15 母と息子(1)
「ずいぶん、さがしました」
評議会に参席していたときとおなじ、青いチュニック姿のジークフリートが、もうひとりの人物と対面している。
茂みに身をひそめるナタリーとレオンハルトは、息をつめ、様子を見守った。
葉と葉の隙間からのぞく、摂政王太子ジークフリートの横顔。彼はいつもどおり、まるで人形のように無感情で、直立不動だ。
風に揺れるのは、彼の淡い金髪や、シルクベルベットの裾、金の組み紐だけで、目にかかるうっとうしそうな前髪ですら、はらおうとしない。
「ねえ、レオン」
中腰で身をひそめるナタリーは、腕の中のレオンハルトに小声でささやいた。
「出て行ってもよさそうじゃない? というよりも、姿を見せたほうが――」
「だまって」
レオンハルトはぴしゃりと言った。
それから「しばらく、しずかにしてくれ」と釘をさすのも忘れなかった。
ナタリーは黒い目玉をぐるりと回し、「わかったわ」と小声でうなずいた。
不満げなナタリーの鼻息が、レオンハルトの、ぴんと立った耳にふきかかる。
黄金の毛がふわふわ揺れるのを見て、ナタリーはくちもとをゆるめた。
生意気な口を聞かれようと、仔獅子姿の愛らしさのまえでは、すべて許せてしまう。
腕の中の小さいぬくもりにあらためて注意を向ければ、自然と、胸から愛しさが呼びおこされる。
まあ、いいわ。
ナタリーはレオンハルトに素直にしたがうことにした。
本人が会いたくないというのなら、しかたがない。無理じいするようなことじゃない。薄情だとは思うけれど。
情の乏しそうなジークフリートでさえ、実母との別れを惜しんでいるようなのに。
「さがしていたの? 私を? あなたが?」
黒いベールを頭からかぶった黒衣の貴婦人が、ジークフリートへと振り返る。
「めずらしいことが続くものだわ」
薄布のベールをふうわりと風にたなびかせ、その下から、しっかりと編み上げた黄金の艶髪がちらりと見えた。
優しく澄んだ声。
漆黒の闇を思わせるドレスとは対照的な、光り輝く白い手首。
ゆったりとした黒衣に身を包んでいてもわかる、美しい立ち姿。
離れているこちらまで、そのかぐわしい香りが届き、鼻をかすめるかと錯覚するような、優美なしぐさ。
「リシュリュー侯があなたに伝えたいことがあると」
ジークフリートは貴婦人の軽口につきあわず、突き放すような口ぶりで言った。
「ああ、お父様が」
貴婦人は納得した様子で、うなずいた。
「わかりました。まいります」
夫ヨーハンの喪に服しているのだろう。
王太后マリーは全身を黒衣に包んでいた。
「こちらへ」
ジークフリートが儀礼的に母マリーへと手をさしのべる。
「まあ」
マリーは息子の白い手袋に覆われた手に目をとめ、ベールの下でほほえんだ。
「優しいこと」
息子に従い、黒い手袋に覆われた手をゆっくりと挙上したところで、マリーははたと止まった。
息子の肘にかけられなかった母の手が、ふらりさまよう。
「母上」
ジークフリートは眉をひそめた。
「まだあなたは、私を母と呼んでくれるのね」
息子の呼びかけに、マリーは声をはずませた。
「立ち止まったりして、ごめんなさい。この庭の思い出に、バラが一輪、欲しくて」
マリーがシャーベットオレンジのバラへと手をのばす。
ジークフリートは小さく嘆息すると、腰に引っ掛けた革のベルトホルダーから、ダガーを引き抜き、その鞘をはらった。
「こちらでよろしいですか」
抜き身の白刃を黄緑色の細い茎に当て、ジークフリートはたずねた。
「ええ、おねがい」
マリーはまるで夢見る乙女のように胸元を両手でおさえ、うなずいた。
ジークフリートは母のわがままにつきあい、ダガーでバラの茎を切ってやった。
剣を使い慣れていないとはいえ、草花の細い茎を切る程度のことであれば、見苦しくないようなすばやさで、剣をふるうことができた。
「どうぞ」
ジークフリートがみずみずしいバラを差し向けるので、マリーは嬉しそうにバラを受け取った。
「ありがとう」
マリーは細い茎を指でつまむようにして持ち、それから首をかしげた。
「ダガーを貸してくださる?」
「なにをなさるおつもりですか」
ジークフリートは気色ばみ、ダガーを鞘におさめた。
「棘を落としたいの」
マリーは息子の懸念をあっさりと否定し、茎がよく見えるよう、バラを持ち上げてみせた。
「バラには棘があるのよ。あなたがいつか、みずからの手で女性にバラを贈るようなことがあるのなら、覚えておくといいわ」
ジークフリートは黙って母の手からバラの花を取り上げた。
とがった棘と丸い葉のひとつひとつが、ダガーで切り落とされる。
棘は直線的に地に落ち、いっぽうで小ぶりな緑の葉は、それよりも遅く、ひらひらと舞い落ちた。
息子の不器用な手つきを、マリーはじっと見つめた。
棘が残されていないか、白い手袋ごしの指先が、細い茎をなぞっていく。
確認し終えたようで、ジークフリートが「どうぞ」と母にバラを差し出す。
「ありがとう、ジークフリート」
マリーはふたたびバラを受け取ろうと、差し出された息子の手ごと、彼女の手で包み込んだ。
マリーの黒い手袋と、ジークフリートの白い手袋。どちらも美しい艶の朱子織シルク。
「ご満足ですか」
ジークフリートが母の手をふりはらう。
彼にしては、つねよりやや乱暴なそぶりだ。
「ええ、じゅうぶんよ」
マリーはバラをそっと、黒いベールの下にしのばせた。
編み込まれた髪にさしたバラが、ベール越しに透けて見える。
マリーが手をおろすと同時に、シャーベットオレンジの花弁が一枚、はらりと散った。
地を覆う黄緑色の芝生の上に、先端がフリル状になったシャーベットオレンジの花弁がひとひら。
せっかくのバラがベールに隠されている。
ジークフリートは母から目をそらした。
庭園に植わったバラをぐるりと眺める。
入口のアーチにからみつく、小さな白いつるバラ。
それから、薄紅色の花弁が幾重にも重なるもの。白い一重の花弁に黄色い花芯の素朴なもの。花弁の先端がフリル状になったシャーベットオレンジの、可憐な品を感じさせるもの。
愛らしいオールドローズで埋め尽くされている。
先王ヨーハンから続く、王のための小さな私的庭園。
「これまであなたが庇護してきた、この庭園は、現状のまま守ります」
ジークフリートは『あなたが』のところにさしかかると、不自然に強調して言った。
「安心してエノシガイオスへ旅立たれますよう」
虚をつかれたのか、マリーはすぐには返事をしなかった。
すこし間があき、「ありがとう」という、母から息子への感謝の声が聞こえた。
「では、まいりましょう」
今度は手をさしのべることなく、ジークフリートは母に背を向けた。
「ええ」
マリーはうなずきながらも、ふと気がついた、というように、顔の向きを変えた。
ベール越しのために、はっきりとはわからない。
だが、王太后マリーの視線のさきには、その息子である新王レオンハルトとその恋人ナタリーの隠れる茂みがある。
「ねえ、レオン」
ナタリーはどぎまぎして、レオンハルトにささやいた。
「王太后陛下は、あたし達がここにいるのをご存知なんじゃ――」
「だまって」
やはりレオンハルトはとりつくしまなく、ぴしゃりと言った。
ナタリーは腕の中の小さな獣を、地面にたたきつけてやりたくなった。
なんて薄情なの!
今にも口をついてどなりつけそうになるのを、ナタリーはどうにかこらえ、奥歯をかみしめた。
近日中に敵国エノシガイオスの直轄領トライデントへと出立する、フランクベルト王太后マリー。
王としてではなく息子として。
レオンハルトが出立前のマリーと私的に言葉を交わせるのは、これが最後の機会かもしれないのに。




