表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
160/212

33 支え




「その男が正気を取り戻さぬようなら」

 一隊の将を務める青年が重い口をひらいた。


 青年はナタリーとレオンのやりとり、その一部始終を見ていたのだろう。

 正気を取り戻さぬようなら、とは。ずいぶんな言われようだ。


 事情をよく知らぬ者からすれば、彼とて狂人にすぎない。

 王子ユーフラテスという高貴な身上を名乗りながら、王都から遠く離れたゴールデングレインまでわざわざやってきて、平和に暮らしていた平民家族を突如襲撃したのだ。

 正気ではない。


 しかしナタリーは、事情をよく知らぬ立場にはなかった。



「あなたのせいじゃないの」

 ナタリーは悔しまぎれに青年をなじった。

「あなたが乱暴なことをするから」


「そのときはモールパの地へ向かう」

 青年はナタリーの糾弾にかまわず続けた。

「むろん、そのまえに王宮に寄らねばならぬが」



 そうだ。

 初代モールパ公爵こそ、レオンハルトの兄ジークフリート。

 そして目の前で苦々しい顔つきでレオンを見下ろす青年は、ジークフリートと同じ魂を持つ王子。

 レオンとナタリーを捕らえた張本人。彼はユーフラテスと名乗った。


 ナタリーがジャスパーから借りた写本『獅子に魅入られた男』。

 あの物語の翻訳者もまた、現在のフランクベルト王子だったはずだ。

 ジャスパーやテレーズが、翻訳者はフランクベルト王太子であると話していた。


 しかし目の前の青年が名乗った名とは異なる。

 あの翻訳者はたしか、アルフレートやらアルフレッドやら。

 古フランクベルト語や古キャンベル語のような響きの名だった。


 ユーフラテスという名の響きに、ナタリーは覚えがない。

 どこの国の言葉が由来なのだろうか。



「おたずねしたいことがあります」

 ナタリーはすこしばかり、かしこまったものへと口調をあらためた。


 ユーフラテス王子は驚いたように眉を上げた。が、すぐさまナタリーの求めに応じた。



「どうぞ」

 ユーフラテスは貴婦人を相手にするように、王子らしい礼節でもってほほえんだ。


 彼はジャックとリナを見逃した。

 多少の慈悲を期待してもいいのかもしれない。


 慈悲と無慈悲とを使い分けたジークフリート。彼はその生まれ変わり。

 そうであるならば、この場面で彼が選択するのはどちらだろう。



「ありがとうございます」

 ナタリーがたずねる。

「ミュスカデ様はお元気ですか?」


「ミュスカデ様?」

 ユーフラテスは眉をひそめ、ナタリーにたずね返した。

「どなたのことか、わかりかねるな。家はどちらで?」


「メロヴィング家です」

 ナタリーは素直に答える。



「メロヴィング家に、そのような名前の貴婦人はいなかったように記憶しているが」

 ユーフラテスは険しい顔つきで顎をしゃくった。


 かと思うと、彼はナタリーを睨めつけ、「その情報はどこから?」と言った。

 まさに囚人を尋問する口ぶりだ。



「百五十年前のメロヴィング家です」

 ナタリーは弁明した。


 現メロヴィング家は、王家と対立しているのだろうか。

 警戒の様子が尋常ではない。



「なるほど。百五十年前か」

 ユーフラテスはうなずいた。

「ならば知らぬ人間であっても道理だ。すでに故人だろう」



 知らぬ人間、か。

 彼は覚えていないのか。


 ナタリーは心細いような、それでいてどこか安堵するような心地になった。



「しかし」

 ユーフラテスは皮肉げに口の端を歪めた。

「あなたをかばった男がこの容態だというのに、これからの行く先について追求するのではなく、無意味な昔話を振るとは」



 ユーフラテスはほほえんだ。

 さきほどまでの、貴婦人に対するような、礼儀正しいほほえみではない。

 こちらのほうが彼の本性なのだろう。

 ぎらぎらと野性的で、不遜で、傲慢。


 それからユーフラテスは、一転していたわるようなまなざしをレオンに注いだ。

「いささかこの男に同情する」


「モールパの地なら、少しは知っているので」

 ナタリーはむっとして反論する。



「ほう」

 ユーフラテスは意外そうに片眉をあげた。

「百五十年前と今では、モールパの任務が異なっているはずだが」



 モールパの任務とはなにか。

 ナタリーには見当もつかなかった。


 百五十年前の当時、モールパ公爵となったばかりのジークフリートに任された役は、王レオンハルトの摂政だった。

 しかし現代において、モールパ公爵が王の摂政を担っているとは考え難い。

 当代モールパ公爵ユーグは、王都ではなくモールパの地にこもっていたのだ。


 ユーフラテスはナタリーの無理解を悟ったのだろう。

 彼は皮肉げな口ぶりを取り戻し、ナタリーを嘲るように薄く笑った。



「覚醒からほんのわずかな時間で、現モールパの役割をつかんだか」

 ユーフラテスはナタリーの目を覗き込んで言った。

「さすがは魔女だな」



 ユーフラテスはナタリーに興味を失ったようで、(ほろ)の開口部へと視線をやった。

 馭者のまるまった背中に、二頭分の馬の耳。

 それからゆっくりと流れゆく景色が見えた。


 道に転がる大小さまざまな石。

 その間を縫うように生える、黄緑色の細長い葉をした草。

 灰色の厚い雲に、灰色の険しい山肌。

 幌をあおり、不気味な唸り声をあげる、冷たい風。

 常に揺れる馬車は、ときおり大きく飛び跳ねる。



「モールパならば」

 しばらく黙していたユーフラテスは、ナタリーへと振り返ることなく前を向いたままで、独り言のようにつぶやいた。

「王室のわずらわしい詮索から逃れた医療が可能だ」


「医療?」

 ナタリーが思わず問い返す。



「ああ」

 ユーフラテスはつまらなそうにうなずいた。

「これ以上の説明をするつもりはない」


「あらそう」

 ナタリーは鼻を鳴らした。

「それはご親切に」



 それにしても義兄は、これほどまで隙のある人だっただろうか。

 これほどまでわかりやすく、攻撃的な嫌味を口にする人だっただろうか。

 これほどまでわかりやすく、お人好しな同情心を示す人だっただろうか。


 おかしい。

 姿形も魂も、百五十年前の義兄ジークフリートに似ているのに、どこかが違う。

 外見は、百五十年前よりずっとたくましく健康的で、男らしくなった。とはいえ、それくらいの違いは特別気にかかることじゃない。


 レオンなど、百五十年前のレオンハルトとはまったく異なる容貌をしている。

 それだから外見の違いなど、違和感を覚えるほどのことではない。


 ではなにがこれほどまでに、奇妙に感じさせるのか。

 レオンへと痛ましげな視線をそそぐユーフラテスの横顔を、ナタリーは注意深く見つめた。


 そうだ。魂だ。

 魂が同じなのに、同じじゃない。

 何かが違う。何かが欠けている。


 ナタリーは王宮で過ごすようになった日々のことを思い起こそうと努めた。

 百五十年前のジークフリートとは、いったいどのような人物だったか。


 それほど頻繁に親密に顔を合わせたことはない。

 だが彼が弟レオンハルトへとそそぐまなざしは、温かな愛情に満ち溢れていた。

 政治にうとく、王として学ばなければならぬ課題の多い弟レオンハルトを、厳しくも優しく導いていた。

 ジークフリートはレオンハルトの兄というより、まるでレオンハルトの父のようであった。

 そんなジークフリートに、レオンハルトは心酔していた。王となってからも変わらずに。


 フランクベルト王レオンハルト二世が王の右腕と頼ったのは、女である恋人ナタリーではなく、男である兄ジークフリートだった。

 レオンハルトは兄ジークフリートに、共同王を持ちかけることまでした。

 王レオンハルトの支えとなったのは明らかに、王の兄であり摂政でもある初代モールパ公爵ジークフリートだった。


 レオンハルトの憧憬を一心に集める兄ジークフリート。

 弟が兄を頼りとするいっぽうで、兄が頼りとするのは弟ではなかった。

 兄が最たる支えと信頼したのは、彼の長年の婚約者ミュスカデ。


 大貴族メロヴィング家の公女ミュスカデだ。



『男の方々にもときには、女のわたくし達と同じように、外界からの重圧から、あるいは内から出ずる猜疑心や自己否定などによって、もろくなってしまうことがあります』



 あのとき、ミュスカデがナタリーに彼女流の高説を披露したとき。

 ジークフリートとミュスカデの婚約は、白紙になってまもなかったはずだ。



『もしかすれば、女のわたくし達よりずっと、弱くなられることもあるでしょう。そのようなとき、女のわたくし達にできること。それは、愛する男性の支えとなることです』



 ミュスカデのように、男を支える体で、その実、男をうまく操るような。そういった才覚をナタリーは持ち合わせていない。

 たとえ、つらぬき通したい信念のために必要な忍耐だったとして。静かにほほえみ、男の言うことに従う気質でもない。


 そうであるから、ナタリーはレオンハルトのことも、レオンのことも、支えることができなかったのだろうか。

 ミュスカデがジークフリートを支えたようにはふるまえなかった。

 それがナタリーの過失だったのだろうか。


 男のうしろにつき従い、そっと支えるような。

 ミュスカデがナタリーに手本を示したような、そういった古風なやりかたではなく。ナタリーはレオンハルトの右腕でありたかった。

 ジークフリートのようには政治に通じていなかったけれど。

 ジークフリートのような賢さも持ち合わせていなかったけれど。

 それでもジークフリートの立ち位置こそが、ナタリーの望む場所に最も近かった。



『優しく寛大で、誠実で強靭な精神力の男の方々。その唯一の弱点となりうるのは、たいてい、愛する者の存在でしょう。ジークフリート様の弱点は、わたくしです』



 ミュスカデはきっぱりと言いきった。

 彼女こそが、隙のないジークフリートの弱点であると。



「『わたくしがわたくしのすべてをかけて真実お支えするのは、ジークフリート様おひとりです』」

 ナタリーはかつて聞かされたミュスカデの言葉を、そのまま口にした。



「なにを――」

 いぶかしげなユーフラテスをさえぎり、ナタリーは続ける。

「『それだけでわたくしには精一杯です。ですからナタリー様。レオンハルト陛下のお心をお支えるするのは、ナタリー様をおいてほかにはおられないのです』」


「昔話の続きか」

 ユーフラテスは膝に肘をのせ、不遜な様子で顎をあげた。


 平時の余裕を取り戻したようでいて、彼の琥珀色の瞳が揺れているのがわかる。

 ナタリーはユーフラテスの瞳を見据えた。



「『レオンハルト陛下唯一にして最愛の寵姫でいらっしゃるナタリー様が、あのお方を支えてくださいませ』」

 ナタリーはそこで言葉を止め、ほほえんだ。

「ミュスカデ様はそう言って、慣れぬ王宮で戸惑うあたしを励ましてくださいました」


「おまえが何の話をしているのか、まるでわからん」

 ユーフラテスは興味なさげに切り捨てた。


 彼はナタリーから視線をそらし、馭者の背中を眺めた。

 それからナタリーの膝の上のレオンに視線をやり、まぶたを閉じた。

 眉間には険しいしわが刻まれている。

 彼は頭にのせた冠に手をやった。

 青、亜麻色、灰色、紫、黒、緑、乳白色、黄色。それからそのほかの石より新しいだろう輝きを放つ赤。

 黄金にはめこまれたさまざまな宝石を、彼の指先がなぞっていく。



「――だが、まあ」

 ユーフラテスは諦めたように嘆息した。

「それほどまでに慕われたジークフリートとやらは、どうにも幸せな男だったようだ」






(第4章 了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ここまで拝読しました。第四章はとにかくジャスパーがいい人で、本当に癒されました。 第三章が血で血を洗うような劇的ドラマだったので、余計に癒しを感じたのかもしれません。前章の人たちは、こういう地味だけど…
 4章を拝読しました!  ついに150年前と現在が交錯した~! と拝読しつつ、テンションが上がりました。あと「わたくしのすべてをかけて真実お支えするのは、ジークフリート様おひとりです」と言い切ったミュ…
[良い点] 第4章、拝読いたしました。 150年後のフランクベルト王国やその周辺の貴族たちの状況がいろいろ見えてきましたね。 ナタリーに瀉血とは、蛇公爵、ひどすぎますね!  一遍にヴリリエールが嫌いに…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ