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13 乙女と娼婦(2)




「エノシガイオスがフランクベルトへ提示した停戦条件のひとつに、ヴリリエール家のジャンヌがあった」

 ヴィエルジュは、素肌を()(うじ)に、顔をしかめた。

「彼女を二国間の友好の証として求めたのは、メリケルテス本人だそうだ」



 ヴィエルジュの華奢(きゃしゃ)な足首を、蛆が上を下へと這っている。

 淡紫の上衣の裾や、トンガリ靴のシルクにも、蛆が点々として、まるでエノシガイオスの(まじな)い師が描く魔除け模様のように(うごめ)いている。


 ヴィエルジュは上衣の裾をつまんで、蛆を振り落とした。

 きれいになった裾が、先端をとがらせるような形でまとめられる。そうして彼は、裾のとがった部分で、肌の上にのる蛆を慎重につついた。

 未練たらしくすがる蛆が、一匹ずつ、地に落ちていく。


 マリーは申し訳なく思い、床につけた両ひざを交互にずって、うしろへ下がった。



「メリケルテスが?」

 じゅうぶんに離れたところから、マリーは兄にたずねた。

「あのこは、彼女の肖像画を見たことはあるの?」



 兄の手に、亡き夫ヨーハンからの土産品、赤碧玉(せきへきぎょく)の指輪がおさまっているのが見えた。

 リシュリューにもなじみ深い、アカンサスの葉模様が刻まれた、銀の石座。


 ヴィエルジュは靴を這う蛆もふくめて、一匹残らず、すべての蛆を払い落とすと、満足げな顔をあげた。



「ないだろうよ」

 ヴィエルジュは、妹の問いをあっさりと否定する。

「一般的なエノシガイオス人が、フランクベルトの貴族令嬢に興味を示すはずがないだろう。そんなものがエノシガイオスに出回っているはずがない。

 そうであれば、トリトンに代わって次期君主候補となったメリケルテスが、フランクベルトの娘の肖像画を、誰かから献上されるはずもない」



 兄の言葉を聞き、マリーは悲嘆(ひたん)に沈んだ。

 なぜジャンヌなのだ。

 せめてもうすこし。もうすこし、エノシガイオス人に好まれる容姿の娘であれば。


 たとえば、メロヴィング家のミュスカデ。

 息子ジークフリートが長年、彼の婚約者として扱ってきたメロヴィング家のお姫様。

 彼女の癖のない、まっすぐな亜麻色(あまいろ)の髪。白くまろやかな頬。華奢でいて、やわらかそうな手足。

 たおやかで優美なほほえみを浮かべるミュスカデは、フランクベルト当代、最も可憐な花と名高い。


 エノシガイオス風の美人ではない。

 しかしミュスカデの美しさは、エノシガイオス人とて、それなりに受け入れるだろう。


 先祖がエノシガイオス人であることを誇りとする父シャルルは、ヴリリエールの娘ジャンヌを『高貴なる慰み者』と(さげす)み、うとんじた。

 フランクベルトを支える大貴族ヴリリエールの娘である彼女に、ひどい蔑称がつきまとうようになったのは、父シャルルのせいだった。


 建国の七忠が一、蛇のヴリリエール。

 それほどの大家(たいけ)の娘について、おもしろおかしく揶揄(やゆ)することが許されるのは、同じく建国の七忠であるリシュリュー家当主シャルルがそのように呼ぶからだ。


 マリーはそれまで、ヴリリエールの娘ジャンヌについて、とくべつ何かを感じることはなかった。

 彼女の父アンリに、よく似た顔立ちの娘。

 マリーが認識していたのは、そういう単純な事実だけだ。


 たまに顔を合わせることがあれば、ジャンヌが寄越す、侮蔑と憎悪と羨望(せんぼう)のまじりあった、複雑なまなざしに出会った。

 とはいえ、それだけだった。

 彼女は王妃マリーへの礼を失することはなかった。

 マリーとて、ヴリリエール家の娘について、必要な敬意をわざわざ(はぶ)くこともなかった。


 トライデントの地で、フランクベルトの乙女であるジャンヌが、どのように扱われるか。

 それは、父シャルルの様子からうかがえるというものだ。



「メリケルテスが知っているのは、ジャンヌの『高貴なる慰み者』という蔑称だ」

 ヴィエルジュが続ける言葉によって、マリーの顔に浮かぶ悲しみが、ますます色濃くなっていく。

「それがメリケルテスの気を引いたらしい」


「『高貴なる慰み者』という蔑称が? なんてひどいこと」

 マリーはそれ以上、言葉にならない様子だった。



「そうでもないさ」

 妹の苦悩する姿の、なにがおもしろいのか。ヴィエルジュは愉快そうに言った。

「メリケルテスは、エノシガイオス宮廷の慰み者に、並々ならぬ情熱があるようだからな。その情熱が邪悪に歪まぬよう、おまえが正しく導いてやればいい」


「私が『正しく』導く?」

 マリーがいぶかしげに問い返せば、ヴィエルジュはうなずいた。

「そうだ。マリー、おまえの得意分野だろう」


「ジャンヌの胸の奥底に封印された、乙女の願いを解放してやりなさい」

 ヴィエルジュが床を這う蛆を一匹、わざわざつまみあげた。

「ひとりの男に真に愛されることが叶えば、ジャンヌとて、父アンリへとエノシガイオスの情報を逐一報告するような、夫への裏切りをなすには、良心の呵責(かしゃく)を得るだろう」


「女は、愛されれば誰でもいいというわけではないのですよ」

 マリーは軽蔑しきった様子で、鼻をならした。

「お兄様は男性ですからね。おわかりにならなくても、しかたがないのでしょうけれど。かつての乙女が娼婦となりはてた、私のような者からすれば、彼女の境遇には、同情を禁じ得ないわ」



 母親の贔屓(ひいき)目を働かせようとして。

 それでもメリケルテスがジャンヌにとって、すばらしい夫であるようには思われなかった。


 女は、愛されれば誰でもいいのではない。


 結局、とマリーは落胆した。

 兄ヴィエルジュは、マリーがヨーハンにほだされることを望んだのと同様に、ジャンヌがメリケルテスになびくことを期待している。

 そしてその手助けを、ほかの誰でもないマリーに求めている。


 たとえ、ジャンヌではなくとも。

 フランクベルトの乙女の誰かが、トライデントへの嫁入りという娼婦の役を担わなければならない。

 そうであったとしても。



「もちろん、誰でもいいはずはない」

 ヴィエルジュはつまんだ蛆を放り投げた。


 部屋に控えている女扈従(こじゅう)のひとりが、「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。

 ずいぶん前に、甥レオンハルトへと、ヴィエルジュの許可なく勝手に暴露話を開始しては、色仕掛けまでもなさんとした女扈従だ。


 尻軽でそそっかしく、あちこちに聞き耳を立てては、よけいなことばかりをしてくれる。

 いっぽうで、愛嬌があり、憎めないところがある。なによりしたたかで、生命力がある。

 気分屋で、自己本位なわがまま娘、マリーの世話役には、図太いくらいが、ちょうどいい。




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― 新着の感想 ―
[良い点] >父シャルルのせいだった。 ひどいことするなあ。この性格難ばかりの貴族たちは、やっぱり青い血を守るための血族結婚による弊害? >「それがメリケルテスの気を引いたらしい」 メリケルテス…
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