表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
174/212

14 乙女と娼婦(3)




 女扈従(こじゅう)は、もうひとりの女扈従と連れ立って、格子で囲われた窓ではなく、より新鮮な空気の出入りする出口付近へと移動した。

 強烈な腐敗臭を逃がすため、扉は回廊へと放たれている。



「あの気の毒な娘ジャンヌは」

 ヴィエルジュは女扈従らをしり目に、ハエをうっとうしそうに手で払った。

「誰からも美しいと(たた)えられるような(たぐい)の男を愛し、そしてなにより、愛されたいのだ。それこそおまえのいう、娼婦のような真似事ですら、なんの(かせ)にもならない」



 口にすればするほど、ヴィエルジュは、ますますジャンヌが哀れに思えた。


 蝶のリシュリューらしく、容貌に優れた女扈従が、あちこちへ仕掛ける色ごと。それらはすべて、彼女の自尊心と享楽を満たすだけの暇つぶしだ。

 しかし、ヴリリエールのジャンヌが仕掛けんとする蛇の罠に、色ごとはその候補にないだろう。

 色ごとは、ジャンヌにとって、容易ならざることだ。

 他者からの評価以前に、ジャンヌ自身が、そう信じきっている。

 なぜなら。



「あの娘の枷はむしろ、父親にある」

 美しいと断じたすべてを徹底的に拒絶し(さげす)む、かつてのアンリを思い出し、ヴィエルジュは言った。


 マリーの脳裏にちらつく娘ジャンヌの姿が、彼女の父アンリにとって代わる。

 ジャンヌを醜いとは思わない。

 だがアンリは違う。

 あれは醜い。あれの歪んだ劣等感は、とても醜い。

 芸術を愛するリシュリューの人間として、ヴリリエールのアンリとは決して、相容(あいい)れることはない。

 ぶんぶんと飛び回るうっとうしいハエの羽音が、アンリへの苛立ちをかさ増しする。



「哀れな娘ジャンヌを救ってやりなさい。そしてフランクベルトとエノシガイオス、両国民を君主同士の私怨(しえん)から救いなさい」

 ヴィエルジュは妹マリーの顔つきが変わったことに気がつき、うしろに()らしていた背をあらため、身を起こした。

「トリトンから『一緒に政治をしよう』と誘われたと。おまえはそう言ったろう。なればいまこそ、トリトンの息子メリケルテスと政治をすればいい」



 淡紫の朱子織(しゅすおり)シルクが、あらわになっていたヴィエルジュの足首を覆う。

 彼は上衣の裾にできた染みに、目をやった。



「これはもう、着られないな」

 ヴィエルジュは裾を指でつまみあげ、どこかおどけたような()し口をつくった。

「なかなか気に入っていたのだが」


「メリケルテスと政治を」

 マリーは驚き、思わずといった様子で、兄の言葉を繰り返した。


 ヴィエルジュの道化ぶりは、妹にすっかり無視された。

 兄はつまんだ裾を手放し、彼らしいほほえみを浮かべた。

 なめらかな光沢の上を、海辺の砂のようなこまやかな光が滑り落ちる。

 マリーは身をすくませた。



「トリトンと政治をなすことは、もはや叶わぬ夢だが、おまえがおまえの息子メリケルテスへと『手を差しのべ、一緒に歩く』ことは、まだ叶う夢だ」

 ヴィエルジュは妹マリーが狂気の中、夢見るように語った言葉を引用して言った。

「これまで子を育ててこなかったおまえが、これからのトライデントの未来あるこども達を教育していく。それがおまえに課せられた使命だろうよ」



 あてこすりだと感じた。


 避けられぬ事態なのであれば、いつまでも恨みごとをつらね嘆いては、羽化に失敗した(はね)をしおらせるばかりでなく。

 与えられた翅を伸ばし、最善を尽くし。リシュリューらしく、美しく舞ってみせよ。


 それが、兄ヴィエルジュのいわんとすること。

 往生際(おうじょうぎわ)が悪く、難癖を並べ立てては駄々(だだ)をこねる、愚かな妹マリーへの、これ以上ないあてこすりだ。

 

 マリーも以前には、兄ヴィエルジュへとあてこすることがあった。何度も。



「お兄様がヨーハンの妻になればよろしかったのに」

 マリーがそう言えば、ヴィエルジュは、反発することも否定することも、気負うこともなかった。


 ただ、笑った。



「私が女に生まれていれば、ヨーハンも私を見初(みそ)めてくれたのかもしれないな」

 ヴィエルジュはそこまで言うと、いましがた気がついたばかりというように、わざとらしく息をのむ。

「おお、このようなことを私が言ったなど、ルイーズに知れては事だ。マリー、おまえは決して我が妻に告げ口をしてはいけないよ」



 兄ヴィエルジュが、ヨーハンの妻であればよかった。

 マリーではなく。

 たったいま、ふたたび。強く感じる。


 兄ヴィエルジュがヨーハンの妻であれば。

 第十代フランクベルト王ヨーハンの妃が、マリーでなくヴィエルジュであれば。


 これまで彼女がかかえていた、さまざまな私怨にとどまるのではない。

 夫ヨーハンに親しかった兄ヴィエルジュへ王妃の役を押しつけんとする、単純なあてこすりというだけではなく。


 フランクベルト王妃という公人としての役割を、ヴィエルジュならば、果たすことができた。

 ヴィエルジュであれば、王ヨーハンが身罷(みまか)ったのちにも、新王の母后(ぼこう)として、若き王を導き、二国間の緩衝(かんしょう)役をじゅうぶんに(にな)っただろう。


 南島トゥーニスはいまも、穏やかで美しい景観を保っていたことだろう。

 総督親子は、笑みを浮かべ、抱擁(ほうよう)を交わし、頬に接吻(せっぷん)をし、家族の情を温めていたことだろう。


 粘土棺に押し込められ、尊厳を奪われ、死を見世物とされることなく。



「メリケルテスは、祖父パライモン八世からエノシガイオス公位を継ぐより先だって、おそらくトライデント総督となるだろう。そこで庶出(しょしゅつ)の身である自身の能力を、証明せんとするはずだ。我こそが、次期エノシガイオス公にふさわしい、と」

 ヴィエルジュは立ち上がり、マリーを見下ろした。

「おまえはメリケルテスの母として、メリケルテスの妻となるジャンヌとともに、トライデントを再建し、教養ゆたかな宮廷を築きなさい。そして慈善事業に励みなさい」



 マリーは、フランクベルト王妃として不相応だった。能力適性を欠いていた。

 そしてなにより、単純な能力以上に、足りなかったもの。必須であったこと。


 マリーは兄ヴィエルジュの、美しいほほえみを見上げた。



「教養と慈悲がいかに大事であるか。メリケルテスを見れば、よくわかるだろう」

 ヴィエルジュはそう言うと、身をかがめてマリーの頬に接吻(せっぷん)した。


 ヴィエルジュとマリー。

 美しいリシュリューの中でも、きわだった美貌(びぼう)の兄妹。

 その兄妹が、ようやく仲直りをした。


 兄ヴィエルジュは、粘土棺を抱える衛兵とともに、部屋から出ていった。

 室内にとどまる衛兵と女扈従ふたりは、ほっと胸をなでおろした。

 今後は、狂女マリーの監視役から抜け出せるだろう。


 どれほどていねいに体を洗っても、入浴しても、こびりついて離れない、目が痛いほどの悪臭とは、今日でおわかれだ。

 蛆の蠕動(ぜんどう)が描く、(まじな)いじみた、おぞましい模様。その得体のしれない呪術にとらわれているような、ぞっとする心地からも解放される。

 部屋を辞してからも耳に残る、いやらしいハエの羽音だって、もう聞かなくていい。


 部屋に残されたマリーはぼんやりと、乳白色の大理石彫刻を眺めた。

 海の男神と海の女神の二柱。

 大理石でできた、円形の装飾机の上に、二柱はとなり同士、夫婦仲良く並べられている。


 しばらくして、マリーは女扈従に声をかけた。

「棺を用意してほしいの」


「棺でございますか」

 女扈従は頬をひきつらせた。


 トゥーニス総督一家の、あの凄惨(せいさん)な遺体が、ようやく目の前から消えたというのに。

 よもや、ふたたびここへ戻そうというのだろうか。

 狂女マリーは、死体収集に目覚めてしまったのだろうか。


 過去には、芸術を追い求め、つきつめるあまり、奇人変人と呼ばれるリシュリュー人も多くいた。

 リシュリューの美姫マリーは、彼らの仲間入りをするつもりだろうか。



「ええ。このままでは、トリトンの魂が冥界へと、たどりつけないでしょうから」

 マリーはかかえこんでいたトリトンの首を、ゆっくりと胸から離した。

「葬儀をなさず、体から切り離された首を持ち運び、朽ちるままに任せ、死したトリトンの霊魂のために祈らず。彼の死を冒涜(ぼうとく)したのは、私だわ。彼を安らかに眠らせてあげなければ」



 ――私はいったいいつまで、被害者の顔をしているつもりだったのだろう。


 おのれの罪から目をそらし、いまを生きるひとびとを見ず。

 このむなしい命が果てるまで、決して答えの返ってこない男たち――トリトンやヨーハンへと、恨みごとをぼやきつづけるのだろうか。


 マリーはほほえみながら、まばたきを繰り返した。

 目にうつるトリトンの姿が、涙で流れていかないように。



「まずは、彼を虜囚(りょしゅう)として捕らえたときに預かった彼の剣と、それからエノシガイオスの金貨を二枚用意して。ワインにハチミツ、オリーブの実は、トライデントの粘土椀に盛るのよ」

 マリーはつんと顎をあげ、毅然(きぜん)とした口ぶりで、女扈従に指示した。

「彼の首と胴体とをいっしょに棺に入れ、あらためて葬儀をしましょう」



 トリトンの気高い魂をかかえ、蝶は海を越える。

 淡紫色の、広げた薄い翅に陽光を透かし。金色にきらめく水面を見下ろし。夜には銀色にまたたく月光を浴びて。


 空と海の、つながった紺碧(こんぺき)を切り裂くエノシガイオスのハヤブサのようには、すばやく飛べないだろう。

 黄金の太陽を背につばさを広げるには、()に透けるほどに薄い蝶の翅では、あまりに頼りない。


 しかし、トライデントの美しい紺碧の空と海が、トライデントの守護神トリトンの帰還を待ちわびている。


 マリーは、二本の指でトリトンのひたいに触れた。

 そのゆびさきで、ゆっくりと自分のくちびるをなぞる。

 そうしてから、トリトンのまぶたをそっとなでた。


 どうか、彼の霊魂がまよわず冥界へ、たどりつけますように。

 天空と海のご加護がありますように。

 偉大なる男神様たちが、英雄トリトンの霊魂を慈しんでくださいますように。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ドロリ!と重い感じがたまりません!!( *´艸`)
[一言] 「14」の1~3で、マリーの心情が変わってゆくのが見えたような。 >『嫁入りとは、無垢むくな乙女が哀れな娼婦になるということ』 まさにこれは、被害者の顔、という感じで。 ヨーハンの心情…
[良い点] なんて美しく清々しい描写! 覚醒したマリーの神々しさに涙が出ましたよ! リシュリューの蝶がこんなに鮮やかに力強く舞えるなんて思ってなかった! マリーを見くびってました! いろいろと問題あ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ