33 支え
「その男が正気を取り戻さぬようなら」
一隊の将を務める青年が重い口をひらいた。
青年はナタリーとレオンのやりとり、その一部始終を見ていたのだろう。
正気を取り戻さぬようなら、とは。ずいぶんな言われようだ。
事情をよく知らぬ者からすれば、彼とて狂人にすぎない。
王子ユーフラテスという高貴な身上を名乗りながら、王都から遠く離れたゴールデングレインまでわざわざやってきて、平和に暮らしていた平民家族を突如襲撃したのだ。
正気ではない。
しかしナタリーは、事情をよく知らぬ立場にはなかった。
「あなたのせいじゃないの」
ナタリーは悔しまぎれに青年をなじった。
「あなたが乱暴なことをするから」
「そのときはモールパの地へ向かう」
青年はナタリーの糾弾にかまわず続けた。
「むろん、そのまえに王宮に寄らねばならぬが」
そうだ。
初代モールパ公爵こそ、レオンハルトの兄ジークフリート。
そして目の前で苦々しい顔つきでレオンを見下ろす青年は、ジークフリートと同じ魂を持つ王子。
レオンとナタリーを捕らえた張本人。彼はユーフラテスと名乗った。
ナタリーがジャスパーから借りた写本『獅子に魅入られた男』。
あの物語の翻訳者もまた、現在のフランクベルト王子だったはずだ。
ジャスパーやテレーズが、翻訳者はフランクベルト王太子であると話していた。
しかし目の前の青年が名乗った名とは異なる。
あの翻訳者はたしか、アルフレートやらアルフレッドやら。
古フランクベルト語や古キャンベル語のような響きの名だった。
ユーフラテスという名の響きに、ナタリーは覚えがない。
どこの国の言葉が由来なのだろうか。
「おたずねしたいことがあります」
ナタリーはすこしばかり、かしこまったものへと口調をあらためた。
ユーフラテス王子は驚いたように眉を上げた。が、すぐさまナタリーの求めに応じた。
「どうぞ」
ユーフラテスは貴婦人を相手にするように、王子らしい礼節でもってほほえんだ。
彼はジャックとリナを見逃した。
多少の慈悲を期待してもいいのかもしれない。
慈悲と無慈悲とを使い分けたジークフリート。彼はその生まれ変わり。
そうであるならば、この場面で彼が選択するのはどちらだろう。
「ありがとうございます」
ナタリーがたずねる。
「ミュスカデ様はお元気ですか?」
「ミュスカデ様?」
ユーフラテスは眉をひそめ、ナタリーにたずね返した。
「どなたのことか、わかりかねるな。家はどちらで?」
「メロヴィング家です」
ナタリーは素直に答える。
「メロヴィング家に、そのような名前の貴婦人はいなかったように記憶しているが」
ユーフラテスは険しい顔つきで顎をしゃくった。
かと思うと、彼はナタリーを睨めつけ、「その情報はどこから?」と言った。
まさに囚人を尋問する口ぶりだ。
「百五十年前のメロヴィング家です」
ナタリーは弁明した。
現メロヴィング家は、王家と対立しているのだろうか。
警戒の様子が尋常ではない。
「なるほど。百五十年前か」
ユーフラテスはうなずいた。
「ならば知らぬ人間であっても道理だ。すでに故人だろう」
知らぬ人間、か。
彼は覚えていないのか。
ナタリーは心細いような、それでいてどこか安堵するような心地になった。
「しかし」
ユーフラテスは皮肉げに口の端を歪めた。
「あなたをかばった男がこの容態だというのに、これからの行く先について追求するのではなく、無意味な昔話を振るとは」
ユーフラテスはほほえんだ。
さきほどまでの、貴婦人に対するような、礼儀正しいほほえみではない。
こちらのほうが彼の本性なのだろう。
ぎらぎらと野性的で、不遜で、傲慢。
それからユーフラテスは、一転していたわるようなまなざしをレオンに注いだ。
「いささかこの男に同情する」
「モールパの地なら、少しは知っているので」
ナタリーはむっとして反論する。
「ほう」
ユーフラテスは意外そうに片眉をあげた。
「百五十年前と今では、モールパの任務が異なっているはずだが」
モールパの任務とはなにか。
ナタリーには見当もつかなかった。
百五十年前の当時、モールパ公爵となったばかりのジークフリートに任された役は、王レオンハルトの摂政だった。
しかし現代において、モールパ公爵が王の摂政を担っているとは考え難い。
当代モールパ公爵ユーグは、王都ではなくモールパの地にこもっていたのだ。
ユーフラテスはナタリーの無理解を悟ったのだろう。
彼は皮肉げな口ぶりを取り戻し、ナタリーを嘲るように薄く笑った。
「覚醒からほんのわずかな時間で、現モールパの役割をつかんだか」
ユーフラテスはナタリーの目を覗き込んで言った。
「さすがは魔女だな」
ユーフラテスはナタリーに興味を失ったようで、幌の開口部へと視線をやった。
馭者のまるまった背中に、二頭分の馬の耳。
それからゆっくりと流れゆく景色が見えた。
道に転がる大小さまざまな石。
その間を縫うように生える、黄緑色の細長い葉をした草。
灰色の厚い雲に、灰色の険しい山肌。
幌をあおり、不気味な唸り声をあげる、冷たい風。
常に揺れる馬車は、ときおり大きく飛び跳ねる。
「モールパならば」
しばらく黙していたユーフラテスは、ナタリーへと振り返ることなく前を向いたままで、独り言のようにつぶやいた。
「王室のわずらわしい詮索から逃れた医療が可能だ」
「医療?」
ナタリーが思わず問い返す。
「ああ」
ユーフラテスはつまらなそうにうなずいた。
「これ以上の説明をするつもりはない」
「あらそう」
ナタリーは鼻を鳴らした。
「それはご親切に」
それにしても義兄は、これほどまで隙のある人だっただろうか。
これほどまでわかりやすく、攻撃的な嫌味を口にする人だっただろうか。
これほどまでわかりやすく、お人好しな同情心を示す人だっただろうか。
おかしい。
姿形も魂も、百五十年前の義兄ジークフリートに似ているのに、どこかが違う。
外見は、百五十年前よりずっとたくましく健康的で、男らしくなった。とはいえ、それくらいの違いは特別気にかかることじゃない。
レオンなど、百五十年前のレオンハルトとはまったく異なる容貌をしている。
それだから外見の違いなど、違和感を覚えるほどのことではない。
ではなにがこれほどまでに、奇妙に感じさせるのか。
レオンへと痛ましげな視線をそそぐユーフラテスの横顔を、ナタリーは注意深く見つめた。
そうだ。魂だ。
魂が同じなのに、同じじゃない。
何かが違う。何かが欠けている。
ナタリーは王宮で過ごすようになった日々のことを思い起こそうと努めた。
百五十年前のジークフリートとは、いったいどのような人物だったか。
それほど頻繁に親密に顔を合わせたことはない。
だが彼が弟レオンハルトへとそそぐまなざしは、温かな愛情に満ち溢れていた。
政治にうとく、王として学ばなければならぬ課題の多い弟レオンハルトを、厳しくも優しく導いていた。
ジークフリートはレオンハルトの兄というより、まるでレオンハルトの父のようであった。
そんなジークフリートに、レオンハルトは心酔していた。王となってからも変わらずに。
フランクベルト王レオンハルト二世が王の右腕と頼ったのは、女である恋人ナタリーではなく、男である兄ジークフリートだった。
レオンハルトは兄ジークフリートに、共同王を持ちかけることまでした。
王レオンハルトの支えとなったのは明らかに、王の兄であり摂政でもある初代モールパ公爵ジークフリートだった。
レオンハルトの憧憬を一心に集める兄ジークフリート。
弟が兄を頼りとするいっぽうで、兄が頼りとするのは弟ではなかった。
兄が最たる支えと信頼したのは、彼の長年の婚約者ミュスカデ。
大貴族メロヴィング家の公女ミュスカデだ。
『男の方々にもときには、女のわたくし達と同じように、外界からの重圧から、あるいは内から出ずる猜疑心や自己否定などによって、もろくなってしまうことがあります』
あのとき、ミュスカデがナタリーに彼女流の高説を披露したとき。
ジークフリートとミュスカデの婚約は、白紙になってまもなかったはずだ。
『もしかすれば、女のわたくし達よりずっと、弱くなられることもあるでしょう。そのようなとき、女のわたくし達にできること。それは、愛する男性の支えとなることです』
ミュスカデのように、男を支える体で、その実、男をうまく操るような。そういった才覚をナタリーは持ち合わせていない。
たとえ、つらぬき通したい信念のために必要な忍耐だったとして。静かにほほえみ、男の言うことに従う気質でもない。
そうであるから、ナタリーはレオンハルトのことも、レオンのことも、支えることができなかったのだろうか。
ミュスカデがジークフリートを支えたようにはふるまえなかった。
それがナタリーの過失だったのだろうか。
男のうしろにつき従い、そっと支えるような。
ミュスカデがナタリーに手本を示したような、そういった古風なやりかたではなく。ナタリーはレオンハルトの右腕でありたかった。
ジークフリートのようには政治に通じていなかったけれど。
ジークフリートのような賢さも持ち合わせていなかったけれど。
それでもジークフリートの立ち位置こそが、ナタリーの望む場所に最も近かった。
『優しく寛大で、誠実で強靭な精神力の男の方々。その唯一の弱点となりうるのは、たいてい、愛する者の存在でしょう。ジークフリート様の弱点は、わたくしです』
ミュスカデはきっぱりと言いきった。
彼女こそが、隙のないジークフリートの弱点であると。
「『わたくしがわたくしのすべてをかけて真実お支えするのは、ジークフリート様おひとりです』」
ナタリーはかつて聞かされたミュスカデの言葉を、そのまま口にした。
「なにを――」
いぶかしげなユーフラテスをさえぎり、ナタリーは続ける。
「『それだけでわたくしには精一杯です。ですからナタリー様。レオンハルト陛下のお心をお支えるするのは、ナタリー様をおいてほかにはおられないのです』」
「昔話の続きか」
ユーフラテスは膝に肘をのせ、不遜な様子で顎をあげた。
平時の余裕を取り戻したようでいて、彼の琥珀色の瞳が揺れているのがわかる。
ナタリーはユーフラテスの瞳を見据えた。
「『レオンハルト陛下唯一にして最愛の寵姫でいらっしゃるナタリー様が、あのお方を支えてくださいませ』」
ナタリーはそこで言葉を止め、ほほえんだ。
「ミュスカデ様はそう言って、慣れぬ王宮で戸惑うあたしを励ましてくださいました」
「おまえが何の話をしているのか、まるでわからん」
ユーフラテスは興味なさげに切り捨てた。
彼はナタリーから視線をそらし、馭者の背中を眺めた。
それからナタリーの膝の上のレオンに視線をやり、まぶたを閉じた。
眉間には険しいしわが刻まれている。
彼は頭にのせた冠に手をやった。
青、亜麻色、灰色、紫、黒、緑、乳白色、黄色。それからそのほかの石より新しいだろう輝きを放つ赤。
黄金にはめこまれたさまざまな宝石を、彼の指先がなぞっていく。
「――だが、まあ」
ユーフラテスは諦めたように嘆息した。
「それほどまでに慕われたジークフリートとやらは、どうにも幸せな男だったようだ」
(第4章 了)




