表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
171/212

11 アングレーム教




「では、本日はこれで」

 ブノワはもったいぶったような、慇懃(いんぎん)なそぶりで、マリーに頭をさげた。


 扉が、ぎいと不快な音を立てる。ブノワは回廊へと姿を消した。


 マリーは詰めていた息を、そっと吐き出した。

 ようやく、狂信の幼馴染から解放された。首や肩、背すじがかちこちにかたまっている。


 マリーは体をほぐすようにして、同時に室内へぐるりと視線をめぐらせた。

 四方を囲む、寒々しい石壁。それから、少しでも暖をとどめようと、いじましい努力で石壁を覆う壁掛け。

 ところどころに虫食いのあとがあり、ていねいに修繕されている。

 経年による痛みも相応にあるが、壁掛けの出来はすばらしい。実にみごとだ。


 中央の壁掛けには、黄金の獅子。それから獅子にまたがる青年の姿が、緻密な千花模様(せんかもよう)を背景に描かれている。

 背景に注意を向けてみれば、青の地に黄金の草花が豊かに茂り、(わし)が悠々と、その両翼(りょうよく)を広げる。

 果樹の枝に灰色の蛇が体を巻きつかせ、その果樹と対になるように、黒い木肌のりっぱな大木が描かれている。その木の枝には、羽を休める新緑の(ふくろう)

 中央の獅子をたたえるような格好で、黒毛の馬が前脚をあげ、紫の蝶が花にとまり、池に浮かぶ葉の上に白い蛙がすわる。

 それから宝箱のすぐそばに体を横たえる、黄色い豚。

 そういったさまざまな意匠が、よくまとまった絵模様を描きだしていた。


 壁掛けは連作のようだった。

 ほかにも、羽をもがれた天馬。目をつらぬかれた竜。串刺しの海蛇。首を斬り落とされた巨人。神獣の亡骸(なきがら)にむらがる小人。

 さまざまな絵模様の壁掛けがあった。


 壁掛けのすべてが、青と金を基調としている。

 そして剣や槍の柄、矢柄(やがら)などにフランクベルト家の紋章が描かれていた。


 絵模様にこめられた寓意(ぐうい)は、あきらかだ。

 なにしろこの部屋は、王宮内に残された唯一の、王族のための祈祷(きとう)室なのだ。


 マリーは堅牢(けんろう)なつくりのオーク材の祈祷台に肘をつき、壁掛けから燭台の炎へと視線を移した。

 室内における唯一の光源である、金製の燭台。その数は乏しい。

 派手派手しくきらびやかに飾りたてた、王宮全体の装飾とは、(おもむき)が異なる。


 壁掛けと、燭台の炎。

 幻想的で美しい部屋だが、居心地はよくない。

 リシュリューの娘であるマリーが、国教とは異なる信仰を持つためかもしれない。


 もしここにある壁掛けに、天空の男神、海の男神、冥界の男神といった神々が描かれていたのであれば、マリーは立ちあがり、神々へと接吻(せっぷん)を送っただろう。

 神々は乙女の接吻をよろこび、受け入れるはずだ。

 フランクベルトの国教のように、乙女を下等なる生物とさげすむことはない。


 国教において女とは、男より劣った存在だ。

 女は魔に通じ、男を誘惑する。煩悩(ぼんのう)をひきおこさせ、悪をささやく。愛を捧げるのに値しない。

 そもそも愛とは、神が人間を慈しむこと。人間が持ちうる愛はすべて、神に捧げるべきものだ。

 人間が人間へと向ける感情はすべて、さまざまに形を変えただけの欲に過ぎない。


 以上がアングレーム、そして神官たちによる、ありがたい説法だ。


 フランクベルトの民として、マリーも国教徒として名を連ねている。

 しかし実際の信仰はちがう。心は自由だ。

 それにだ。

 アングレーム一族が神と同列に崇拝する建国王。彼自身は、信仰を制限しなかったというではないか。

 現在の国教は、神の教えでも建国王の教えでもなく、いってみれば『アングレーム教』だ。


 アルブレヒト親愛王が薨去(こうきょ)して以来、この薄暗い祈祷室をおとずれるのはアングレーム伯爵ブノワだけだ。

 新王として即位したヨーハンは、私的な礼拝を習慣としていなかった。

 新王が必要最低限と認識する聖務だけを義務としてこなす。

 ブノワが新王を説得しなければ、この王族のための祈祷室とて、他の用途へと塗り替えられかねなかったそうだ。


 神と国教とを軽視するヨーハンの姿勢。

 マリーはひさしぶりに、ヨーハンへ賛同する思いだった。


 皮肉なことだ。

 誰より憎い男ではあるが、やはりヨーハンはマリーの幼馴染だ。

 フランクベルト宮廷において、共感できる思想の持ち主は、ヨーハンなのかもしれない。


 もっとも、幼馴染といえども、ヨーハンが西南ゲオセルミアを外遊してからというもの、彼の思想をうかがうことは困難となった。

 もともと、それほど容易に心をうちあける彼ではなかったが、よりいっそう内にこもるようになった。


 アルブレヒト親愛王とヨーハンの、父子間確執(かくしつ)が深まったのも、あのころだ。

 そして忌まわしき固有魔法があらわれ、やがて最大の禁忌である父殺しまで――。


 いや、ヨーハンのことを考えるのはよそう。

 信頼をうらぎった男の思考など、理解できるはずもない。したくもない。

 ただ胸が悪くなるだけだ。


 祈祷台に手をつき、マリーは静かに立ちあがった。

 回廊へと出ると、白く淡い光が視界を覆い尽くした。


 まばゆい陽光あふれるリシュリューとは違う、曇天ばかりのフランクベルト。


 それでも祈祷室を出たばかりのマリーにとって、この弱々しく陰鬱な光は、まぶしく感じられた。

 温かくやわらかな、神の慈愛さえも存在するかのように。







 アングレーム伯爵がとりしきる結婚初夜の、無価値で下劣な儀礼を経て、マリーは身ごもった。

 マリーは、確信した。

 子を宿すこと、子を産むことに、女のよろこびなど必要ではない。

 男から暴力を受ければ、女は望まぬ子を宿すのだ。

 しかし子を産めば、妻は夫の愛をよろこんだのだと見なされる。


 王家の出産のつねとして、当代アングレーム伯爵が出産の終始、産婦(さんぷ)のすぐそばで、安産の祈祷を捧げた。

 そうして立ち会ったアングレーム伯爵ブノワは、(たらい)の水にひたしていた布をしぼり、生まれたばかりの赤子をうっとりとながめた。

 赤子が、産婆(さんば)の手からブノワへと渡る。ブノワは尊い王子を、慎重な手つきでていねいに清めた。赤子は泣き声をあげ続けている。


 マリーは分娩椅子に、汗まみれの肢体(したい)をぐったりとあずけ、生まれたばかりの我が子に視線をやった。

 肌にはりつく絹の感触が、ひどく不快だ。目がかすんで、視界がぼやけている。額やら頬やら首にやら、あちこちへばりつく髪が、うっとうしい。

 それに、とてものどがかわいた。そのくせ、いまにも吐きそうでもある。

 股が引き裂かれたようにじくじくする。棒でひどく殴られたあとのように、下腹部が重くて痛い。

 幾千もの長い針が、頭をぐるりと刺しつらぬいているのではないだろうか。頭も顔も目も鼻も口も耳も、なにもかもが、痛くてたまらない。


 ああ、それでも。

 それでも私の息子が。


 マリーは力をふりしぼり、赤子へと手をのばした。



「王妃陛下が王陛下の愛をよろこばれたからこそ、健康な御子を授かったのです」

 ブノワがマリーへ祝辞をよこした。


 赤子は彼の乳母となる予定の、ヴリリエール公爵夫人の胸にいだかれた。

 公爵夫人はマリーより先だって女児を出産していて、豊満な胸をしていた。乳の甘い香りがするのだろう。赤子は公爵夫人の胸に鼻先をすりつけていた。

 赤子がマリーの胸にいだかれることは、なかった。


 アングレーム伯爵ブノワとヴリリエール公爵夫人が、王妃マリーの寝所から出てくると、知らせを受けたらしいヨーハン王が扈従(こじゅう)を連れて、ちょうど回廊向こうからこちらへと歩いてくるところだった。

 王はすっかり憔悴(しょうすい)した様子だった。そしていかにも不安げにふたりを見た。



「おめでとうございます」

 ブノワは王へと満面の笑みを浮かべた。

「健康な、世継ぎの男児です」



 王ヨーハンが、ふっくらと丸い体をふるわせた。

 王のすぐそばに控える扈従は、王が倒れるのではないかと、気が気ではなかった。


 めったに見ない、アングレーム伯爵の喜色満面を目にした宮廷人は、驚きに立ち止まったり、前を向いたかと思えば二度振り返ったりした。

 かと思えば、宮廷人たちもブノワ同様に、王子の出産という大業(たいぎょう)をなしとげた王妃マリーを祝福した。


 耐えがたい屈辱だった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 中央の壁掛け!これは初代獅子王レオンハルトと七忠ですね~。美しい描写だなあ。本当にうっとりします。 お城の壁を飾るタペストリーって、ものすごく大きくて豪華ですよね~。(美術館とかでしか見た…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ