17 リシュリュー侯爵シャルル
リシュリュー侯爵シャルルは供のひとりもつけず、回廊途中に立っていた。
窓から差し込む淡い陽光。
壁掛けの燭台。くわえて、天井から鎖でつりさげられた、豪華な装飾の巨大な集合蝋燭といった、炎の明かり。
それらの光を反射する、たいらで大きな鏡。
鏡は、窓とは反対側の壁を覆うように、回廊中に取りつけられている。
陽光、蝋燭の炎、鏡による反射光。
さまざまな光を浴びるシャルルは、舞台に立つ役者のようだ。
まばらに行きかう宮廷人は、美しい老侯爵をちらちらと盗み見ては、こっそりほほえんだ。
宮廷人からの覗き見の視線に、シャルルは慣れている。
とりたてて気にとめることもない。
彼はアーチ型の窓枠によりかかるようにして、ガラス越しの中庭をなんとはなしに眺めた。
ゆがみも不純物もない、美しい一枚ガラスを通じて見えるのは、さまざまな動物の形に刈り込んだ、イチイの木。
動物の意匠は、中央に獅子。
左端に鷲、右端に蛇。そのあいだを埋めるように、梟、馬、蛙、豚が等間隔に配置されている。
もちろん、シャルルが当主をつとめるリシュリュー家の象徴、蝶の造形樹木もある。
蝶は蛇の左どなりだ。
動物のトピアリーのうしろには、ツゲの木だろうか。整然と刈られた生垣がある。
幾何学的に配された様子はまるで迷路のようになっていて、生垣のあいだを散歩している者もいる。
ゆらゆらとなにかが揺れることに、シャルルは目をとめた。
織布から垂れ下がった、亜麻色の房飾り。日傘だ。
さまざまな模様の折り込まれた上等の織布が、四本の支柱でぴんと張られている。
四人の扈従が日傘を支え、そのしたを貴婦人が歩く。
婦人の前を歩く貴顕男性は、歩く速度がはやすぎないよう、うしろを振り返りながら、会話を楽しんでいるようだ。
彼らのうしろには、籠持ちの扈従がつきしたがう。
彼らの行き先は、中央に据えられた噴水か。それとも庭はずれにある、川沿いの小山庭園だろうか。
そちらにも小さな噴水があり、噴水へと続く水路のわきにはこの時期、色とりどりの花が咲き乱れていることだろう。
王国東寄りの景観を模した庭だ。
あるいは、彼らが向かうのは、香りの庭かもしれない。
そちらもまた、今が盛りの花が植えられている。
香りのよい花ばかりが集められていて、そこで収穫した花は、香水の素材となる精油に用いられる。
宮殿には、たくさんの庭園があった。
暇をもてあました宮廷人は、宮殿を取り囲む庭園を練り歩くことで、広大なフランクベルト王国各地を旅して回るかのような気分を味わえるというわけだ。
シャルルがいま、回廊からのぞいている中央庭園には、洗練された様式美があった。
来訪する者たちへと、広く開かれた庭。
マリーとジークフリートがさきほどまで問答していた、素朴な小庭園とは趣が異なった。
「リシュリュー侯」
おのれを呼ぶ声に、シャルルは窓の外へとやっていた視線を回廊へとなおした。
彼の孫である摂政王太子ジークフリートが、王太后マリーを引き連れ、やってくるところだった。
祖父もまた、孫と娘のほうへと歩き出す。
彼の羽織る、裾の長い上衣が揺れた。
なめらかな朱子織シルクの上を、淡い紫色のこまやかな光がすべりおちる。
「これは殿下。我が娘をお連れいただきまして――いえ」
己の発言を取り消したシャルルは、胸に手を当て、うやうやしくこうべをたれた。
「王太后陛下におかれましても、尊きおふたかたをお呼びするなど、慮外なる非礼をお詫び申し上げます」
波打つ金髪に囲われた祖父シャルルのつむじを、その孫ジークフリートは黙って見つめた。
彼の娘マリーは王太后として、まずは「許します」と告げた。
「お父様、どうぞ楽にしてください」
マリーは一歩前に出た。
顔をあげた父シャルルへとマリーが近寄ると、彼は娘の肩に手を置いた。
それから、娘の背後に立つ孫ジークフリートへと視線を移す。
「殿下」
シャルルは娘マリーの体向きをぐるりと回転させ、娘と孫とを向かいあわせて言った。
「娘をお借りしたい。ふたりきりで話す機会をいただけますか」
ジークフリートは、祖父シャルルの求める用向きがためだけに、王の小庭園まで母マリーを呼びにいったのだ。
もちろん彼は「どうぞ」とうなずいた。
「では、私はこれでしつれいする」
ジークフリートは祖父と母に背をむけ、歩き出した。
「フィーリプ」
彼は歩を止めることなく、鏡の壁へ視線をやり、扈従を呼びつける。
そこには彼の異母弟フィーリプがいた。
めずらしくも騒ぎを起こさず、静かに控えていたらしい。
身なりも整えられている。
ブラウスの襟紐を鎖骨のまえで結び、そのうえにキルトのダブレット。
腰には長剣をひっかけた硬革のベルトが巻かれ、その先は、へその下あたりでぐるりと一巡させて垂らしてある。だらしなく、なすがままにぶらさげているというわけではない。
貴顕からの着古しを預かった、妙に派手な衣装を身にまとう吟遊詩人のようだったり。
あるいは、うす汚れた灰色のチュニックをかぶるだけの隠者もどきのようだったり。
そういった捨て鉢の放蕩者然とした、以前のフィーリプではなかった。
王族としての身分をはく奪された、元王子フィーリプは、摂政王太子ジークフリートの扈従として、すっかりその役に馴染んでいるようだった。
「はい、ただいま」
フィーリプはにこやかに応じ、異母兄のうしろを素直につきしたがう。
シャルルとマリーの父子は、ふたりの兄弟の背を見送った。
リシュリューの血脈を継ぐ高貴なるジークフリートと、下賤なる出自の卑しい裏切り者フィーリプ。
父を同じくし、母を違えるふたりの青年。
明暗を分けた彼らの人生そのものをあらわすかのように、ジークフリートは光の回廊を進み、フィーリプはその陰を歩いた。
「さて、マリー」
シャルルは娘マリーの背に手をあて、歩を進めるよういざなった。
「出立前に、おまえには言い含めておかなければならないことがある」
マリーはベールに覆われた顔を、父シャルルへと向けた。
黒い薄布ごしに、父シャルルの美しいほほえみが見えた。
兄ヴィエルジュと似ているようで、決定的に違う。無邪気な、害のない蝶のほほえみ。
「我が愛しの娘、マリー」
歴代リシュリュー侯爵に与えられた部屋へすべりこむやいなや、シャルルは切り出した。
「おまえにはかならず、エノシガイオスで公母夫人としての地位を築いてもらいたい」
マリーはベールの下に、そっと手を差し入れた。
首から上へと指先をゆっくりと這わせる。
編み込んだ髪の凹凸を越え、指先はやがて、バラへとたどりついた。




