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18 信心と不信心(1)




 いずれエノシガイオスの公母夫人として、間違いなく君臨すること。

 それはつまり、エノシガイオスの濃紺の空を、フランクベルトの青と赤の血に染めてゆけ、ということか。


 薄布の黒いベールの下、マリーはかすかに笑った。

 そんなはずはない。



「不信心者は信用ならない。なぜなら悪をなすことに、(おそ)れないからだ」

 シャルルはマリーではなく、乳白色の大理石彫刻と向きあい、神に救いを求めるように、あるいは懺悔(ざんげ)するように言った。

「罪が小さければ。罪が露見(ろけん)しないようであれば。神の(ゆる)しを求めない者たちは、さまざまな理由をつけて、軽々しく、意義のない罪を犯す」



 リシュリュー侯爵の部屋には、神々の彫刻が三柱あった。

 天空の男神、海の男神、冥界の男神。

 乳児の沐浴(もくよく)にもちいるのに最適な大きさの、ひらたい青銅の杯を見下ろすようにして、神々は立っている。


 青銅の杯は、リシュリューの始祖が、エノシガイオスの兄と(たもと)をわかった際に、兄より贈られた品だそうだ。

 杯の中には珪藻土灰(けいそうどばい)がしきつめられ、そのうえに樹脂の燃えるかたまりが、無造作に置かれている。

 扉をあけた途端に感じられた芳香は、この香杯から放たれていたのだ。



「『罪を犯す』ということだけでしたら、信心者も不信心者も、たいしてかわりないことでしょう」

 マリーは父に反論した。


 それほど熱心に、というわけではない。

 マリーはヨーハンのもとへ嫁ぐ以前にも、父シャルルと同じ問答(もんどう)をしたことがあった。

 父の考えをくつがえすことができるとは、思っていない。


 あのときは、「敬虔(けいけん)な信心者は、その信仰心を大義に、罪を犯します」とつけ加えたのだった。



「信仰を根拠とした欺瞞(ぎまん)の罪を、神々はお赦しになるのでしょうか」

 幼馴染の友人ヨーハンをかばうつもりで、マリーはかつて、父シャルルに異を唱えた。

「赦す神もいるでしょう。赦さぬ神もいるでしょう。そうであれば、信心者と不信心者も、傲岸不遜(ごうがんふそん)。無知な罪人であることに、なんら変わりないのではないですか。みな等しく罪人であれば、みな等しく信用できず、みな等しく信用に値します」



 シャルルはヨーハンが王太子であったころから、その不信心ぶりを(うれ)いていた。

 息子ヴィエルジュと娘マリーが、不徳なフランクベルト王太子と友情を築くことで、彼を改心させられないか。

 シャルルの言葉の端々からは、そのような思惑が透けて見えた。


 ヨーハンの父、親愛王アルブレヒトは、シャルルの望みならば、それがなんであれ、受け入れた。

 彼のたったひとりの息子ヨーハンの、教育についてもそうだ。

 親愛王は喜んで、シャルルの具申をのんだ。


 たとえば、フランクベルト王太子が、フランクベルトの建国神話を信じられぬのであれば、代わりにエノシガイオスの神々を信仰すればよい、といったことだとか。


 フランクベルトとエノシガイオス。

 二国間の友好的講和と、文化的調和。

 その架け橋となること。

 それこそが、かつて、シャルルの夢見たこと。

 神々を尊び、美しいリシュリューを愛し、祖であるエノシガイオスに憧れるシャルル。

 理想を語るシャルルに他意はなく、彼はただ、夢に純真であるだけだった。

 そんな無邪気で美しいシャルルを、親愛王は愛した。


 しかしシャルルに格別の理解を示した親愛王アルブレヒトは、もはやこの世にない。

 その息子ヨーハンですら。


 ではシャルルが、いまこうして娘マリーへと、エノシガイオスの公母夫人となるべく指示する、その最終目的とは。


 シャルルに害意はないのだ。

 マリーは諦念(ていねん)を抱きながら、ある日の父とのやりとりを思い返す。



「信心者も不信心者も、みな等しく罪人であれば、みな等しく信用できず、みな等しく信用に値します」

 マリーは以前、父シャルルに反論したのとまったく同じ内容を、ふたたび繰り返した。



「言葉遊びをしたいのではないよ、マリー」

 シャルルは困ったように眉を寄せた。

「おまえも知ってのとおり、私は賢くふるまうつもりはない。神々と、それから我が心にしたがうだけだ」



 シャルルは娘マリーの肩に手をのせ、「神話をもちいて、あれこれ理屈をこねくりまわすのは、賢い神学者にまかせよう」と言った。

 父の指はさまざまな美しい宝石でいろどられていて、そこから放たれる色とりどりの輝きが、娘の顔を覆う黒いベールにうつりこんだ。


 シャルルが娘マリーの(あお)い瞳を、ベール越しにのぞきこむ。

 父は娘にやさしくほほえみかけると、その手をゆっくりとおろした。


 なめらかな朱子織(しゅすおり)シルクの、裾の長い上衣がふわり、淡紫の光の帯を描くようにして、マリーから離れていく。

 シャルルは青銅の杯をはさんで向こう、神々の像の背後に立った。


 大きな鏡が、壁という壁のあらゆるところにとりつけられていて、神々の彫刻や、白と金を基調としたエノシガイオス風の装飾様式、それから父シャルルを浮かび上がらせた。

 その光景は、まるでここが、ふりそそぐ陽光のまぶしいリシュリューの地であるかのように錯覚させるようだった。

 貴重で高価な鏡が、窓からさしこむ稀少な光を反射させるからだ。


 曇天に覆われた陰鬱なフランクベルトでは、屋内外(おくないがい)ともに薄暗いのが常だ。

 しかしリシュリュー侯爵の部屋にいたっては、いつの時代にあっても、馬の脚を借りて幾日もかかるはずの旅を、扉ひとつ開けただけで瞬時に飛び越え、リシュリューへと至ることができる。


 

「メリケルテスのトゥーニス強襲を、神々はお赦しになるだろうか」

 シャルルは冥界の男神の肩に腕をまわし、男神とマリーとの顔を見比べた。

「マリー。おまえはどう考えるかな」


「平時は冥界に住まう、復讐の女神様は赦されるでしょう」

 マリーはこたえ、天空の男神を見上げた。

「天空に住まう(いくさ)と破壊の男神様も、お喜びになられるかもしれません。しかし、おなじく天空に住まう、戦と守護の女神様、それから平和と裁き、正義の女神様は、お怒りになるでしょう」


「そうだね。私もそう思う」

 シャルルは満足そうにうなずいた。

「復讐の女神は、仇討(あだう)ちをなさねば、メリケルテスをエノシガイオス人として赦さないだろう。それだから、仇討ちそのものは、けっして罪ではない」


「狂乱と破壊を好む、戦と破壊の男神は、あの強襲の中、トゥーニスに降り立つことさえ、なされたかもしれない」

 シャルルは冥界の男神から離れ、やれやれ、というように肩をすくめた。

「しかし、抵抗するすべなく襲われた無辜(むこ)の民や、トゥーニス島の荒廃を目の当たりにした、戦と守護の女神、正義の女神の二神(にしん)は、お怒りだろう。このままでは、メリケルテスはエノシガイオスの君主となるまえに、審判にかけられてしまう」


「『エノシガイオス公子メリケルテスの母として、神々の赦しを乞い、息子が正しい道へと進むべく手助けするように』」

 マリーはここにきて、父シャルルの目的をさとった。

「お父様はそうおっしゃるのですね」


「美しく賢いマリー。自慢の娘だ」

 シャルルは喜びを顔一面に浮かべて破顔(はがん)した。

「それだけではないことも、おまえなら、きっとわかるね」



 交渉の男神の助けを得て、現フランクベルト王レオンハルトの母、また次期エノシガイオス公メリケルテスの母として、フランクベルトとエノシガイオスの講和をめざせ。

 そして、信心者メリケルテスと不信心者レオンハルトの、悪へと堕ちかけた魂を救え。


 シャルルは、青銅の杯をはさんだ向こうに立つ娘マリーに笑いかけた。


 青銅の杯からたちのぼるのは、おだやかな樹木の香り。

 それから、すすけたような刺激的な香りと、ほのかに甘い柑橘類。

 それらが組み合わさった、深く神秘的な芳香が、シャルルとマリーの父娘を包み込む。



「もちろんです」

 マリーは父シャルルの望みを、すみずみまで理解し、うなずいた。




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― 新着の感想 ―
[良い点] >シャルルの望みならば、それがなんであれ、受け入れた。 親愛王とシャルルって一体どういう関係だったんだろうか。 なんでも受け入れるって、寵臣が過ぎるような? >そんな無邪気で美しいシャ…
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