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5 はりぼて




 謁見の間、その扉近く。

 扉前に立つ衛兵と、フィーリプは雑談をしていた。

 主に女の話を。

 どこの売春宿ならば、若く清潔で容姿の整った女がいるのか。具合はどうか。芝居がからずに乱れることができるか。詮索がちであったり、おしゃべりをしすぎることはないか。

 そんなような話を。


 壁掛けの松明の下。フィーリプは石壁を背に、だらしなくすわりこんでいる。手にはワインの入った革袋。

 扈従(こじゅう)らしくキルトのダブレットを着込むことをしないフィーリプは、灰色の毛織チュニックを一枚だけ羽織っている。

 いかにも旅の吟遊詩人(ぎんゆうしじん)か、奇術師のような格好だ。


 彼がつい先日まで、高貴なる王子の身分にあったとは信じがたいほどの気安さ。

 ややもすれば、見るものにみすぼらしさすら感じさせるほどの。



「さあ、きみも飲めよ」

 フィーリプはときおり、衛兵にワインをわけてやった。

「こんなところでひたすら無為に立っていなけりゃならんとは、きみも飲まずにはやっていられないだろう」


「いやあ、そいつはちょっと」

 衛兵はフィーリプのよこすワインをものほしそうに眺めては、うっかりギュンターのしかめつらが目にはいり、あわてる。

「まだ仕事を失いたくないもんでね」


堅物(かたぶつ)が気になるのか?」

 フィーリプは笑い、よろけて立ち上がった。

「おっと」


「それ」

 フィーリプは衛兵の肩に腕を絡ませ、革袋の飲み口を衛兵のくちびるに押しつけた。

「無理やり飲まされたってことにしておけよ」


「へへ。ありがたく」

 衛兵は喜び、口をすぼめてワインを吸いこむ。



「まぬけめ。ありがたがるなよ」

 フィーリプは自分の番とばかりに、乱暴な手つきで革袋を持ち上げ、ワインを口に含んだ。

「きみは無理やり飲まされているんだからな」

 そう言って、もう一度衛兵の口にワインを押しあてると、フィーリプは崩れ落ちるようにして、床にたおれた。


 長い槍を片手に、衛兵がフィーリプのわきに手を入れ、身をおこしてやる。



「ああ、たすかるよ」

 酒臭い息を吐き、フィーリプがへらりと笑う。


 フィーリプが相手にするのは、彼の祖父、親愛王アルブレヒトの庶子が息子である、身元の確実な従兄ギュンターではなく。

 輪のはずれたところのあるチェインメイルと、使い古して色あせた硬革の鎧に身を包む衛兵。

 無名でさほど金のない家の、次男坊か三男坊あたりだろう。

 ぱっとしないつらがまえで、仕事への意欲が低く、立身出世も見込めそうにない。


 レオンハルトの扈従ギュンターは、従弟フィーリプの目も当てられぬ落ちぶれように、奥歯をかみしめた。


 先王殺害を企んだ大罪人フィーリプは、現王レオンハルト二世と王兄摂政ジークフリートという寛大なる兄弟によって恩赦(おんしゃ)を与えられ、今やジークフリートの扈従をしている。

 このありえぬほどの厚恩について、大罪人フィーリプは誠心誠意でもって償い、感謝し、勤労に励むべきである。


 ギュンターは主レオンハルトに、いつわりのない忠誠心がゆえに、ときおり諫言することがあった。

 たいがいの場合、レオンハルトは扈従ギュンターの言に耳を傾け、取り入れる。

 だがしかし。フィーリプへの恩赦は、レオンハルトの敬愛する兄摂政ジークフリートが求めたことであったので、レオンハルトはギュンターの反対にうなずかなかった。


 このような信頼のおけぬ、薄汚い裏切り者をそばにおくなど。

 ジークフリートもレオンハルトも、我が従兄弟殿はどうかしている。

 それがギュンターの率直な見解だった。



「おや」

 フィーリプが顔をあげる。

「狂信者の礼拝が終わったようだ」



 フィーリプの軽口につられ、ギュンターと衛兵も追って視線をやった。

 謁見の間の奥から、純白のローブに身を包むアングレーム伯爵ブノワが、もとより神経質そうな細面をこわばらせてやってくる。


 ブノワの足取りはおぼつかない。

 壁に手をつき、一歩ずつゆっくりと慎重に足を前に進めている。

 フィーリプはそれを見て、愉快そうに口の端をゆがめた。



「きみにあげる」

 フィーリプはふらりと立ち上がっては、衛兵にワイン入りの革袋をおしつけた。


 硬革のブーツに包まれた衛兵の足をまたぎ、フィーリプが進み出る。

 ブノワの進路がふさがれた。



「やあ。これはこれは、潔癖なるアングレーム卿」

 フィーリプは薄くたよりない胸に手を当て、慇懃(いんぎん)にこうべを垂れた。

「我が兄と我が弟は、卿の信仰心をじゅうぶんに満たしてくれたようだ。ずいぶんと機嫌のよさそうなことで」



 いかにも酒に酔っているようで、フィーリプは体の軸をふらふらとさせ、軽薄な笑みを浮かべる。



「ルヌーフ家の、忌まわしき生き残りよ」

 ブノワの口ぶりにはフィーリプへのあわれみがあったが、不思議と視線がまじわらない。

「母や兄たちと運命をともにするほうが、ルヌーフ家と、そしてなによりおまえ自身のためであった」

 そこまで言うと、ブノワは立ちはだかるフィーリプを押しのけ、前へ歩を進めた。



「母と兄たちも、そうであればさぞ喜んだことだろうよ!」

 フィーリプはブノワの華奢な背に向かって、大声をはりあげた。

「父など墓土の下、諸手(もろて)を広げ、私を歓迎するに違いない!」



 フィーリプの哄笑(こうしょう)を背に、ブノワは立ち止まることなく、しかしときおり壁沿いに立つ衛兵にぶつかったりしながら、よろよろと回廊の奥へ去っていった。



「はあ。潔癖のアングレームときたら、冗談も通じない」

 フィーリプは衛兵へと振り返り、へらへらと笑いかけた。

「きみもそう思うだろ」



 衛兵は答えようがなく、槍を持つ側とは逆の手にワインの革袋をぶらさげ、あいまいにほほえんだ。

 ギュンターはもちろん、フィーリプの軽口に反応しない。



「なんだ」

 フィーリプは衛兵の肩へと腕を回す。

「きみも冗談が通じない堅物だったのか? 使い勝手のいい穴には、ずいぶん詳しいようだったのに」



 互いの鼻がふれるほど近づいたことで、衛兵は気がついた。

 元王子フィーリプの、魔性を帯びた緑色の瞳。

 そこには、酒に溺れた鈍重なまなざしなどではなく、残忍で狡猾な光が、油断なく宿っている。


 一見すると彼は、すっかりやさぐれ、世をあきらめた、捨て鉢の放蕩者のように見える。

 しかし彼は、衛兵にはけっして抱くことのできない、王族であるがゆえの威厳と高貴さ、傲慢さを隠し持っているのだ。



「おそれ多いことです」

 衛兵が口調を改める。


 フィーリプはつまらなそうに鼻を鳴らし、衛兵の首に絡めた腕をほどいた。

 衛兵がほっと息を吐く。


 そこへ、異腹の弟レオンハルトと異腹の兄ジークフリートが肩を並べ、ゆっくりと近づいてくる。

 フィーリプは眉をひそめた。そしてすぐさま、酔っぱらい特有の、しまりのない顔つきとなった。



「フィーリプ」

 異腹の兄ジークフリートの求めに応じて、フィーリプがにやけ顔を向ける。

「はい、なんでしょう」


「これを刀鍛冶のもとへ」

 ジークフリートは異腹の弟フィーリプの手に、折れた聖剣をあずけた。


「これは」

 フィーリプはふたつに割れた刀を前に、目を見開いた。

「建国王の――」


「折れた剣をつなぎ、ふたたび聖剣らしく見えるよう、鍛え直してほしい」

 ジークフリートはフィーリプの言葉を最後まで聞かずに言った。

「はりぼても必要だからな」


「はりぼて、ですか」

 フィーリプは折れた刀を持ち上げた。


 ()びのない白刃が松明の炎をうつしだし、橙色の光が流れ落ちる。



「ああ」

 ジークフリートは異腹の弟フィーリプの肩に手を置き、弟の耳へと小声でささやいた。

「獅子になれなかった私たちのような者が、虚勢をはるのと同じだ」



 フィーリプがはっとして異腹の兄ジークフリートへと振りあおげば、兄はすでに背を向けていた。

 異腹の兄ジークフリートはいつもどおり、異腹の弟レオンハルトと並んで歩いている。その後ろを一歩遅れてギュンターがつき従う。

 フィーリプのよく知る、仲の良い兄弟、そしてその扈従といった連れ立ち。


 けれど以前とはちがうところもある。


 かつては兄ジークフリートこそが君主のようであり、弟レオンハルトはその臣下のようであった。

 建国王のマントを羽織り、建国王の冠を頭に戴くべきは、フィーリプの異腹の兄ジークフリートであるはずだった。


 ――それこそをまさしく、母上も、兄ルードルフも兄ハンスも。

 我ら母子は、(はば)もうとしていたのだったっけ。



「はっ」

 フィーリプは思わずといったように、気の抜けた笑い声をあげた。

「はりぼてね」



 ジークフリートとレオンハルトの姿が、フィーリプの視界から消える。

 フィーリプは折れた聖剣を手に、肩をふるわせた。



「殿下?」

 衛兵がおそるおそる、といった様子でフィーリプにたずねる。



「きみ、なにを言っているんだ」

 フィーリプはおさまらぬ笑いの渦に身をゆだねながら、衛兵の言葉を否定した。

「もう殿下じゃないよ」


「はあ、さようで」

 衛兵は肯定も否定もできず、どうしたらよいかわからないと困り果てた様子だった。


 愚鈍で人のよさそうな衛兵をしり目に、フィーリプは笑い続けた。


 いいだろう。

 はりぼてで上等じゃないか。

 フィーリプは目じりに浮かぶ涙をぬぐい、折れた聖剣を胸に抱いた。


 父王ヨーハンが王笏(おうしゃく)の鋭い穂先で、母カトリーヌに兄ルードルフ、兄ハンスをつらぬいたとき。

 父の槍よりからくも逃れ、転げて尻もちをついたフィーリプ。

 そんな彼の前に、まっさきに立ったのは、異腹の兄ジークフリートだった。


 彼は知っていたはずなのに。

 フィーリプたち母子が、ジークフリートを太子の座から引きずりおろさんとくわだて、あわよくば命すら奪おうと。

 地獄の道連れとばかりに、憎悪と復讐心をつのらせていたことを。

 彼はよく知っていたはずだ。


 フィーリプの脳裏にはあの日の悪夢が、ひとつとして欠けるところなく、いまだ色あざやかによみがえる。


 異腹の兄ジークフリートは、着慣れぬ板金鎧に身を包み、ぎこちない動きで、しかし迷いなく決意に満ちた背中でもってフィーリプの前に立った。


 ジークフリートの、それまでに一度として血に汚れたことのないだろう、ぴかぴかの板金鎧。

 そこにうつりこんでいた、さまざまな景色。

 驚愕や恐怖でおそれおののくひとびとの顔。地に倒れた兵士らの無残な姿。画材をぶちまけたように色鮮やかな血の海。

 串刺しとなった母カトリーヌと兄ルードルフ、兄ハンスの、ぐったりと投げ出された肢体。

 兄ハンスを斬ったガスコーニュ侯爵アルヌールの長剣。

 殺し損ねたフィーリプを狙う、父王ヨーハンの、疲れきったまなざし。

 呆然とたたずむ異腹の弟レオンハルト。


 それから。

 腰を抜かし、血だまりに尻を浸けるだけのふがいない自分自身。



「はりぼてが必要なのであれば」

 フィーリプは呼吸をととのえると、殉教者のようにまぶたを閉じた。

「応じますよ、ジークフリート兄上」



 フィーリプの口の端がつりあがっていく。


 本物など。

 生を受けて一度たりとも、フィーリプは手にいれたことがない。

 そうであれば、はりぼてははりぼてらしく、まい進するのみだ。


 カトリーヌ、ルードルフ、ハンス。

 母と兄ふたり。ルヌーフ家の愛する家族を失った。

 しかしフィーリプはフランクベルト家にて、はりぼて仲間をふたたび見つけることができた。


 悪運強く、死神から逃れたこの命。まだ使い(みち)はある。


 フィーリプのてのひらに折れた刃が食い込み、紫紺色の血が(したた)った。

 酔いのさめていく心地がした。




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― 新着の感想 ―
[良い点] フィーリプ、生かしておいて大丈夫かな。 ジーク様はどうして彼を庇ったんだろう。 まさに父殺しを計画した大罪人なのに。 ジーク様でも間違うことあるってこと!? 心配だわーーー。 [気になる点…
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