32 ふたりのレオン
それにしてもテレーズは、今どうしているだろうか。
ナタリーの逃亡を手伝ったとして、苦しい立場に置かれていないだろうか。
ジャスパーは――まあ、大丈夫だろう。
大事があったとして、あたふたと動じる姿がいまいち思い浮かばない。
むしろ、争いごとが大事であればあるほど、血の沸き立つ気質だ。まちがいない。
たしかに彼は今、穏やかなグレイフォードの地で、牙を抜かれたように大人しく領主稼業をしている。しかし、あれはやはり、キャンベルの男だ。
彼の苦手そうな頭脳戦は、あの口うるさく優秀な、グレイフォードの家令オウエンが担うのだろう。
昔、キャンベルの頼れる家令ウォルターが、ナタリーの父辺境伯ロドリックを支えたように。
ナタリーは、テレーズを始めとするグレイフォードへの憂慮を振り払った。
どうせ会えやしない。力にもなれない。考えても無駄だ。
代わりにナタリーは、形ばかりの拘束をされ、うわごとを繰り返すレオンを見つめた。
レオンは幌馬車の屋形、ちくちくとささくれだった居心地の悪い木板の上、敷物は当然のことながら藁もなく、直に寝かされている。
あきらかにレオンの容態はよくない。
絶え間なく流れ落ちる汗が、黒い煤で汚れた顔に幾本もの細い線を描き、うなされ続けている。
レオンは目を閉じたままで、せわしなく顔の向きを変えた。
鼻が左右に振れ、顎が上下に揺れ。
そのたびに黒い汗が飛び散る。
「ナタリー」
レオンは声をふりしぼるようにして、苦しげにナタリーの名を呼んだ。
「いかないでくれ」
レオンの求めに、ナタリーは顔をほころばせた。
レオンににじり寄るようにして体を動かすと、腕や足につながれたロープは容易にほどけた。
ロープを振り払い、レオンの冷たい手を取る。
ナタリーを咎める者はいなかった。
王子ユーフラテスを名乗った、レオンハルトの兄ジークフリートによく似た青年も。彼の率いる男たちも。誰も。
「ここにいるわ」
ナタリーはレオンにほほえみかけ、汗に濡れた彼の額をゆっくりとなでた。
「あたしはここにいる」
しかしナタリーの声はレオンに届かなかった。
「だめだ、だめだ、だめだ!」
レオンの絶叫が、幌に反響し合う。
「おねがいだから……!」
力づくで静止させようとするかのような恫喝にも似た大声は、しだいに悲痛な嘆願へと変化していく。
「だいじょうぶ、なんでもない」
恐怖に染まったレオンのふるえ声。
「ナタリー、君は死なない」
ナタリーを励ますようでいて、その実、おのれ自身に言い聞かせるようなレオンの口ぶり。
「僕たちのこどものためにも――」
あの場面だ。
ナタリーの体がこわばる。
蛇の罠に陥っては全身の血液を垂れ流し、無様に敗北した、あのときの。
「やはりジェイコブは僕たちで育てよう。キャンベル辺境伯もきっと許してくれるさ」
レオンのまぶたが開く。
「あの子には本物の母親が必要だ」
「ええ、そうね」
ナタリーはすかさずレオンの瞳をのぞきこんだ。
「あたし達ふたりで、根気強く頼み込みましょう」
レオンの意識をつなぎとめるべく、懸命に話しかける。
「お父様は情に弱い方だから、そのうち折れるわ」
レオンの濃茶の瞳の中に、ナタリーの漆黒の瞳がうつりこむ。
ふたりの視線はつながっている。
「だから、いくな。いかないでくれ!」
しかしレオンの瞳は、目の前のナタリーを認識してはいない。
「君を失って、どう生きたらいいんだ!」
彼が見ているのは、血だまりに沈むナタリーの姿だ。
栗毛の髪を汗でぐっしょりと濡らし、濃茶の瞳に恐怖を浮かべ、絶望にあえぐレオン。
その肉体は、レオンハルトの生まれ変わりである医者もどきのレオンだ。
しかし、悪夢にうなされているのは?
肉体の中にとどめられた精神は、どちらのレオンであるのだろうか。
ナタリーはレオンに覆いかぶさるようにして「だいじょうぶよ」とささやきかけた。
「あたしはどこにもいかない」
ナタリーはレオンの目じりに口づけた。
「愛しているわ、レオン」
愛している。どちらのレオンも。
同じ魂を持ち、しかし異なる二人のレオン。
レオンの眼球がぎょろりと動いた。
ナタリーの声が、レオンに届いたのかもしれない。届くかもしれない。
「生きるも死ぬも、ずっと一緒よ」
ナタリーは機会を逃さぬよう、レオンの顔を両手で包み込んで言った。
「二度と離れたりしない」
「そうか」
レオンはほっとしたように口元をほころばせた。
「よかった」
そして憑き物が落ちたように、すうっと静かな寝息を立て始めた。
ナタリーはレオンに頬ずりをしてから、彼の頭を膝にのせた。
穏やかなレオンの寝顔を眺め、ナタリーはゆっくりと息を吐きだした。
親指で頬をなぞると、レオンの汗や涙でぬるりとすべった。
ナタリーの愛するレオン。
彼女がこれまでに心から愛した男は、ふたりいる。
彼女はふたりのどちらも、レオンと呼んだ。
フランクベルトの荘厳な王宮で、立派なマントを羽織り、王として民の上に立つレオンハルト。
ゴールデングレインの粗末な小屋で、着古した衣服をまとい、医者もどきとしてひとびとのために医療を尽くすレオン。
ふたりのレオン。
ひとりはナタリーを熱烈に愛し、もうひとりはナタリーをかたくなに拒んだ。
百五十年の年月を経て、レオンハルトは生まれ変わった。
そうすることで彼は、フランクベルト家の王族という忌むべき呪いから放たれた。
己の道を自由に選んでは突き進むことを許され、新たなる生を歩んでいた。
彼の人生は平和で優しく、それでいて輝かしく高潔な理想と矜持、充足感に満ちていた。
ナタリーがゴールデングレインに足を踏み入れ、レオンの小屋の扉をこじ開けた、そのときまでは。




