2 英雄の仇討ち
個人の尊厳を貶め辱める、非常に残酷な描写があります。
非人道的行為、不条理で理不尽な思想が随所に登場します。
上記に懸念がある方はご注意願います。
トゥーニス侵攻におけるエノシガイオス軍の指揮は、今は亡きトリトンの私生児メリケルテス。
後のパライモン九世がその任に就いた。
エノシガイオス艦隊は、メリケルテス直属の艦隊。
および、エノシガイオス公国の有力貴族が艦長を務める艦隊で編成される。
大小合わせた軍艦が百三十隻。
そのほか輸送船に補助船などの五十隻が、トゥーニス島を包囲した。
船に搭載する砲は一千門前後。
威力が強く短射程で、砲弾の重量が大きい主砲。威力が弱く長射程で、砲弾の重量はそれほどではない副砲。
大きな戦を経験したことがなく、大砲を目にしたこともないトゥーニスの島を蹂躙するには、じゅうぶんすぎる戦力だ。
艦隊に乗船するのは、正規兵の他に傭兵、神官、水夫など。
軍医に衛生兵はもちろん、軍楽隊に属さない吟遊詩人や、エノシガイオス宮廷の慰み者までいた。
快晴の海。
光をうけ、風をはらみ、ゆったりとたなびくフランクベルト家の旗。
赤と青の二色しか用いられない、単純な図案。
赤地に七本の青の斜線が、中央頂点から放射状に底辺へ向かい、均等に引かれている。
青は王侯貴族、赤はそれ以外の臣民の血の色をあらわすのだという。
蛮民の血の色など。
エノシガイオス家の美しい旗とは、比較にもならない。
メリケルテス率いるエノシガイオス全艦が船首に掲げる旗。
それはエノシガイオス家の旗ではなく、フランクベルト家の旗であった。
トゥーニスをあざむくために。
嫌悪と屈辱をこらえ、司令官メリケルテスが全艦長に命じた。
トライデントの戦で、屈辱の血に塗れたエノシガイオス家の旗。
その旗はまだ、船首に掲げてはいない。
――下劣なる畜生どもを駆逐しおえた、その暁にこそ。
天空の男神をあらわす濃紺の空。海の男神の象徴である金色の三叉槍。冥界の男神が地上に姿をあらわす際の化身のひとつである銀色の月。
エノシガイオスの旗をトゥーニスの至る場所へ、勝利の証として高らかに掲げてやる。
亡き父トリトンより託された雪辱。
トライデントの負け戦にてメリケルテスが抱いた、若き伝令兵としての決意があざやかに蘇る。
メリケルテスは父トリトンの敵、フランクベルト王国民であるトゥーニス島民に、いささかも容赦するつもりはなかった。
「エノシガイオスの勇猛なる戦士たちよ!」
メリケルテスが檄を飛ばす。
「今こそ悲願をかなえるときぞ!」
あたりをぐるりと見渡し、己を見つめる男たちの闘志を確認する。
「誉れ高き英雄トリトンの仇討ち、いざ参らん!」
メリケルテスの怒号にこたえんと、エノシガイオスの兵が咆哮した。
砲弾がうちこまれ、阿鼻叫喚の地獄絵図と化したトゥーニスに、エノシガイオス兵が上陸する。
彼らは、逃げまどう島民をどこまでも追い詰め、破壊と略奪の限りを尽くした。
至るところで悲鳴、哀願、絶望、苦痛の叫び声があがる。
メリケルテス率いるエノシガイオス兵は、女こども老人を問わず虐殺し、気の向くままに犯した。
燃え盛る炎が怨嗟をまきこんで、家々を包む。
戦といえど、常は禁じられている民間人への非道。
敵国の民であれども、無辜の民を傷つけるべからず。
慣習も言葉も違える異国同士の戦で、最低限、共有し尊重すべき認識であった。
しかしトゥーニス強襲において、その不文律は適用されなかった。
司令官メリケルテスはトゥーニス島への徹底的な略奪と破壊を、推奨すらした。
生き延びた島民は捕らえられ、捕虜奴隷として連行された。
メリケルテスは南島トゥーニスを征服すると、荒廃したトゥーニスの地を見せつけながら、トゥーニス総督ボードゥアンと、その息子の首を切り落とした。
槍に突き刺された首は、数日間、トゥーニス総督官邸前の広場に晒された。
鳥につつかれ、腐敗し始める首。
完全に肉が腐り落ちるのを待たず、トゥーニス総督ボードゥアンの首は槍から引き抜かれた。
そしてその哀れな生首を、メリケルテスは総督の実娘に差し出した。
憔悴しきった娘が、よろよろと父の首のもとへ駆け寄る。娘は腐った首をそっと持ち上げた。
血と脂でかたまった頭髪に髭。
娘が指を這わせると、ごっそりと毛が抜け落ち、娘の指にからまった。
メリケルテスは無感情な様子で、娘を押し倒した。
ふかふかと柔らかな、トゥーニス総督官邸の見事な絨毯の上へ、乱暴に。
娘は顎を床につけたかっこうで、父ボードゥアンの空っぽの眼窩と見つめ合った。
かつてそこにあったはずの、父ボードゥアンの温かな茶色い瞳は見あたらない。
その代わり、深淵を思わせる暗闇が、娘になぐさめの幻を与えた。
トゥーニス総督官邸で、父や兄と笑い合った日々のこと。早くに亡くなった母との思い出を語り合ったこと。
間もなく島を離れ、他家へと嫁ぐ娘に、父ボードゥアンが祝辞と、そして男親としての率直な寂寥を打ち明けた晩のこと。
娘の精神は肉体から抜け出し、幸福な幻想に囲われた。
いっぽう、魂を失った娘の頭上。
メリケルテスの首にかかった金の鎖が、振り子のようにはげしく揺れた。
汗が飛び散るのと同様に、金の石座にはめ込まれた赤碧玉が、メリケルテスの胸元から飛び出しては、娘の後頭部を打つ。そして戻る。
太い金の鎖は七十センチほどの長さがあり、その鎖に通された宝飾は、丸い大きな赤碧玉。
赤褐色の石には不純物が多く含まれ、黒い縞が細かったり太かったりしてぐるりと巡る。ところどころに白いまだら模様。
情熱的で活力に満ちた石だ。
石座は金でできていて、その意匠はアカンサスの葉。
先王ヨーハンがボードゥアンへと、トゥーニス総督就任を祝して贈った首飾りだった。
それが今や、メリケルテスの首にかかっている。
フランクベルト人ではなく、エノシガイオス人のメリケルテス。
彼はもちろん、南島トゥーニスとの縁故はなかった。
野蛮で冷酷非情、残忍な侵略者メリケルテス。
その彼の首に、トゥーニス総督の証である首飾りがあった。
敵地征服の勲章として。あるいは敵国の民へ侮蔑を誇示するために。
赤碧玉が、娘の頭を幾度ぶったことだろうか。
メリケルテスは娘から離れた。
そして彼はエノシガイオス兵を呼んだ。
それまで事態を静観していたエノシガイオス兵が、上官の命のもと、続々と娘のもとに集う。
傭兵に水夫をも含めたエノシガイオス兵が順々に、娘に覆いかぶさった。
屈辱の終幕は、小人ピュグマイオイに任された。
ピュグマイオイは、メリケルテスが近ごろ贔屓にしている慰み者で、メリケルテスはトゥーニス強襲にまでこの小人を同伴させた。
小人は主人を満足させようと、必死になって短い腕をのばし、娘の尻にかじりついた。
しかしかんじんの役目を果たすには、彼の体は小さすぎ、娘の尻は大きすぎた。
哀れな小人が虚空に向かって、がむしゃらに腰を振る。
その様子に、周囲を取り囲む兵から、どっと笑いが起こる。
「ピュグマイオイを手伝ってやれ」
メリケルテスは腹を抱えて笑った。
「こやつを男にしてやらねばな」
周囲の兵の助けを得て、どうにか小人が役目を終える。
そして総督の娘は、ようやく剣で胸をつらぬかれた。
娘の魂は肉体より先に、この世から旅立っていたため、娘の心臓が静止することに、誰もがなんの感慨も覚えなかった。
ぼろ切れのように打ち捨てられた総督の娘。
地を這う細く白い指。その関節は、おかしな方向へ曲がって折れている。
「魔女よ。いまはまだ、安穏としておればよい」
メリケルテスは汚れた娘につばを吐きかけた。
「まもなくおまえも、この娘と同じ目に合わせてやる。そしておまえには、名誉の剣で死ぬことを許さぬ」
剣によって命を終えること。
それはエノシガイオス人にとってせめてもの情けであり、故人へといくばくかの名誉を分け与える。
総督の娘の最期は、欲望と辱めを目的とする暴行によってではなく、剣によってもたらされた。
「父トリトンのかたきは、必ず取る」
メリケルテスは、ボードゥアンから奪った首飾りをはずし、投げ捨てた。
「そして母マリーを、エノシガイオスへ取り戻す」
ブーツのかかとで赤碧玉を踏みにじる。
「待っていろ、フランクベルトの畜生どもよ」
メリケルテスは憎悪のまなざしを死した娘へと向け、しばらくすると立ち去った。
ピュグマイオイは主の背をちらと一瞥し、首飾りを拾い上げた。
美しく磨かれた赤碧玉は、その艶を失わず、小人のつぶれた鼻を映した。
小人は短く小さな両手で、大きな赤碧玉を掲げ、にっこりと笑った。
◇
南島トゥーニス征服の知らせを受け、メリケルテスの祖父エノシガイオス公パライモン八世は、フランクベルト兵が占拠するトライデントにふたたび派兵した。
彼はベンテシキュメとロデからの援軍を得ていた。
フランクベルト王国の上級顧問ヴリリエール公爵アンリが懸念したとおり、フランクベルトと同盟を結んだはずの列国は、フランクベルトに反発したのだ。
トライデントの英雄トリトンが、フランクベルトにて捕虜生活を送る中で迎えた、不自然な死。
フランクベルト側の釈明は、とうてい納得できるものではなかった。
トライデントにおける、フランクベルト軍とエノシガイオス軍のふたたびの対立。
今度は立場が逆転し、エノシガイオス軍がトライデントを包囲した。
その包囲戦によって、フランクベルト側の残存兵の兵糧が尽き、エノシガイオス公はトライデントを奪還した。
これらの強襲――特にトゥーニス劫掠は、フランクベルト王国の民を恐怖に陥れた。
これまでにも戦争はたびたびあったが、民間人までもが惨殺されるほどの残虐行為に遭ったことはなく、加えて戦争は敵国の領土でなされるのがほとんどだった。
敵国によるフランクベルト国土への侵攻はめったに起こらぬことであり、戦争とはすなわち非常事態であるという認識が、フランクベルト人にはなかった。
驕れる大国。
それがフランクベルト王国だった。




