16 ボロ小屋の嵐
ナタリーはボロ小屋で叫んでいた。
「なんで男は腹で子を育てないし、子も産まないのよ! 気合いが足りないわ!」
そういう問題ではないと思う。というレオンの言葉は、ナタリーに届かなかった。
大荒れの異常気象。
このボロ小屋など、強風にあおられ、今にも吹っ飛んでしまいそうだ。
時折、がんっがんっと壁やら屋根やら、何かが打ちつけていく。
レオンの弱弱しい抗議など、嵐の不吉な音で、すべてがかき消された。
ナタリー曰く、防御魔法が施されているため、このおんぼろ小屋は見かけに反して、そう簡単に吹き飛ばないらしい。
しかし、この激しい雷雨を伴う嵐を呼んでいるのは、ナタリーだ。
天災を引き起こしている張本人の言葉を、レオンはあまり信用していない。
「だいたいっ! なんなのっ! もう生まれてきてもいいんじゃないのっ? ねえっ? レオンもそう思うでしょ!」
ナタリーは、イライラと髪を振り乱しながら、部屋の中をうろついた。
このごろでは、ようやく一人歩き出来るようになったジャックが、「なぁあーあー」とナタリーを呼びかける。
両手を前に出しては、ヨチヨチ、よろり。
なんとか追いつこうと歩くジャックの姿は、そりゃもう愛らしい。
レオンはジャックの前に立ちふさがった。そして抱き上げる。
ナタリーの逆鱗に触れ、幼いジャックが、おそろしい魔女の手にかかってはいけない。
「あっあっ! あぅー!」
ジャックは不満げに、レオンの腕の中でバタバタと、力いっぱい、もがき始めた。
ジャックの小さな足が、レオンの腹を蹴る。
ジャックの小さな手が、レオンの頬にゲンコツをくらわす。
痛い。
この小さな手でペチペチやられるだけなら、愛らしさにデレデレしているだけでいい。
だがツネリだとか頭突きだとか。非力なはずの赤子の動きが、巧妙にレオンの弱いところをついてくる。
しかも最近、ちょっとばかり重くなってきた。
レオンは非力な男なのだ。
抱っこをしている状態で、全力で抵抗されると、重いし、痛い。
レオンの腕から抜け出そうと手を伸ばし、力いっぱい辺りに振り回すジャックの手。鼻の穴や目玉に突っ込まれそうになる。
顔をそむけたり、目をつむったり。
ジャックの愛らしいモミジの手から逃げながら、レオンはどうにか、ナタリーへと言葉を返した。
「知りませんよ! いつあなたが懐妊したのかも知らないのに」
「百五十年前だって言ってるでしょ!」
「とっくに生まれて、そのうえ、天寿をまっとうしていておかしくない年月が流れていますよ!」
「うるさいわねっ! 医者もどきなら、それくらい見てわかるでしょ!」
「出産は医術の範囲外です! 男の僕に、手出しは出来ません!」
そもそも婦人の出産だの下半身にまつわる事情を、医師が関わることは禁忌なのである。それらは全て、産婆の担う分野だ。
「ジャックはレオンが取り上げたんでしょっ!」
「その義母は死にましたがね!」
「もしかしてアンタ、あたしに一人で産ませるつもりなわけ?」
「産婆を呼びますよ!」
「フザケないで! レオンが孕ませたんでしょっ! 責任取りなさいよっ!」
「レオン違い……っ!」
がっくりとうなだれるレオンの顔を、腕の中のジャックが「だぁーあーうー」とぺちぺち叩く。癒される。とても。
慰めてくれるのか、ジャック――…。
何度言っても、ナタリーはレオンとレオンハルトを混同している気がしてならない。本人は違うと言い張っているが。
はあーと溜息をついて見上げると、ナタリーは苛々した様子で狭い小屋の中を歩き回っていた。
ジャックはそれを見て、一緒に遊んでもらおう、ついて回ろう、と腕の中で暴れ始める。
重い。しんどい。
そろそろレオンの貧弱な腕が、限界を訴えている。
諦めたレオンは、いったんジャックを床におろそうと身を屈めた。と、そのとき。
素っ頓狂な声が飛んできた。
「きたきたきたきたきたぁああああああああ! これっ! これよっ! これだわっ!」
「……は?」
ジャックの脇の下を抱えて宙ぶらりにした状態のまま、レオンは顔をあげた。
目の前でナタリーが、どこか恍惚とした顔で、あらぬところへと視線を投げている。
これ以上突き出せないだろうというくらい出っ張った腹に、片手を置き。
もう片手は拳を握って天に振り上げ。
陶然とした目つきは、どこか遠い世界へ旅立ってしまっているようだ。
額から首筋まで伝う玉の汗が、きらきら。豊かで艶のある黒髪は、魔力で逆毛だっている。
にんまりと吊り上がった官能的な、唇はどこまでも紅く。
うん。怖い。
ジャックをブラリと下げたまま、レオンは一歩下がる。
しかしナタリーは豊かな髪をバサッと振り乱し、汗をきらきらと飛ばしながら満面の笑みでレオンに振り返った。
いや、怖いって。
「レオン! きたわよっ!」
「……きたんですか」
「そうよっ! 早く準備なさい!」
にんまりと笑うナタリーに、レオンは溜息をつく。それからジャックを囲いのついた寝床へと、そっと置いた。
ジャックが「だぁあーうー!」と抗議し始める。
狭い囲いの中がご不満らしい。しかし今は我慢してもらうしかない。
「ごめんね、ジャック。しばらく遊んであげられないんだ」
「だぁああああ! だっ! だっ! ぶぅうう!」
「許しておくれ。僕も君と遊んでいたいんだけど…」
名残惜しそうに、レオンはジャックの頬っぺたをつんつん突つく。
囲い越しのジャックは、プクっと頬を膨らませてている。なんという愛らしい抗議。
振り上げられた小さなおててを、レオンはそっと握った。
ナタリーは舌打ちした。
大きな腹を揺すって、どすっどすっと歩を進める。いつまでもジャックと戯れて離れない、大バカ者の背中を蹴るために。




