31 帰郷
黒毛の馬ブラッククリフから降りると、ナタリーは手早く荷をほどいた。
鞍を外すか迷った末に、つけたままで放つことにした。
ブラッククリフがつぶらな瞳でナタリーを見つめている。
ナタリーは彼の首をなでた。
「ここまでありがとう。助かったわ」
ナタリーは汗で湿った馬の腹をたたいた。
「さあ、帰るのよ。ブラッククリフ」
馬がいななき、走り出す。
しっぽやたてがみ。豊かな黒毛がなびいて揺れる。早朝の白い光が黒毛の上で輝き、躍動していた。
そうして見送っていると、まもなくブラッククリフの姿は濃い霧の中に消えた。
乗り手から離れた毛並みのよい馬となれば、馬の持ち主について、おおよそ当たりがつくだろう。
さまよう領主の馬を見つけたひとびとが、どう動くだろうか。
領主への敬意や畏怖、あるいは報酬目当てに。動機はなんであれ、ブラッククリフに優しくしてくれればいい。
馬の鞍には獣革の巾着が二つくくりつけられており、それぞれ井戸からくんだ清潔な水と新鮮な飼葉が入っている。
グレイフォードは草木と川に富み、ブラッククリフがどこを走ったとして、飲み水や食む草に不自由することはないだろう。
とはいえ、万が一のために携えておいた。馬を見つけた親切なひとが困ったとき、巾着に気がつくように。
より多くを望むとして、ジャスパーの館まで馬を連れていってくれたなら。それ以上は願うべくもない。
価値ある高価な馬として盗まれる可能性も、もちろんある。
そのときにはジョンソンの刻印がなされた硬革の鞍が、不法売買の痕跡として、どこかに残ることを願った。
足のつきやすい鞍など、早々に外されてしまうのだとしても。
どこかで。思いもよらぬような幸運を経て。
ブラッククリフがジャスパーのもとへ戻るための道しるべになればいい。
ナタリーは丘の上から、眼前の景色を見渡した。
ようやくたどり着いたゴールデングレイン。
グレイフォードにくらべて、霧が薄い。
霞がかってはいるものの、鶏や山羊などの家畜が柵に囲われている様子や、耕された畑、まばらに並び立つ家々といった集落が見えた。
ひとびとも家畜もすでに目覚め、それぞれの仕事に従事している。
ナタリーは早朝の澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
かつてキャンベルに暮らしていたころ、ゴールデングレインなる土地について、ナタリーはよく知らなかった。
思い返してみれば、ナタリーの世界はとても狭かった。
キャンベル本屋敷と、辺境伯騎士団の鍛錬場。
釣りもしたし、遠駆けもした。
一般的な貴族令嬢よりはずっと、行動範囲が広いと思っていた。実際、そのとおりでもあっただろう。
レオンハルトがキャンベルに遊学におとずれてからというもの、ナタリーは彼にさまざまな場所を案内してやった。
ナタリーの知るキャンベルの見どころをあますことなく。そのつもりだった。
しかし、なんということはない。
ナタリーは結局、家族や家臣に守られたお姫様に過ぎなかったのだ。
彼女が出向いてよいと許された場所は、あらかじめ誰かが安全であると認めた場所だった。
釣り場も遠駆けに出向く場所も、いくつかある候補地を選び、めぐるだけだった。
レオンハルトと婚約を結んで以降、ナタリーがあちこちの戦場へ飛び回ることができるようになったのは、彼女のすぐそばに彼がいたからだ。
男であり、フランクベルトの王子であるレオンハルトが。
王子が婚約者と戦地をともにすることをよしとしたから、ナタリーは女だてらに戦場に立つことができた。
ナタリーはレオンハルトの婚約者だった。
彼の相棒ではなく、所有物と見なされた。
ナタリーはキャンベル家直系の人間だ。領主の娘だ。
そうでありながら、領地のことをよく知らなかった。
家臣に騎士など、キャンベル家に直接関わりのある者や、その家族ならば、どうにかわかる。
だが、そのほか大勢の領民の生活など、なにも知らない。
思い起こされるのは、昨日のグレイフォード市街地散策について。
グレイフォード領主としての、ジャスパーの在り様。
ジャスパーは役人や商人など、関わり合ったひとびとの顔と名前を把握していた。
領民は領主の顔をひと目見た途端、顔をほころばせた。
おべっかだけではなく、打ち解けたような親密さがあった。
領主の気まぐれ、たまの来訪をとりつくろって出迎えるのではなく、彼らの生活に馴染んだ様子だった。
ジャスパーはゴールデングレインの諸事情も多少は知っているようだった。
彼自身が治めるのではないゴールデングレイン。彼にとって好ましくないキャンベル一族の誰かが治めるはずの、他人の土地についてまでも。
――ゴールデングレインという土地を、あたしはまだよく知らない。
ナタリーはあちこちを注意深く眺めるうち、その一画で目を留めた。
ヒナギク畑だ。
地面を覆いつくす緑に、淡桃色のつぼみや白い花が点々としている。
淡桃色のつぼみは、早朝でまだ花が開ききっていないためだろう。
花びらを広げた小さな花の芯は、あざやかな黄色。まるで小さな太陽が地面で目を覚ましたかのようだ。
ナタリーの胸があつくなる。
騎士団に無理やり混じって鍛錬を父辺境伯にねだる前。
それよりもっともっと幼いころには、ヒナギクの咲き乱れる原っぱで、花を摘んだり転がったりして遊んだものだ。
ゴールデングレインには、懐かしいキャンベルの空気がある。
その予感は、集落へ降りたのちに確信へと変わった。
ナタリーに目をとめた住人は、明らかに不審がっていた。
小さな集落で見かけたことのない余所者。それがゴールデングレインにおけるナタリーだった。
派手に身を飾ることなく、不気味な愛想笑いでやりすごすのではなく。良し悪し関わらず、感情がきちんと表に見える、素朴なひとびと。
ナタリーはほほえまずにはいられなかった。
それからゴールデングレインに漂う匂い。
乾いた土が風に混じって舞うときの、麦を炒って焦がしたような、あの匂い。
蜂蜜の樽が運ばれてくると、家畜の獣臭が蜂蜜の甘い香りで覆われる。
それはうっとりと胸の熱くなるような、なんとも言い表しがたい心地にさせた。
ああ、懐かしのキャンベル。郷愁に駆られる匂いだ。
なによりもナタリーを夢中にさせたのは、キャンベル以上に懐かしく、ナタリーが焦がれてならなかった気配。
愛するレオンハルトの気配だ。
「何年ぶりになるのかしら」
ナタリーは粗末な小屋の前に立った。
「レオン。あなたにようやく会えるわ」
小屋からは、赤子のむずかる泣き声、それをあやす若い女の甘ったるい声が聞こえた。
そして若い男の、おだやかな声が。




