9 粘土棺
巨大な箱を運び入れた衛兵ふたりが、リシュリューの高貴な兄妹へ礼をする。
彼らが部屋を辞するのを横目に、ヴィエルジュはほどいたリボンを手に巻きつけた。
濃紺色のシルクの上で、金糸と銀糸がちらちらと光を反射する。
「目がさめたか?」
ヴィエルジュは妹マリーを見下ろし、たずねた。
「芥子の希釈汁は、しばらくまえからスープに混ぜぬよう、ルイーズに言ってある。そろそろ頭も晴れてきたころだろう」
マリーはこれ以上ないくらいに、目を見開いた。
「これ、は……」
マリーのくちびるがわななく。
胸にいだくトリトンの首を、マリーはよりいっそう強くかきいだいた。
彼女の腕の中で、死したやわらかい腐肉がぐにゅり、と変形する。
巨大な粘土棺。
床に対して垂直に立てられ、その棺の蓋がいま、マリーへと開かれている。
赤みがかった褐色の焼き物は、エノシガイオスで盛んに用いられる粘土彫刻のひとつだ。
トリトンが生前に統治していたトライデントでも、建物の壁や屋根板として、その煉瓦が用いられていた。
トリトンとマリー。ふたりが始まったばかりの恋によろこびをほとばしらせていたころ。
トリトンは幼い恋人マリーへと、トライデントを案内してまわった。
ふたりは手をつなぎ、笑い声をあたりに響かせ、美しいトライデントの広場をかけまわった。
まばゆい陽光がふりそそげば、あざやかな赤褐色の粘土彫刻は、白茶けた淡桃色へと変ずる。
紺碧の空に白い太陽。大理石の神像。あざやかなモザイクのタイル。粘土彫刻の屋根。
美しい半島トライデント。
神々の住まうところ。
トリトンが愛した地。
おそらく今は、度重なる戦で荒廃していることだろう。
亡き夫ヨーハンの命のもと、残虐な悪魔がかの地を踏み荒らし蹂躙した。
「悪魔だわ」
マリーは棺から目を離せずに、つぶやいた。
「まるで悪魔の所業よ」
「たしかに」
ヴィエルジュはうなずくと、粘土棺をのぞきこんだ。
「これはひどい。さまざまな芸術に耐性があると自負しているが、その私であってさえ、これを芸術と認めることには抵抗がある」
「芸術ですって? ご冗談でしょう」
マリーは棺の中身からようやく目をそらし、場違いに軽薄な兄ヴィエルジュを糾弾した。
「彼らをいますぐ、手厚く埋葬してあげて」
トリトンの首をかかえたまま、マリーが立ちあがった。
ゆっくりと粘土棺に近づき、おそるおそるといったそぶりで、片方の手を棺へのばす。
そのときようやく、マリーは自身の指が蛆や腐肉などで汚れていることに気がついた。ドレスのうち、比較的汚れのすくない部分をさがし、手をぬぐう。
それからマリーは膝をおり、死者へと愁傷の意を示した。
「葬儀を執り行うとして、彼らの教義はどちらかしら」
マリーは兄ヴィエルジュが手に巻くエノシガイオス配色のリボンを一瞥した。
それから棺の中身を見つめる。
棺の中には遺体。
遺体は不自然な体勢で棺の中におさまっていた。
不謹慎なことに、その構えは滑稽といえた。明確な嘲笑を意図している。
ありあまる悪意に満ちた棺。
「エノシガイオス人ではなさそう」
マリーは痛ましそうに眉をひそめ、ひとりごちた。
棺の中には、三つの首があった。
胴体は一体。
たった一体の胴体は、まだ年若かったであろう娘の首と繋がっている。
しかし娘の肢体もまた、一度はばらばらに解体されたのだろうか。
通常であれば、ありえない方向に曲がった首、腕、背骨、足。それらが複雑に組み合わされ、継ぎ接ぎされている。
そしてその娘が抱える、ふたつの首。
マリーが、トリトンの首を抱えているのと同じように。
おもわずマリーは、胸元をのぞきこんだ。
これまで室内で、マリーに抱えられるだけだったトリトンの首。
比べて棺の中の首は、マリーの抱えるトリトンの首よりも損傷が激しい。完全に腐り落ち、すっかり判別不能だ。
日光や潮風、雨にさらされ、鳥獣の餌食となった痕跡がありありと残っている。
滑稽さを強調するよう、邪悪にゆがめられた娘の肢体同様、丁重に扱われていたとは考えがたい。
遺体を故意に損なわせる行為こそが、死者を悼む儀式であるというような。そういった教義が存在するのでなければ。
これは死者への冒涜そのものだ。
「フランクベルト人……? 損傷がひどいわ。生前のお姿がわかりにくい」
マリーは怖気づくことなく棺の前に立ち、じっくりと見分していく。
「女性はまだすこし、お顔つきが想像できる――それにしてもあまり見かけない骨格のようだけれど」
「トゥーニス人だよ」
ヴィエルジュはいつのまにか、マリーの背後にまわっていた。
「トゥーニス総督ボードゥアンと、その息子バティスト。それから娘のデルフィーヌ」
マリーが兄ヴィエルジュへと振り返る。
「もちろん三人ともフランクベルト人であり、国教徒だ」
ヴィエルジュはマリーにほほえみかけ、それから棺の中のボードゥアン親子へと視線を移した。
「この『悪魔の所業』が誰の手によるのか、おまえはわかるかい」
「いいえ」
マリーは兄の横顔を見つめ、戦慄した。
ヴィエルジュは美しいほほえみを浮かべていた。彼らしい表情だといえる。
そして彼は怒っていた。
兄の激しい憎悪と嫌悪が、妹の身をすくませた。
兄が妹へ、これほどにまで怒り狂う姿を見せたのは、いつが最後だったろう。
夫ヨーハンを裏切り、トリトンとの逢瀬を父シャルルに頼み込み、その計画が初めて叶ったときでさえ、兄はこれほどの怒りを見せなかった。
そうだ。
あれは息子ジークフリートが、薄気味の悪い固有魔法を発現させたとき――。
「メリケルテスだ」
ヴィエルジュはマリーの碧い瞳をのぞきこみ、きっぱりと言った。
「おまえの息子メリケルテスが、南島トゥーニスを強襲した」
「私の息子が」
マリーは呆然としてヴィエルジュの言葉を繰り返した。
「南島トゥーニスを強襲……」
「トリトンの仇討ちだそうだ」
ヴィエルジュの笑みが深まっていく。
「報復のために、メリケルテスはフランクベルトの属島トゥーニスを暴力にまかせて蹂躙した。そして総督一家の遺体を送ってきた」
マリーのからだを恐怖が支配する。
全身の血が凍ってしまったように寒い。しかしながら、寒いと身を震わせることすらできない。
単純な呼吸運動だけが、かすかに繰り返される。
「メリケルテスが彼らの哀れな遺体を送りつけた、その第一の宛て先は、ここリシュリューだ」
ヴィエルジュは妹の肩にそっと手をのせ、兄妹の鼻先がふれあう寸前まで顔を寄せる。
「マリー、おまえ宛てに。そして我が妻ルイーズが、おまえに代わって家門の者とともに、中身を確認したのだ」
兄妹の視線が明確に結ばれると、兄は目をつむり、息をついた。
腐臭とは異なる、清潔な吐息がマリーのくちびるをかすめる。
「それでルイーズは伏せってしまってね」
ヴィエルジュはマリーから離れた。
「ルイーズと私のあいだにも息子はいるが、彼らも幼いころにはほとほと手を焼かされた」
ことさらひょうきんに肩をすくめ、ヴィエルジュがうそぶく。
「マリーよ。やんちゃすぎる息子は、互いに困りものだな」
メリケルテスはマリーが唯一、自ら乳を与えた息子だった。
ほんのわずかなあいだとはいえ、母として慈しんだ赤子。
ジークフリートにレオンハルトにメリケルテス。
三人の息子を産んだマリーだが、ジークフリートとレオンハルトにおいては、産まれてすぐに取り上げられた。
フランクベルトの王位継承者として、重要な王子であることを理由に。
ジークフリートはヴリリエール家アンリの妻がジークフリートの乳母となり、建国の七忠、その家門の者が代わる代わる立ち替わり、育てた。
レオンハルトはメロヴィング家オーギュストの末妹がレオンハルトの乳母となり、メロヴィング家の人間が育てた。
それだから、マリーにはメリケルテスだけだった。
彼だけが、三月のあいだ、マリーの乳房をしゃぶった。そのちいさな手でマリーの頬に触れた。
「フランクベルトへは」
マリーはからからに乾いた喉をひきつらせ、声をふりしぼった。
「王都へは、知らせたのですか」
ヨーハンは死んだ。
空位となった王位に就いたのは、いったい誰だ。
フランクベルト宮廷を動かしているのは、新王か廷臣か。いま、国はどうなっているのだ。
トリトンの死を目の当たりにして以降、マリーは過去に生きていた。
思い出をよすがに、歓喜と絶望とをのんきに繰り返していた。
「もちろん、父シャルルが知らせた」
ヴィエルジュは手中のリボンをひらひらと振った。
「父はいまなお王の上級顧問を務めている。このままでは私に役目はまわってこないかもしれないな」
メリケルテスはトゥーニス総督一家の首を粘土棺にいれ、リシュリュー侯爵領へ。
そして遺体の残りを箱詰めにして、フランクベルト王宮まで届けた。
人間が人間を相手に、ここまで残酷になれるのか。それもまさか、愛するトリトンとの間に生まれた我が子の所業だとは。
マリーはふるえる手で、トリトンの髪をまさぐった。
すでにまばらな髪が、ごっそりと抜ける。
「あの子を」
マリーはうつむき、腐った首を抱えこんで懇願した。
「メリケルテスを殺さないで」
マリーは膝をふるわせながらも、どうにか気力を保った。
「殺しはしないだろう」
ヴィエルジュはあっさり了承した。
マリーが顔をあげる。
兄ヴィエルジュはまたもや、美しいほほえみを浮かべている。
兄の怒りはまだ、解けていない。
マリーは浅く短い吐息を繰り返す。
耳のすぐそばに心臓があるような心地だった。激しい血脈がこみかみを打つ。じくじくとした熱をもち、痛む。
「メロヴィング公とジークフリート殿には、メリケルテス成敗よりも、もっとおもしろい企てがあるらしい」
愉快そうなヴィエルジュの口ぶり。
あまりの恐怖に、吐き気がする。
マリーは兄へとすがるようなまなざしを向けた。
「おもしろい企てとは、なんです」
マリーがどうにかたずねると、ついにヴィエルジュの表情からほほえみが消えた。
「ヴリリエール家のジャンヌを嫁がせるそうだ」
ヴィエルジュは妹マリーの頬に手をのばし、そっとなでた。
「メリケルテスのもとへ。新王レオンハルト陛下のご決断だ」
「『高貴なる慰み者』ジャンヌを、メリケルテスに」
もはやマリーは立っていられなかった。
「レオンハルトが、王に」
エノシガイオスの次期君主メリケルテスが、フランクベルトの大貴族ヴリリエールの娘と婚姻を結び、フランクベルトへとエノシガイオスが勢力をのばす。
フランクベルトの王には、知恵の回る疎ましいジークフリートではなく、大貴族たちの息がさほどかかっていない、若く愚かで、いかようにも踊ってくれるだろうレオンハルトが即位する。
かつてマリーがトリトンへと語った、エノシガイオスの大陸制覇。その筋書き。
まるで恋人たちの夢の構想が、いままさに叶えられんとしているようではないか。
トリトンとマリー。
情熱的な恋人たちが望んだのは、はたして、これほどまで残酷で邪悪な展開だったのだろうか。




