14 乙女と娼婦(3)
女扈従は、もうひとりの女扈従と連れ立って、格子で囲われた窓ではなく、より新鮮な空気の出入りする出口付近へと移動した。
強烈な腐敗臭を逃がすため、扉は回廊へと放たれている。
「あの気の毒な娘ジャンヌは」
ヴィエルジュは女扈従らをしり目に、ハエをうっとうしそうに手で払った。
「誰からも美しいと称えられるような類の男を愛し、そしてなにより、愛されたいのだ。それこそおまえのいう、娼婦のような真似事ですら、なんの枷にもならない」
口にすればするほど、ヴィエルジュは、ますますジャンヌが哀れに思えた。
蝶のリシュリューらしく、容貌に優れた女扈従が、あちこちへ仕掛ける色ごと。それらはすべて、彼女の自尊心と享楽を満たすだけの暇つぶしだ。
しかし、ヴリリエールのジャンヌが仕掛けんとする蛇の罠に、色ごとはその候補にないだろう。
色ごとは、ジャンヌにとって、容易ならざることだ。
他者からの評価以前に、ジャンヌ自身が、そう信じきっている。
なぜなら。
「あの娘の枷はむしろ、父親にある」
美しいと断じたすべてを徹底的に拒絶し蔑む、かつてのアンリを思い出し、ヴィエルジュは言った。
マリーの脳裏にちらつく娘ジャンヌの姿が、彼女の父アンリにとって代わる。
ジャンヌを醜いとは思わない。
だがアンリは違う。
あれは醜い。あれの歪んだ劣等感は、とても醜い。
芸術を愛するリシュリューの人間として、ヴリリエールのアンリとは決して、相容れることはない。
ぶんぶんと飛び回るうっとうしいハエの羽音が、アンリへの苛立ちをかさ増しする。
「哀れな娘ジャンヌを救ってやりなさい。そしてフランクベルトとエノシガイオス、両国民を君主同士の私怨から救いなさい」
ヴィエルジュは妹マリーの顔つきが変わったことに気がつき、うしろに反らしていた背をあらため、身を起こした。
「トリトンから『一緒に政治をしよう』と誘われたと。おまえはそう言ったろう。なればいまこそ、トリトンの息子メリケルテスと政治をすればいい」
淡紫の朱子織シルクが、あらわになっていたヴィエルジュの足首を覆う。
彼は上衣の裾にできた染みに、目をやった。
「これはもう、着られないな」
ヴィエルジュは裾を指でつまみあげ、どこかおどけたような圧し口をつくった。
「なかなか気に入っていたのだが」
「メリケルテスと政治を」
マリーは驚き、思わずといった様子で、兄の言葉を繰り返した。
ヴィエルジュの道化ぶりは、妹にすっかり無視された。
兄はつまんだ裾を手放し、彼らしいほほえみを浮かべた。
なめらかな光沢の上を、海辺の砂のようなこまやかな光が滑り落ちる。
マリーは身をすくませた。
「トリトンと政治をなすことは、もはや叶わぬ夢だが、おまえがおまえの息子メリケルテスへと『手を差しのべ、一緒に歩く』ことは、まだ叶う夢だ」
ヴィエルジュは妹マリーが狂気の中、夢見るように語った言葉を引用して言った。
「これまで子を育ててこなかったおまえが、これからのトライデントの未来あるこども達を教育していく。それがおまえに課せられた使命だろうよ」
あてこすりだと感じた。
避けられぬ事態なのであれば、いつまでも恨みごとをつらね嘆いては、羽化に失敗した翅をしおらせるばかりでなく。
与えられた翅を伸ばし、最善を尽くし。リシュリューらしく、美しく舞ってみせよ。
それが、兄ヴィエルジュのいわんとすること。
往生際が悪く、難癖を並べ立てては駄々をこねる、愚かな妹マリーへの、これ以上ないあてこすりだ。
マリーも以前には、兄ヴィエルジュへとあてこすることがあった。何度も。
「お兄様がヨーハンの妻になればよろしかったのに」
マリーがそう言えば、ヴィエルジュは、反発することも否定することも、気負うこともなかった。
ただ、笑った。
「私が女に生まれていれば、ヨーハンも私を見初めてくれたのかもしれないな」
ヴィエルジュはそこまで言うと、いましがた気がついたばかりというように、わざとらしく息をのむ。
「おお、このようなことを私が言ったなど、ルイーズに知れては事だ。マリー、おまえは決して我が妻に告げ口をしてはいけないよ」
兄ヴィエルジュが、ヨーハンの妻であればよかった。
マリーではなく。
たったいま、ふたたび。強く感じる。
兄ヴィエルジュがヨーハンの妻であれば。
第十代フランクベルト王ヨーハンの妃が、マリーでなくヴィエルジュであれば。
これまで彼女がかかえていた、さまざまな私怨にとどまるのではない。
夫ヨーハンに親しかった兄ヴィエルジュへ王妃の役を押しつけんとする、単純なあてこすりというだけではなく。
フランクベルト王妃という公人としての役割を、ヴィエルジュならば、果たすことができた。
ヴィエルジュであれば、王ヨーハンが身罷ったのちにも、新王の母后として、若き王を導き、二国間の緩衝役をじゅうぶんに担っただろう。
南島トゥーニスはいまも、穏やかで美しい景観を保っていたことだろう。
総督親子は、笑みを浮かべ、抱擁を交わし、頬に接吻をし、家族の情を温めていたことだろう。
粘土棺に押し込められ、尊厳を奪われ、死を見世物とされることなく。
「メリケルテスは、祖父パライモン八世からエノシガイオス公位を継ぐより先だって、おそらくトライデント総督となるだろう。そこで庶出の身である自身の能力を、証明せんとするはずだ。我こそが、次期エノシガイオス公にふさわしい、と」
ヴィエルジュは立ち上がり、マリーを見下ろした。
「おまえはメリケルテスの母として、メリケルテスの妻となるジャンヌとともに、トライデントを再建し、教養ゆたかな宮廷を築きなさい。そして慈善事業に励みなさい」
マリーは、フランクベルト王妃として不相応だった。能力適性を欠いていた。
そしてなにより、単純な能力以上に、足りなかったもの。必須であったこと。
マリーは兄ヴィエルジュの、美しいほほえみを見上げた。
「教養と慈悲がいかに大事であるか。メリケルテスを見れば、よくわかるだろう」
ヴィエルジュはそう言うと、身をかがめてマリーの頬に接吻した。
ヴィエルジュとマリー。
美しいリシュリューの中でも、きわだった美貌の兄妹。
その兄妹が、ようやく仲直りをした。
兄ヴィエルジュは、粘土棺を抱える衛兵とともに、部屋から出ていった。
室内にとどまる衛兵と女扈従ふたりは、ほっと胸をなでおろした。
今後は、狂女マリーの監視役から抜け出せるだろう。
どれほどていねいに体を洗っても、入浴しても、こびりついて離れない、目が痛いほどの悪臭とは、今日でおわかれだ。
蛆の蠕動が描く、呪いじみた、おぞましい模様。その得体のしれない呪術にとらわれているような、ぞっとする心地からも解放される。
部屋を辞してからも耳に残る、いやらしいハエの羽音だって、もう聞かなくていい。
部屋に残されたマリーはぼんやりと、乳白色の大理石彫刻を眺めた。
海の男神と海の女神の二柱。
大理石でできた、円形の装飾机の上に、二柱はとなり同士、夫婦仲良く並べられている。
しばらくして、マリーは女扈従に声をかけた。
「棺を用意してほしいの」
「棺でございますか」
女扈従は頬をひきつらせた。
トゥーニス総督一家の、あの凄惨な遺体が、ようやく目の前から消えたというのに。
よもや、ふたたびここへ戻そうというのだろうか。
狂女マリーは、死体収集に目覚めてしまったのだろうか。
過去には、芸術を追い求め、つきつめるあまり、奇人変人と呼ばれるリシュリュー人も多くいた。
リシュリューの美姫マリーは、彼らの仲間入りをするつもりだろうか。
「ええ。このままでは、トリトンの魂が冥界へと、たどりつけないでしょうから」
マリーはかかえこんでいたトリトンの首を、ゆっくりと胸から離した。
「葬儀をなさず、体から切り離された首を持ち運び、朽ちるままに任せ、死したトリトンの霊魂のために祈らず。彼の死を冒涜したのは、私だわ。彼を安らかに眠らせてあげなければ」
――私はいったいいつまで、被害者の顔をしているつもりだったのだろう。
おのれの罪から目をそらし、いまを生きるひとびとを見ず。
このむなしい命が果てるまで、決して答えの返ってこない男たち――トリトンやヨーハンへと、恨みごとをぼやきつづけるのだろうか。
マリーはほほえみながら、まばたきを繰り返した。
目にうつるトリトンの姿が、涙で流れていかないように。
「まずは、彼を虜囚として捕らえたときに預かった彼の剣と、それからエノシガイオスの金貨を二枚用意して。ワインにハチミツ、オリーブの実は、トライデントの粘土椀に盛るのよ」
マリーはつんと顎をあげ、毅然とした口ぶりで、女扈従に指示した。
「彼の首と胴体とをいっしょに棺に入れ、あらためて葬儀をしましょう」
トリトンの気高い魂をかかえ、蝶は海を越える。
淡紫色の、広げた薄い翅に陽光を透かし。金色にきらめく水面を見下ろし。夜には銀色にまたたく月光を浴びて。
空と海の、つながった紺碧を切り裂くエノシガイオスのハヤブサのようには、すばやく飛べないだろう。
黄金の太陽を背につばさを広げるには、陽に透けるほどに薄い蝶の翅では、あまりに頼りない。
しかし、トライデントの美しい紺碧の空と海が、トライデントの守護神トリトンの帰還を待ちわびている。
マリーは、二本の指でトリトンのひたいに触れた。
そのゆびさきで、ゆっくりと自分のくちびるをなぞる。
そうしてから、トリトンのまぶたをそっとなでた。
どうか、彼の霊魂がまよわず冥界へ、たどりつけますように。
天空と海のご加護がありますように。
偉大なる男神様たちが、英雄トリトンの霊魂を慈しんでくださいますように。




