23 自由と希望
グレイフォードの中心市街地と言える湖周辺をぞんぶんに遊覧し、一行は馬車に乗り込んだ。
ジャスパーが行きと同様、起承転結のない冗長な話を続け、ときどきテレーズが相槌を打つ。
だが、ジャスパーがつまらぬ冗談を口にしたとき。とうとう誰からも、なんの反応も返ってこなくなった。
ジャスパーはおしゃべりをやめた。
「テレーズ嬢?」
ジャスパーは大きな体を窮屈そうに揺すぶり、椅子にもたれかけていた身を起こした。
濃霧の冷えと慣れぬ場所を歩き回ったことによる疲労のためだろうか。テレーズはぼうっとうつろな視線を宙に漂わせていた。
ジャスパーは真向いにすわるテレーズの顔をのぞきこむ。
とたんに、ジャスパーの目が見開かれた。
「疲れたようね」
テレーズに代わってナタリーが答える。
「体が熱いわ」
テレーズの目は完全に閉じられているわけではない。半分ほどがまぶたで遮られ、その隙間から、はしばみ色の瞳が緩慢に動く。
体は完全にナタリーへともたれ、息遣いも荒い。
「熱を出したのか」
ジャスパーの顔がぐしゃりとゆがむ。
「俺のせいで」
「テレーズの体が弱いのは、あなたのせいじゃない」
ナタリーはきっぱりと言った。
「行程を組んだのは、オウエンとあたしよ。テレーズの体を考慮しながら」
テレーズがグレイフォードに、早く、楽しく、馴染めるように。
ジャスパーと交流を深めるのはもちろん、グレイフォードのひとびとに、テレーズの人柄を受け入れてもらえるように。
キャンベル宗家屋敷へと向かう前にオウエンがそう言って、おおまかな行程を提案した。そこへナタリーがテレーズの体力をおもんぱかり、ところどころ忠言した。
すこしばかり強行軍であることは、計画段階でわかっていたことだ。
オウエンは館を出る最後の最後まで躊躇していた。
それらを振り切って決行させたのは、ナタリーだ。
「それでも熱が出た」
ジャスパーはテレーズの火照る手を取った。
「俺が湖でボートなんかに乗らなきゃよかったんだ。あんたはボートはよせと言っていたのに」
「『よせ』だなんて、一言も口にしちゃいないわよ」
ナタリーは呆れたように息を吐き出した。
「テレーズは今日、あなたと出かけるのをとても楽しみにしていたわ。体調を崩したのなら、そのあと療養すればいいのよ」
「それじゃあ遅いこともあるだろうが」
ジャスパーがうなる。
「テレーズ嬢は繊細なんだろう。寝て起きれば、熱でもなんでも、すっかりなんでもなくなるような俺とは違うんだ」
ジャスパーの黒い顎鬚がぴんと伸ばされ、そのまま幾本もの髭が勢いのまま抜かれる。
髭を力強く抜いた大きな手は、今度は額に当てられ、まるでそこが痛むかのようにもみこんだ。
そうかと思えば、またもや顎鬚を引っ張る。
「ウジェーヌ殿の手紙にも、よくよく気を遣うよう書いてあったんだ。そうだろう」
その問いかけはナタリーの返事を期待するというよりも、自身と対話するだけの一方的な口ぶりだった。
そうであることを証明するように、すこしも間を置かず、ジャスパーの陶酔的な自省が続く。
「俺へのあんなにおおげさな美辞麗句は、テレーズ嬢を守ってほしいがためだったはずだ。それなのに」
「うじうじと鬱陶しいわね」
ナタリーはジャスパーの言葉をさえぎった。
いったいいつまで続けるつもりなのか。
ほらやっぱり。やっぱりね。
ナタリーは苛立ちと、それからほんのすこしの満足を得た。
ナタリーはジャスパーの女版ではない。
ナタリーだったら、こんなくだらないところでつまずいて、ぐずぐずと立ち止まったりはしない。
そういうことは、男たちがよくやることだ。
愛する人のためだとうそぶいて、勝手に女の幸福を決め、勝手に女の自由を奪う。
決定権を持ちえぬ女の人生を、決定権を握る男が男の考えで左右する。
『男の方々は、国と民、そして身近な女子供の幸福と生命を守るよう任され、大変な責任を背負って、生きていらっしゃいます』
『女のわたくし達は、そのようにして男の方々のお力によって、守られ、生かされていることを、忘れてはなりません』
ミュスカデの言い分はナタリーにもわかる。
権謀術数の渦巻くフランクベルトの王宮で、したたかに生き抜くために。
男たちをうまく操るやり方は、ミュスカデには向いていたのだろう。
だがやはり、ナタリーには苛立たしく、まどろっこしく感じてしまう。
男だけの特権も、女だけの特権も。
いちいち性差をはさまなくてはいけないということが、ナタリーには不満なのだ。
だがジャスパーに八つ当たりをしたところで、どうにもならない。
「たしかにテレーズは体が弱いわ」
ナタリーはテレーズの絹糸のようになめらかな髪をなでた。
ジャスパーはテレーズを大事にしている。
いいことだ。責めるべきことじゃない。
自然と険のある口ぶりになるのを、ナタリーは控えようと努める。
「でも、なんでもかんでも制限して楽しみを取り上げるのはやめてあげて」
しかしその努力は次第に忘れられていった。
「そんなふうに前世でも、この子の旦那が制限するものだから――」
「前世?」
ジャスパーが眉をひそめ、口をはさんだ。
「言い間違えよ」
ナタリーは視線をそらし、流れゆく景色を窓から眺めた。
「テレーズの父親。モールパ公爵は、テレーズを守りたいばっかりに、ずいぶんな心配性だったのよ」
「そうか」
ジャスパーはナタリーにもたれかかるテレーズの顔をのぞきこみ、気の毒そうに眉尻を下げた。
「そういえばウジェーヌ殿の手紙にもあったな。『体が弱く、自由と希望のない気の毒な妹テレーズを、ジョンソン氏の男性らしい寛容さで、力強く救い出してほしい』とかなんとか」
窓の外は、いまだに灰白色の濃霧でひしめきあっている。
霧が晴れることはあるのだろうか。この視界の悪さで、ロジャーはよくもまあ、馬車の運転を誤らないものだ。
「あんまりにおおげさなもんだから、いったいどんな面倒ごとが転がりこんでくるのかと身構えてみればよ。びっくりするほど可愛いんだもんな、テレーズ嬢はさ」
ガラスのゆがみに合わせて屈折したジャスパーのニヤケ顔が、馬車の窓にうつりこむ。
「そうかあ。ウジェーヌ殿の言っていた『自由と希望のない』ってのは、モールパ公の過保護のことか」
納得したように、独り言ちるジャスパー。
ナタリーは何も答えず、馬車の揺れるがままに体を任せた。
ジャスパーが思案に耽りだすと、蹄の音、板の軋む音、前轍をなぞる車輪の音が大きく聞こえるようになった。
それからプアスミス川の流れ、そのせせらぎがわずかに混じって、ナタリーの耳に届いた。




