとする、父ではない神とはつまり、エノシガイオスの神々のこと。


 しかし。

 エノシガイオスの神々を、いや、女神を信じるのであれば、マリーの息子たち、ジークフリートとレオンハルトは。



「この世でもっとも古き、原始の女神様」

 つめたくしびれた指先をぎこちなく動かし、マリーはひたいからまぶた、それからくちびる、最後に心臓へと(まじな)いのしるしを刻んだ。

「復讐の女神様。愚かなるこの母の祈祷(きとう)に免じて、ジークフリートとレオンハルトを見逃してください」



 樹脂の燃えるかたまりは、とつぜんその燃焼をとめた。

 軽い耳飾り程度では転げるはずのない大きな樹脂が、香炭の上から落ち、ごろりと横転する。

 ぞっとするような黒褐色に燃えた痕が、おもてにさらされた。


 マリーはうつろに、父シャルルの顔を見上げた。

 マリーとシャルルとのあいだには、樹脂からは立ち消えになった白い煙がたゆたっている。


 ゆらゆら。ふらふら。

 一筋の白い煙は、不規則な弧を描き、しだいにマリーの瞳の奥底へ、(うず)となってもぐりこむ。


 ほら貝のような煙の渦が、不吉な黒褐色の燃え痕といっしょになって、マリーをあざ笑う。

 復讐の女神の、決して忘れ去られることのない執念が、ひしひしと伝わってくる。

 白煙がマリーの目や鼻、耳に入り込んで、マリーの頭蓋骨の中でおぞましい歌を歌っている。

 近かったり遠かったり。低かったり高かったり。優しかったり厳しかったりする女神の笑い声が、マリーの心臓をいっときなでては遠ざかる。


 心臓はおそろしいはやさで鼓動を刻んだ。

 体中へと送り出される血があちこちで、どくどくと熱く激しく脈打った。

 フランクベルトとエノシガイオスの両方を受け入れたリシュリューの血脈が、マリーの体内で暴れている。


 ジークフリートとレオンハルト。

 マリーの息子たちは、あきらかに、つけ狙われている。

 もっとも古き、原始の女神。

 復讐の女神に。


 なぜなら、息子たちの父ヨーハンは、父殺しの罪を犯したのだから。


 復讐の女神は、ひとびとが文字を使い、文明を築くよりずっと昔、太古(たいこ)の時代から存在した。

 そして肉親殺しの罪人を、残酷なやりかたで(ほうむ)ってきた。ひとりとして逃すことなく。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 不吉ですね。 神様なんかいない……と言い切れないのは、いるともいないとも証明できないから。 そこが宗教の困ったところですもんね笑。 エノシガイオスの神々はギリシャ神話系でしょうか? 父殺…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ