11 アングレーム教
「では、本日はこれで」
ブノワはもったいぶったような、慇懃なそぶりで、マリーに頭をさげた。
扉が、ぎいと不快な音を立てる。ブノワは回廊へと姿を消した。
マリーは詰めていた息を、そっと吐き出した。
ようやく、狂信の幼馴染から解放された。首や肩、背すじがかちこちにかたまっている。
マリーは体をほぐすようにして、同時に室内へぐるりと視線をめぐらせた。
四方を囲む、寒々しい石壁。それから、少しでも暖をとどめようと、いじましい努力で石壁を覆う壁掛け。
ところどころに虫食いのあとがあり、ていねいに修繕されている。
経年による痛みも相応にあるが、壁掛けの出来はすばらしい。実にみごとだ。
中央の壁掛けには、黄金の獅子。それから獅子にまたがる青年の姿が、緻密な千花模様を背景に描かれている。
背景に注意を向けてみれば、青の地に黄金の草花が豊かに茂り、鷲が悠々と、その両翼を広げる。
果樹の枝に灰色の蛇が体を巻きつかせ、その果樹と対になるように、黒い木肌のりっぱな大木が描かれている。その木の枝には、羽を休める新緑の梟。
中央の獅子をたたえるような格好で、黒毛の馬が前脚をあげ、紫の蝶が花にとまり、池に浮かぶ葉の上に白い蛙がすわる。
それから宝箱のすぐそばに体を横たえる、黄色い豚。
そういったさまざまな意匠が、よくまとまった絵模様を描きだしていた。
壁掛けは連作のようだった。
ほかにも、羽をもがれた天馬。目をつらぬかれた竜。串刺しの海蛇。首を斬り落とされた巨人。神獣の亡骸にむらがる小人。
さまざまな絵模様の壁掛けがあった。
壁掛けのすべてが、青と金を基調としている。
そして剣や槍の柄、矢柄などにフランクベルト家の紋章が描かれていた。
絵模様にこめられた寓意は、あきらかだ。
なにしろこの部屋は、王宮内に残された唯一の、王族のための祈祷室なのだ。
マリーは堅牢なつくりのオーク材の祈祷台に肘をつき、壁掛けから燭台の炎へと視線を移した。
室内における唯一の光源である、金製の燭台。その数は乏しい。
派手派手しくきらびやかに飾りたてた、王宮全体の装飾とは、趣が異なる。
壁掛けと、燭台の炎。
幻想的で美しい部屋だが、居心地はよくない。
リシュリューの娘であるマリーが、国教とは異なる信仰を持つためかもしれない。
もしここにある壁掛けに、天空の男神、海の男神、冥界の男神といった神々が描かれていたのであれば、マリーは立ちあがり、神々へと接吻を送っただろう。
神々は乙女の接吻をよろこび、受け入れるはずだ。
フランクベルトの国教のように、乙女を下等なる生物とさげすむことはない。
国教において女とは、男より劣った存在だ。
女は魔に通じ、男を誘惑する。煩悩をひきおこさせ、悪をささやく。愛を捧げるのに値しない。
そもそも愛とは、神が人間を慈しむこと。人間が持ちうる愛はすべて、神に捧げるべきものだ。
人間が人間へと向ける感情はすべて、さまざまに形を変えただけの欲に過ぎない。
以上がアングレーム、そして神官たちによる、ありがたい説法だ。
フランクベルトの民として、マリーも国教徒として名を連ねている。
しかし実際の信仰はちがう。心は自由だ。
それにだ。
アングレーム一族が神と同列に崇拝する建国王。彼自身は、信仰を制限しなかったというではないか。
現在の国教は、神の教えでも建国王の教えでもなく、いってみれば『アングレーム教』だ。
アルブレヒト親愛王が薨去して以来、この薄暗い祈祷室をおとずれるのはアングレーム伯爵ブノワだけだ。
新王として即位したヨーハンは、私的な礼拝を習慣としていなかった。
新王が必要最低限と認識する聖務だけを義務としてこなす。
ブノワが新王を説得しなければ、この王族のための祈祷室とて、他の用途へと塗り替えられかねなかったそうだ。
神と国教とを軽視するヨーハンの姿勢。
マリーはひさしぶりに、ヨーハンへ賛同する思いだった。
皮肉なことだ。
誰より憎い男ではあるが、やはりヨーハンはマリーの幼馴染だ。
フランクベルト宮廷において、共感できる思想の持ち主は、ヨーハンなのかもしれない。
もっとも、幼馴染といえども、ヨーハンが西南ゲオセルミアを外遊してからというもの、彼の思想をうかがうことは困難となった。
もともと、それほど容易に心をうちあける彼ではなかったが、よりいっそう内にこもるようになった。
アルブレヒト親愛王とヨーハンの、父子間確執が深まったのも、あのころだ。
そして忌まわしき固有魔法があらわれ、やがて最大の禁忌である父殺しまで――。
いや、ヨーハンのことを考えるのはよそう。
信頼をうらぎった男の思考など、理解できるはずもない。したくもない。
ただ胸が悪くなるだけだ。
祈祷台に手をつき、マリーは静かに立ちあがった。
回廊へと出ると、白く淡い光が視界を覆い尽くした。
まばゆい陽光あふれるリシュリューとは違う、曇天ばかりのフランクベルト。
それでも祈祷室を出たばかりのマリーにとって、この弱々しく陰鬱な光は、まぶしく感じられた。
温かくやわらかな、神の慈愛さえも存在するかのように。
◇
アングレーム伯爵がとりしきる結婚初夜の、無価値で下劣な儀礼を経て、マリーは身ごもった。
マリーは、確信した。
子を宿すこと、子を産むことに、女のよろこびなど必要ではない。
男から暴力を受ければ、女は望まぬ子を宿すのだ。
しかし子を産めば、妻は夫の愛をよろこんだのだと見なされる。
王家の出産のつねとして、当代アングレーム伯爵が出産の終始、産婦のすぐそばで、安産の祈祷を捧げた。
そうして立ち会ったアングレーム伯爵ブノワは、盥の水にひたしていた布をしぼり、生まれたばかりの赤子をうっとりとながめた。
赤子が、産婆の手からブノワへと渡る。ブノワは尊い王子を、慎重な手つきでていねいに清めた。赤子は泣き声をあげ続けている。
マリーは分娩椅子に、汗まみれの肢体をぐったりとあずけ、生まれたばかりの我が子に視線をやった。
肌にはりつく絹の感触が、ひどく不快だ。目がかすんで、視界がぼやけている。額やら頬やら首にやら、あちこちへばりつく髪が、うっとうしい。
それに、とてものどがかわいた。そのくせ、いまにも吐きそうでもある。
股が引き裂かれたようにじくじくする。棒でひどく殴られたあとのように、下腹部が重くて痛い。
幾千もの長い針が、頭をぐるりと刺しつらぬいているのではないだろうか。頭も顔も目も鼻も口も耳も、なにもかもが、痛くてたまらない。
ああ、それでも。
それでも私の息子が。
マリーは力をふりしぼり、赤子へと手をのばした。
「王妃陛下が王陛下の愛をよろこばれたからこそ、健康な御子を授かったのです」
ブノワがマリーへ祝辞をよこした。
赤子は彼の乳母となる予定の、ヴリリエール公爵夫人の胸にいだかれた。
公爵夫人はマリーより先だって女児を出産していて、豊満な胸をしていた。乳の甘い香りがするのだろう。赤子は公爵夫人の胸に鼻先をすりつけていた。
赤子がマリーの胸にいだかれることは、なかった。
アングレーム伯爵ブノワとヴリリエール公爵夫人が、王妃マリーの寝所から出てくると、知らせを受けたらしいヨーハン王が扈従を連れて、ちょうど回廊向こうからこちらへと歩いてくるところだった。
王はすっかり憔悴した様子だった。そしていかにも不安げにふたりを見た。
「おめでとうございます」
ブノワは王へと満面の笑みを浮かべた。
「健康な、世継ぎの男児です」
王ヨーハンが、ふっくらと丸い体をふるわせた。
王のすぐそばに控える扈従は、王が倒れるのではないかと、気が気ではなかった。
めったに見ない、アングレーム伯爵の喜色満面を目にした宮廷人は、驚きに立ち止まったり、前を向いたかと思えば二度振り返ったりした。
かと思えば、宮廷人たちもブノワ同様に、王子の出産という大業をなしとげた王妃マリーを祝福した。
耐えがたい屈辱だった。




