4 弟王と兄摂政
歴史に己が名を残すために。
名誉と大義、信仰や忠節へ命を捧げる男たち。
そんな男の生き方が、レオンハルトは嫌いだった。
歴史に名を残し、後世の人間が自分をまつりあげたところでいかになろう。
今この瞬間、ともに生きている恋人や家族と幸福に、平穏に暮すことができれば、それでいい。
「アングレーム伯」
聖剣を手に玉座に腰かけたレオンハルトは、ひざまずくアングレーム伯爵ブノワを見下ろした。
「聖剣を破壊します」
膝をつくアングレーム伯爵ブノワのかたわらには、古ぼけた長持。
蓋は開かれ、中には青い輝きを放つ、なめらかで美しいビロードクッションが敷き詰められている。
クッションの四隅には金の房飾りがぬいつけられており、長持の中で窮屈そうに折りたたまれている。
もとは建国王の聖剣が安置されていた長持だ。
その聖剣はといえば、レオンハルトの膝上で壮麗な青白い光を放っていた。
聖剣を拠点として、あたり一面が浄化されるような。
圧倒的な神々しさ。
神秘的な青白い光は、黄金の冠と、少年王レオンハルトのすこしばかり幼さの残る顔つき、宝石の散りばめられた錫杖、ふわふわと素晴らしい毛並みの黒貂の毛皮、なめらかな黄金のビロードをくっきりとあざやかに浮かび上がらせた。
「陛下、それは」
苦渋に満ちたブノワの細面が、おそるおそるといった様子であげられる。
顔をあげたブノワが出会ったのは、壇上から注がれる少年王の冷酷なまなざし。
腰まで届くほどのブノワの長髪が、おそれおののくように揺れた。
白髪交じりで、淡い金色。ブノワの潔癖な気質がそのまま髪質にあらわれた、細い直毛。
その髪はうなじのあたり、白い絹のリボンでひとつにくくられ、ブノワの胸元に垂れている。
「どうしても、なさねばなりませんか」
ブノワは王の温情が望めないかとすがりついた。
彼はその神経質な声をふりしぼるのに、彼の細い髪の束をにぎりしめた。
「ええ」
レオンハルトはブノワのふるえる手を一瞥し、そっけなく言った。
「父王ヨーハンの遺志でもありますから」
「肥満王の思惑など!」
ブノワが純白のローブをひるがえし、憤然として立ち上がる。
「歴代獅子王の中で、もっとも暗愚たる王! かの王は、尊き建国王がようよう実現したこの理想郷、フランクベルト王国を内部から崩さんとした狂人にすぎません!」
「ひかえよ」
レオンハルトの背後に立つジークフリートが、冷たく切りすてた。
「建国の七忠たる者が獅子王を侮蔑するなど、許されることではない」
「獅子でもないあなたに、指図されるいわれはありません」
ブノワは薄笑いを浮かべ、ジークフリートを見上げた。
「青い血を発現させてなお、獅子王よりその血を拒絶された、獅子のなり損ないなどに」
「黙れ! 蛙!」
レオンハルトは激昂して声をはりあげた。
「もう一度、兄上を愚弄してみろ。おまえの一族からもヴリリエール同様、一族魔法を取り上げるぞ!」
レオンハルトは膝上の聖剣が滑り落ちるのにもかまわず、立ち上がった。
そして勢いのまま、アングレーム伯爵ブノワに向かって王笏の石突を突きつけた。
先王ヨーハンが、彼自身と彼の側妃、それから息子ふたりの命を奪った王笏。
鞘を抜けば、そこには美しく装飾の施された槍が。
赤、青、紫紺色。
先王亡き日、三色の血にまみれていた王笏は、今はただ美しいだけの錫杖にすぎない。
「そのようなことを」
ブノワの顔が、恐怖にひきつれる。
「それはやめておけ」
すかさずジークフリートが摂政王太子としての立場から、弟王の理不尽な脅迫を否定する。
「潔癖のアングレームなくして、国教は守れぬ」
アングレーム伯ブノワの嘲笑にも、弟王レオンハルトの憤怒にも、ジークフリートはとりあわず、表情を変えなかった。
「そんなことより、レオン」
ジークフリートは、分厚い毛皮のマントに覆われた弟レオンハルトの肩に手を置いた。
「本当によいのだな」
弟王の瞳をのぞきこむジークフリート。
同じ碧を持つ兄弟の瞳が、ひとすじの線でつながれる。
レオンハルトは兄の口ぶりとまなざしから、兄の慈愛を感じ取った。
王の摂政ではなく、レオンハルトの敬愛すべき兄として、ジークフリートは弟の意を汲まんとしている。
「ええ。かまいません」
レオンハルトは落ち着きを取り戻し、兄にほほえんだ。
「僕には無用の長物ですから」
「封印のなされた聖剣を破壊すれば、ヴリリエールの能力そのものもまた、消滅するのだぞ」
ジークフリートは弟に重ねて確かめる。
先王ヨーハンが生前、不完全ながらも封じたヴリリエールの一族魔法。
これまでの歴代獅子王は、かつて建国王が建国の七忠へとふるまった一族魔法を細分化して感知し、支配するほどの力までは、持ちえなかった。
しかし先王ヨーハンはヴリリエールの一族魔法の検出、およびヴリリエール一族への目隠しまでもをやり遂げた。
不完全な霧ではあった。
だがしかし、ヴリリエールの一族魔法を建国王の聖剣へと封じ込めることに、先王ヨーハンみずからの血肉を捧げることで、ようやく完成した。
「そうです!」
ジークフリートの言で我を取り戻したブノワが、あわててジークフリートに賛同する。
「建国王が分け与えくださった、神よりうけたまいし神秘の能を――」
「無用の長物だと、何度言えばわかるのですか」
レオンハルトはいらだたしげにブノワをさえぎった。
「建国王をはじめ、そのほか歴代獅子王が狂気に飲まれるはめになった能力など、神秘どころか」
数多の燭台――天井から吊るされてぶら下がっていたり、装飾机の上に飾られていたりする、かぞえきれないほど多くの――が照らし出す、弟王レオンハルトの憎悪にゆがんだ横顔を、ジークフリートが見つめる。
「呪いでしかない」
吐き捨てるように言い放つ王レオンハルトに、ブノワは反論しなかった。
現王レオンハルトの言い分を受け入れたわけではない。
しかし獅子王をあがめるアングレーム家の長として、獅子王の言は絶対であった。
たとえアングレームがもっとも崇拝する建国王の尊き魔法が、ほんのひとかけ、失われることになろうとも。
――汚れた子宮より生まれ落ちた、汚れた獅子の、なんと愚かなことか。
潔癖のアングレーム。その信条に反する、現王レオンハルト二世の出自。
王妃マリー、現王太后マリーの不貞という、おそるべき大罪によって、これ以上なく汚れた子宮にて育まれた王だ。
なるほど。その思想も、汚れた子宮によって汚染されている。
いかにもおぞましく、不潔である。
現王レオンハルト二世とは、高潔であるべき獅子王の役にふさわしくない。許しがたい。
それでも、ブノワは汚れた獅子王レオンハルトに従わざるをえなかった。
憎悪を抱えながらも、いっぽうで少年王レオンハルトを前に、これまで感じたことのない胸の高鳴り、うっとりするような陶酔を隠すことができない。
なぜなら汚れた獅子王、こと第十一代フランクベルト王レオンハルト二世は、歴代獅子王の中でも、特別な獅子王だった。
彼が特別な獅子王である所以。
それは、初代王レオンハルトとその名が同じであるだけではない。
彼の生誕時、その身が輝かしい黄金の毛で包まれ、奇跡の仔獅子であったという、神話のごとき過去にとどまらない。
現王レオンハルト二世はまるで、建国王レオンハルトの生まれ変わりであるかのような膨大にして尽きぬ魔力を、その若い血潮にみなぎらせていた。
「父王ヨーハンがその命を対価として捧げた封印ごと、聖剣を破壊します」
レオンハルトはあらためて宣言した。
「それから、このあとの評議会で正式に決定することになりますが、エノシガイオスの要求どおり、トリトンの遺体と王太后マリーをかの国へ送り届けます」
「ええ」
敵将トリトンの遺体、王太后マリーを敵国へと譲り渡すことには、ブノワとてなんの異論もない。
「陛下の命じられるがままに」
「加えてエノシガイオスの要求する金品の支払いと、捕虜およびトライデント返還への同意」
レオンハルトは地に落ちたままの聖剣を踏みつけた。
「代わりに、トゥーニスの地と島民の、我が国への返還を要請しましょう」
鞘から引き抜くことなく、レオンハルトは王笏を頭上高く振り上げた。
石突が聖剣へと勢いよく振り下ろされる。
謁見の間の空気という空気がすべて振動したかのようだった。
女の悲鳴のような、かぼそく哀しげな。あるいは戦場で剣と剣がぶつかり合うときの、力強い金属音のような。
戦いに敗れた兵が絶命のおりに叫ぶ祈りのような。獣の断末魔のような。
鮮烈な青白い光が謁見の間を包み込む。
すさまじい光の放出により、ブノワの視力は一瞬にして奪われた。
しかし、あたりを焼き尽くさんばかりのまばゆい光は、一瞬のうちに消え去った。
「最後に」
折れた聖剣のかけらを、レオンハルトが拾いあげる。
「フランクベルトとエノシガイオスの友好の証として、ヴリリエール家のジャンヌをメリケルテスに嫁がせます」
足元にしゃがみこむ兄ジークフリートの手には、剣先の折れた柄が握られている。
兄が顔をあげたので、レオンハルトは兄へと笑いかけた。
「以上でよいでしょうか、兄上」
ジークフリートもまた、弟王へとほほえみ返す。
「万事が陛下の仰せのままに」
仲の良い兄弟が笑いあう姿。
ブノワが彼ら兄弟をその目で見ることは、これ以降、一度たりともなかった。
この日を境に、ブノワの視力が戻ることはなかったからだ。
――歴史に名を残し、後世の人間が自分をまつりあげたところでいかになろう。
今この瞬間、ともに生きている恋人や家族と幸福に、平穏に暮すことができれば、それでいい。
とはいえ。
レオンハルトの求める小市民的な幸せとは、巨大国家の王が手にするには、いかに難しいことか。




