12 乙女と娼婦(1)
そうだ。
屈辱だった。
マリーはまたもや過去に逃げようとした。
しかし、残酷で醜い現実の重みと罪悪とが、なぜだかいまだ消えず、いすわっている。
リシュリューに吹く、あたたかく優しい風のように。あるいはフランクベルトに吹く、冷たく厳しい風のように。
マリーの頭の中をすっかりきれいにしてくれるはずの風が、吹いてくれない。
マリーの胸の中には、腐った頭骨があった。
視線の先には、淡紫のなめらかな朱子織シルクからのぞく、細く白い男の足首。
それから、反りあがったトンガリつま先の、洒落た靴。
衣服と同じく、靴もまた、艶のある紫色のシルク生地で仕立てられていた。
そこへほどこされる刺繍は、蝶の意匠。複雑に、細やかに。靴と同色の絹糸が、曲線と凹凸とを描く。
蝶の羽根をいろどるのは、透明な輝きを放つ石だ。
靴に縫いつけられた、たくさんの石。見事なカッティングによって、窓から差し込む陽光を虹色に弾く。
マリーの目の前にある、すばらしく美しい靴は、しかし、腐敗物や蛆やらで汚れていた。
「ヴリリエール家のジャンヌを守りなさい」
兄ヴィエルジュの声が聞こえる。
「おまえが守らねば、あの『高貴なる慰み者』は屈辱を受けることになる」
ああ、そうか。
マリーはようやく悟った。
怪我人や病人の苦痛、それから死への恐怖をやわらげる、癒やしの女神の霊薬。
芥子の希釈汁は、もう恵んでもらえなくなったのだ。
マリーは、彼女に同情する義姉ルイーズの慈悲にすがった。
しかし、義姉の目こぼしも終わった。
優しい義姉とて、夫ヴィエルジュの命にそむいてまで、義妹を甘やかし続けるわけにはいくまい。
トリトンの首をかかえたまま、マリーは床に膝をつき、うなだれた。
長く波打つ黄金の髪が、ふたつに分かれて流れ落ちる。
あらわになった、細く白いうなじ。首飾りのひとつも、ぶらさがっていない。
「マリー。おまえもトライデントへ渡ることが決まった」
兄ヴィエルジュの、冷たく抑揚のない声が、マリーの無防備なうなじに刺さる。
まるで鋭くとがったツララのようだ。
「ジャンヌを、私が?」
顔をあげられないまま、マリーは力なくぼやいた。
「なんの力もない、形ばかりのフランクベルト王太后が、いまや敵地にすぎないトライデントへ渡ったところで、なにをどうしろというの」
それまですこしも感じることのなかった強烈な腐敗臭が、突如としてマリーの鼻腔を襲う。
なんというひどい臭いだろう。
兄は気にならないのだろうか。
それに、ほんのわずかな力加減でぐにゃりとゆがむ、溶けかけの膨張した腐肉。その不快なやわらかさ。うぞうぞと蠕動する灰白色の蛆。
耳元ではぶんぶんと羽音をたて、ハエが飛び回っている。
「『嫁入りとは、無垢な乙女が哀れな娼婦になるということ』」
ヴィエルジュは膝を折り、マリーの肩に手を置いた。
「かつて、おまえはそう言ったことがあったろう。覚えているだろうか」
マリーは顔をあげた。
「すまなかった」
ヴィエルジュはその口ぶりとほほえみの両方に、深い悔恨をにじませた。
「たいせつな妹であったのに、おまえの意思を守れなかった。それどころか、いつか、おまえがヨーハンを慕ってくれたら、と」
「慕っていたわ」
マリーは兄の美しいほほえみに苛立ちをおぼえ、口の端をゆがめた。
「むかしからお兄様が、彼と私の距離を縮めようとしていたことは知っていたし、私も友人としてならば、彼を愛していた。けれど、彼は私をうらぎった」
「それは」
ヴィエルジュは口を開いた。
そのあとに続ける言葉が見つからなかったのか、ヴィエルジュは首を振った。
それから、あらためて悲しげなほほえみを浮かべなおすと、マリーがいだくトリトンの首へと視線を落とした。
「私もおまえをうらぎった」
ヴィエルジュの細く白い指が、トリトンの首へとのびた。
「ヨーハンがどのように考えていたのか、私は知らない。だが、『私』は、期待した。時が経てば、おまえもヨーハンを許し、ほだされるだろうと。幼馴染としてともに過ごした日々が呼び水となり、トリトンへの熱烈な恋慕とは異なる、おだやかな愛をヨーハンと育むのではないか。そうしてあの孤独な王を、気の毒なひとりの男として、おまえが癒やし、支えるだろう」
ヴィエルジュは二本の指でトリトンのひたいに触れ、それから自身のくちびるに、そのゆびさきを移し、最後にトリトンのまぶたに当てた。
「身勝手な願いだった」
エノシガイオス流の儀式だ。
死者への哀悼をささげ、さまよえる霊魂が、無事、冥界へたどりつけるよう、祈る。
死者へと直に触れなければならないため、ヴィエルジュの指先とくちびるは、腐肉や蛆で汚れた。
しかし兄は、すこしのためらいも見せなかった。
「いいえ」
マリーは、兄の美しい横顔をじっとながめた。
「私の信頼をうらぎったのは、お兄様ではありません。ヨーハンよ」
マリーは兄の頬へ、接吻した。
きょうだいげんかのあとの仲直りは、どちらかがどちらかへの頬に接吻をするのが決まりだった。
しかし、兄からの接吻が返ってこない。
この話題について、兄は、仲直りで仕舞いにするつもりはないようだった。
「ジャンヌは、彼女の父親であるヴリリエール公爵アンリより、フランクベルトのための間諜となるよう指示されていることだろう。彼女の首を首切り役人のもとに連れて行くだけの、愚かな行為であるにも関わらず」
ヴィエルジュはふたたび、厳しい口ぶりになった。
「だが、逐一報告するような愚行を犯すな、と言ったところで、ジャンヌは決して、諦めることはないだろう。だからマリー。おまえがジャンヌを守るのだ」
とまどい顔の妹マリーへと、ヴィエルジュは言い聞かせる。
「トリトンとヨーハン、あれら我の強く、気難しい男たちを籠絡することのできたおまえならば、メリケルテスがジャンヌを愛するよう、導くことができるだろう」
「ジャンヌを『高貴なる慰み者』どころか、娼婦にまで昇格させることが、お兄様のご希望のようだわ」
マリーは、醜女とささやかれるジャンヌの姿を思い浮かべると、癇に障るような高い声で笑った。
「妙なこと。あの苦痛をヴリリエールの生娘にじっくり味あわせたいと、私がそのように望んでいるとでも、お兄様はお考えなのかしら」
メリケルテスは、マリーの息子だ。
赤子のころには、マリーが乳を与えることもあった。
しかし、いまの彼は、いったいどのような人物であるのだろうか。
マリーは、兄ヴィエルジュの背後にある、粘土棺を見上げた。
トゥーニス総督の娘デルフィーヌの、白く濁った瞳がマリーを見つめ返す。
父ボードゥアンと息子バティストのまぶたは閉じ、眼球を失ったために、落ちくぼんでいる。
そこにハエが止まり、前脚をこすり合わせては、やがて飛び立つ。
トゥーニスの地で、マリーは彼らの歓待を受けたことがあった。
王妃として、夫ヨーハンとともに、ボードゥアンのトゥーニス総督就任を祝いに出向いたのだ。
母親のドレスにしがみついては、こっそりと顔を出す、幼いデルフィーヌの愛らしいそぶりを思い出す。
マリーと目があったとたん、デルフィーヌは慌てて母親のドレスに隠れた。
息子のバティストは、父ボードゥアンが、王ヨーハンから祝いの首飾りを授けられる様子に見入っていた。
きらきらと光る、好奇心旺盛な茶色い瞳。
よく陽に焼けた褐色の頬が、誇らしげに紅潮する。
少年と青年の狭間にあった彼は、国王夫妻来訪の前に、急ごしらえで仕込まれたのだろう。
ぎこちないそぶりでマリーの手をとった。
王妃のゆびさきへ、息子がうやうやしく、つるりとまるくきれいなひたいを寄せるのを、総督夫妻はほほえみながら見守った。
あの幸せそうな家族は、ひとりとして残っていない。
棺には、幼子が遊ぶ組み木細工のように継ぎ接ぎされた遺体。
総督一家への、この仕打ち。
メリケルテスは父トリトンの仇討ちのためだけに、彼とはほとんど因縁もなかったであろう、南島トゥーニスを強襲したのだという。
南島トゥーニスといえば、ヨーハンがむかし、ヴィエルジュとマリーに、赤碧玉の指輪を土産に贈ってくれたこともあった。
息子メリケルテスは、フランクベルトの『高貴なる慰み者』が花嫁となることを、歓迎しているのだろうか。
息子自身が望んだことなのだろうか。
「苦痛でなければいいだろう」
ヴィエルジュは顎をつきあげ、にやりと挑発的な笑みを浮かべた。
「どういうこと?」
マリーが眉をひそめる。
ヴィエルジュは尻と両手を床につけ、足をだらしなく崩した。
裾の長い上衣がずりあがり、筋肉の薄く細い足がむきだしになる。
兄を問いただすように、マリーが身を乗り出せば、蛆がぽろぽろとこぼれ落ちた。




