1 トゥーニス劫掠
人間の頭骨を胸に抱く女が、部屋の中央でうずくまっていた。
女の名はマリー。
先日薨御した第十代フランクベルト王ヨーハンの正妃である。
夫を亡くした寡婦マリー。
しかし彼女がかたときも離さず抱える頭骨は、夫ヨーハンのそれではない。
王ヨーハンの遺体はフランクベルトの伝統的な形式にのっとった大掛かりな葬儀ののち、王族の墓へと丁重に埋葬された。
いかにヨーハンの愛妻とて、崇高なる王の遺体を腐敗に任せることは許されない。
でははたして、強烈な腐敗臭を放ち、室内の空気という空気すべてを汚染する頭骨。
その正体はなんだろうか。
頭骨には皮膚や肉の腐乱した切れ端、髪がまばらに残り、蛆がわいている。
灰白色の蛆がつぎからつぎへと際限なく、こぼれおちる。
「トリトン、どうして私を奪い去ってくれなかったの」
マリーは顎をつきだし、視線をさまよわせた。
マリーの膝の上や絨毯の上。
ぽろぽろと散った蛆が体を寄せ合い、蠕動して進む。
「国を捨て、家を捨て、財を捨て、名を捨て」
マリーはゆらゆらと頭を揺らした。
「すべてを捨て、あなたとふたりで生きていく愛と覚悟があったのに」
口もとに浮かぶ無邪気な笑み。
室内は白と金を基調とした色彩で贅沢に整えられている。
なめらかで薄い絹の垂れ下がった、天蓋つきの四柱式寝台。純白の陶器でできた花器。金の燭台。
乳白色の大理石彫刻は、海の男神と海の女神の二柱。となり同士、夫婦仲良く並べられている。
マリーの故郷リシュリュー、あるいは彼女の起源でもあるエノシガイオスやそのほか列国の好む装飾様式だ。
美しく清廉な、高貴なる人物にふさわしい部屋。
だがしかし、その部屋は汚れていた。
隙間なく埋め尽くさんとする、甘ったるい腐敗臭。死の汚れ。
腐敗臭とはつまり、冥界の男神による救済が示されぬ証。
臭いが残るうちは、たとえ光が差し込んだとして、神の慈悲はない。さまよえる魂は、冥界へたどり着いていない。浄化が済んでいない。
部屋へと差し込む光。
格子のはまった窓が、光のでどころだ。
まるで舞台。歌手マリーが独唱するために用意された舞台がごとく。
淡い光はマリーだけを切り抜いた。
「どうしてあなたは、なにもかもを捨てて」
マリーは歌った。
「私への愛を選んではくれなかったの」
マリーは繰り返した。
同じ歌を、同じ言葉を。何度も。何度も。
薄暗闇に目を凝らせば、室内にはマリーのほかに、女扈従がふたり。それから鎧で身を固めた衛兵がひとり。
女扈従のひとりは今にも逃げ出したい様子で仕えるべき女主人から顔をそむけ、扉を凝視している。
もうひとりは鼻に布を押し当て、熱心に祈りを唱える。
衛兵は悪臭に眉をひそめつつも、ときおり退屈そうに大あくびをした。
◇
王太后マリーが彼女の生家リシュリューで幸福な狂気とともに、平穏な幽閉生活を送っていたころ。
フランクベルトの属島である南島トゥーニスの地に、敵兵が上陸した。
敵兵の正体はエノシガイオス軍兵。
海の覇者エノシガイオス公の兵団である。
海軍力の強さ、制海権の強さとは、すなわち国力に直結する。
というのも、自国貿易の要となる港の守護であったり、逆に、敵国の貿易拠点を攻撃侵略し、占拠することのできる力であり、脅威としての存在が可能だからだ。
また敵国の支配地域への侵攻を伺う位置に、己の拠点を築くことができるためである。
最初にトゥーニスの港へと迫る船団を目撃したのは、海岸で漁の準備にいそしむ漁師だった。
「あれを見ろ!」
漁師は握っていた網を白い砂の上に落とすと、船首に掲げられたフランクベルト王家の旗印をゆびさし、仲間にむかって叫んだ。
「王家のお偉い方が続々と来なさったぞ!」
漁師からトゥーニス師団へ。師団長からトゥーニス総督ボードゥアンのもとへ。
フランクベルト王家の旗を掲げた船団。その到来が報告された。
知らせを受けたトゥーニス総督ボードゥアンは仰天した。
彼は事前に、王族訪問の知らせを受けていなかった。
だが、新たな王が戴冠式を経て即位したことは、記憶に新しい。
新王レオンハルトの戴冠式には、トゥーニス総督ボードゥアンの代理人として息子を首都フランクベルトへ送り、出席させた。
そういった事情から、ボードゥアンはなるほど、と思い至った。
新王レオンハルトはつまり、確認したいのだろう。臣民が王へと向ける忠誠心が、ゆるぎなく存在するか否かを。
フランクベルト王国は数多の領邦・都市を抱える巨大国家だ。
王の代替わりを機に、各領邦に各都市の臣民がよからぬ企てをなさぬように。
先王ヨーハン亡きあとも引き続き、フランクベルト王家は王国民を見守り統治する。
今回の突然の王族訪問は、そういった類の注意喚起と意思表示に違いない。
「ただちに歓待の準備を」
ボードゥアンはトゥーニス宮廷人へ、指示を飛ばした。
「どなたが乗船なされているのか、確認出来次第、急ぎ知らせよ」
辺境の島トゥーニスへの王族来訪。頻繁には起こらぬ、華やかな慶事だ。
トゥーニス島内はあわただしくも活気づいた。
「ようこそ、トゥーニスへ!」
島民は諸手をあげて歓迎した。
「レオンハルト陛下、万歳!」
狭い海岸は、喜びあふれる島民の笑顔で埋め尽くされた。
「フランクベルト王国、万歳!」
老若男女を問わず、島民は先王ヨーハンの好んだアカンサスを手にし、船団によく見えるように振った。
つやつやとした濃い緑の葉が陽光を弾き、きらきらと光り輝いた。
風は凪ぎ、穏やかな海。
船団がゆっくりと海岸に近づく。
船の上の乗員の姿が、島民の目にも明確になる。
「おい、ありゃあなんだ」
島民の歓声がしだいに、不穏な色を帯び始める。
「王家の方々や、その家来にしちゃあ、ちいとおかしくないか」
「あんな鎧、フランクベルト王国にあったか」
海岸に集まった島民は、船上の兵らを目にして、困惑顔をつき合わせた。
「鎧もそうだが、なんだあ。あのでっけえ筒は」
島民のひとりが、口径の大きな黒い筒をゆびさした。
「あんなもの、見たことがねえぞ」
「ほう」
トゥーニスの鍛冶屋は、海岸へとまっすぐに向けられた砲身を眺め、感心したようにうなずいた。
「フランクベルトはさすが、鋳造技術が段違いだ」
ざわめく島民に言い聞かせるようにして、自慢げに大声を張る。
「トゥーニスじゃ、あれほどでけえ代物をひとまとめに作るこたあできねえぞ」
「トゥーニスとフランクベルトの違いじゃねえだろ」
鍛冶屋と仲のいい男が、鍛冶屋をからかうようにして肩を叩いた。
「そりゃ、あんたの腕の問題だ」
「なんだと」
鍛冶屋がこぶしを振り上げる。
「聞き捨てならねえな」
ふたりの男はニヤついて、冗談のような喧嘩を始めた。
そのときだった。
海上の船が、トゥーニスに向けて砲弾を打ちこんだ。
あたり一帯に、轟音が響き渡る。
島民の誰ひとりとして、聞いたことのない音。
それはまさしく、世界が崩れ落ちる音だった。




