24 医療魔術
テレーズのために用意された客室には、黄緑色の葉が白い磁器に活けられ、さわやかな緑の香りを漂わせていた。
小ぶりで丸みを帯びたかわいらしい葉が群れをなし、細く黒い枝ぶりとの兼ね合いが、可憐で繊細な印象を抱かせる。
部屋でなされる呼吸は二種類。
葉がなす極めて静かな呼吸のほかに、人間の聴覚で拾い上げることのできる人間ふたり分の呼吸があった。
人間ふたりというのは、寝台に寝そべるテレーズ。それからテレーズの扈従という名目でモールパからグレイフォードへと抜け出したナタリーだ。
寝台のまわりには生成り色の薄絹が、幾枚も垂れ下がっている。
扉側からは、寝台のそばに立つナタリーの背中がうっすらと透けて見えた。
「うまくできるといいのだけれど」
ナタリーはテレーズの額に手をかざした。
「これくらいなら、あたしにもできるはずよね」
オルレアン侯爵セザールの前で、即位したばかりのレオンハルトが披露した魔法を思い返す。
怪我の治癒をしてみせようと、レオンハルトは言った。
先の戦における負傷兵を集めた施設は、オルレアン家が管轄する病院のひとつで、そこへ年若い王レオンハルトが恋人ナタリーをともなって表敬訪問したときのことだった。
軽傷であった兵はすでに日常生活に復帰し、退院している。
いっぽうで重傷の負傷兵は、目玉や手脚を失っていたり、内臓まで達する深い損傷を抱えていたり、複雑で深刻な状態のまま、予断を許さない。
「おそらく彼の脚は、もう一度走れるようになるだろう」
レオンハルトは両脚を切断された兵を見下ろし、その痛ましい姿に涙がこみあげた。
「彼は戦場で、僕の指揮下にあった。敵の戦列が崩れる前に、騎馬で突破しようとして」
そのさきは言葉にならなかった。
「なるほど」
セザールは嘆息した。
「戦功に逸ってしまったのか」
「そうじゃない」
レオンハルトは目をつむり、小さく首を振った。
「僕の指揮官としての力不足ゆえです。他の指揮官のもとではすべての騎兵が、敵陣形の崩壊を待った。しかし僕の部隊に限っては、そうではなかった。指揮官として、彼らの信頼を勝ち取ることができなかった」
「お気の毒に」
セザールはレオンハルトの肩に手をかけた。
セザールの同情が未熟な王レオンハルトへと向けられたものなのか。それとも血気盛んに敵戦列へと向かい、負傷をしたり、あるいは命を散らしていった兵士らに向けられたものなのか。
ナタリーにはわからなかった。
「しかしながら、もう一度走れるようになるという陛下のお言葉は」
セザールは期待に目を輝かせる負傷兵を一瞥し、眉をひそめた。
「彼にはほとんど毒薬のようなものだ」
「ど、く、で、も。か、ま……い、ま、せ、ぬ」
負傷兵は両脚切断のほかに、咽頭に外傷を負い、言葉を発することが難しい。
「へ、い、か、の。お、ん、じょ……に、か、ん、しゃ。い、た、す」
発音訓練中だという、ゆっくりとぎこちない口ぶりで、負傷兵はレオンハルトに感謝を訴えた。
ふるえる手をレオンハルトへと差しのべる。
「あなたの怪我は、僕が必ず治す」
レオンハルトはかつての部下、負傷兵の手を両手でかたく握りしめた。
「他の兵士らの怪我も、きっと。この国のために命を賭したすべての兵のために」
「お、ろ、か、な、わ、た、し、を」
負傷兵の傷ついた頬を涙が伝った。
「へ、い、か、の。じ……け、ん、に。お、お、おつか、い、く、だ、さ、い。わ、が、い、の、ち、を。わ、が、く、に、と。どう、は、い、の。み、ら、い、に」
そこまで言うと、負傷兵は激しくせきこんだ。
『愚かな私を、陛下の実験にお使いください。我が命を、我が国と同輩の未来に』
その先はおそらく、捧げる、という文句が続いたのだろう。
「臨床試験に対する本人の了承がとれたようだ」
セザールはそう言うと、医療魔術師のひとりを手招きした。
「この者が彼の担当医です。陛下のなさんとされる実験の前に、まずは負傷やそのほか容態の詳細をお聞きください」
レオンハルトはうなずき、魔術師から聞き取りを始めた。
「『もう一度走れる』か」
レオンハルトからすこしばかり離れたところで、セザールはひとりごちた。
「それが真実であれば、どれほどよいか。青い血を発現させ、まさしく万能とばかりに獅子王の力に溺れる王は、過去にいくらでもいたなあ」
セザールの諦念がナタリーの耳に届く。
憤りが胸に起こるのと同時に、しかしナタリーにもまた、セザール同様の懸念があった。
失った両脚で、どうやってふたたび走れるようになるというのか。
「待たせましたね」
説明を聞き終えたレオンハルトが、負傷兵に向き直る。
「はじめましょう」
「ええ」
セザールはほほえんだ。
「どうぞ、お願いします」
予期せぬ事態にそなえ、医療魔術班がすぐそばに控える。
レオンハルトは魔術班の面々に視線を走らせた。
「はじめるよ」
レオンハルトの開始の号令に、魔術師たちの顔つきがひきしまった。
最初のうち、セザールはいつものように余裕ぶった笑みを浮かべていた。
さわやかだとか、感じがいいだとか。
宮廷におけるオルレアン侯爵セザールの人物像については、そういった評判を耳にすることが多かった。
しかし、そう単純な男ではないはずだ。まちがいなく、苦手な類の男だ。
当時の建国の七忠といえば、皆そろって矜持が高く、扱いにくそうな男たちばかりだった。
ナタリーが唯一わずかばかりの親しみを抱いた者は、武勇に長けたガスコーニュ侯爵アルヌール。
彼以外の七忠諸侯にはとうてい親しみなど感じられず、できうる限り、関わり合いになりたくなかった。
セザールはアルヌールと親しい様子ではあった。
しかしアルヌールにどうにか親しみを感じることができるからといって、アルヌールと親しいセザールにナタリーが親しみを抱くことなど、できるはずもない。
そんな悠然として、底知れぬ気味の悪さを感じさせるセザール。
彼はまず、負傷兵に真新しい両脚が生えたことで、驚愕に目を見開いた。
それから、彼が不出来な若い王と侮っていたに違いないレオンハルトを凝視した。
負傷兵ではなくなった兵と、聖王と呼ぶにふさわしい、フランクベルト王国の新たな獅子王レオンハルト。
ふたりを見比べていたセザールの姿を、ナタリーは思い返した。
あのときは、胸のすく思いだった。
それからつぎにナタリーの頭に浮かんだのは、大量失血し、血にまみれた四肢を力なく投げ出した、意識のない惨めな己の醜態。
そこへレオンハルトが、すさまじい光を注ぎ込んでいた。
ナタリーと、レオンハルトと、光。これら三つしか存在しない光景。
忘れたくても忘れられようにない、鮮烈な光景。写本『獅子に魅入られた男』がナタリーへと示唆した光景。たった一度きりしか見えなかった光景。
一度でじゅうぶんだ。二度と見たくない。
ナタリーは苦しげに眉をひそめた。
集中しなければ。写本の見せた記憶に引きずられてはいけない。
ナタリーのてのひらから、ぼんやりと弱弱しい青白い光が生じる。
ゆらゆらと頼りなくゆらめきながら、光はテレーズの額へと吸い込まれていく。
かざした手をそのままおろし、テレーズの額にふれた。
「熱は下がったようね」
ほっと安堵の息をつくと、ナタリーはほほえんだ。
「元気でね、テレーズ」
垂れ布を押し上げ扉の前に立つと、ナタリーは一度だけ振り返った。
そして廊下に滑り出すと扉を閉め、足音を立てずに走り去った。
この短い滞在期間で、廊下を行き交う使用人たちに出会わずにいられる道順が、ナタリーの頭にすっかり叩き込まれていた。
湖で思いついた通りに、厩舎で黒毛の馬を選び、手綱をかけて頭絡をつけると、馬房から出した。
橙色の月と薄紫の雲。
月明りの夜空を見上げ、黒毛の彼は不安そうに耳をぴんと立てている。
夜がすっかりふけた頃に連れ出されたことは、これまでになかったのかもしれない。
「いいこね」
ナタリーは優しく声をかけた。
馬の注意が夜空からナタリーへと移ったのを見て取り、ゆっくりと首をなでる。たてがみを整えるようになでるうちに、馬の緊張がとけ、余分な力が抜けていく。
「これからあなたに、ゴールデングレインまであたしと一緒に走ってほしいの」
そう言いながら、ナタリーは馬の背にキルト布をのせ、そのうえに硬革の鞍をのせた。
「ゴールデングレインに到着したあとは、あなただけでここに戻ってもらうわ。帰り道はわかるわね?」
鞍の位置を調整してから腹帯をしっかり留める。
水の入った革袋や、日持ちのする食料とすこしの衣類をまとめてくくりつけ、鐙をおろす。
「あなたにどんな名前があるのか、わからないのだけど」
ナタリーは鞍にまたがり、手綱を握った。
「いまだけはあなたのことをブラッククリフと呼ばせてもらえるかしら」




