14 ナタリーとレオンハルト(3)
「初めまして。ナタリー嬢ですね」
レオンハルトは、ほがらかに挨拶した。
不敬を恐れぬ令嬢の発言を、彼は聞き流すことにしたのだ。
ここが王宮であれば、故意に揶揄する者を捨て置くことは、難しい。王族の威信に傷をつけんとする行為だからだ。
しかし今のレオンハルトに必要なことは、序列を意識させることではない。
それは辺境伯領に住まう者たちから、信頼と忠を得てからで十分間に合う。
しつけのなっていない野良犬をしつけ直す時期は、焦らなくてもいい。
王子様らしさを意識して、レオンハルトはにっこりとほほえみかけた。
「あら、あたしの名前を知っているのね。そのくらいの礼儀はあるようでよかったわ、王子様」
愚かな娘は顎をツンと上げ、腕を組み、不遜な態度を隠しもせず、レオンハルトを睨みつける。
「ええ。お世話になる身ですから」
レオンハルトが笑顔のまま答えると、娘は舌打ちした。
まさか令嬢が舌打ちするなどと思わなかったレオンハルトは、目を丸くした。が、すぐに穏やかな笑顔に戻る。
それから辺境伯領の者達の反応を見た。
父親である辺境伯は、娘をたしなめようとはしている。しかし王族への不敬について、いまいち危機感を感じていないようで、呑気なものだ。
取り囲む騎士たちはたしなめるどころか、チヤホヤと幼い令嬢を崇めている様子でもある。
レオンハルトの後ろに立つ護衛騎士たちからは、不穏な空気を感じた。
一方レオンハルトは、こんなものだろう、と納得した。
辺境伯領は、あまりに王都から遠いのだ。
堅牢な城壁に囲まれた要塞都市キャンベル辺境伯領。
ここは難攻不落を誇る、フランクベルト王国の防衛の要。
王都のきらびやかさとは対称的な、重厚な砦に囲まれた地。
武骨な外観そのままに、住まう者達の気質も同じだろう。
騎士たちからすれば、滅多に目にすることもない王族などより、ともに戦地を駆け巡り血を流す領主一族に掲げる忠が強いのは、当然のことだ。
そしてまた領主本人も、この国を己が護っているという自負がある。
ただし、辺境伯は政の重要性を軽視しているようでもないから、王には忠を向けているのだろう。
第五王子などという、いずれ臣籍降下するだろう、泡沫の王位継承権保持者に向ける忠はなくとも。
そんな大人たちに囲まれた、領主の娘。
彼女は、己の頭で考えることもなく、大人たちの意に追従しているに過ぎない。
仮にも貴族令嬢だというのに、王侯貴族として必要最低限の礼儀作法も学んでいないらしい。
だが礼儀のなっていない愚かで感情的な令嬢など、どこにでもいる。珍しくもない。
蝶よ花よと可愛がられ、慈しまれ。
自身が世界の中心だと、勘違いをしている。
己の脳で思考することを放棄し、何を言っても許されると信じ切った、驕慢で愚かな娘。
レオンハルトは娘を哀れにすら感じた。
「お世話ねぇ。まったく我儘王子様には困ったものね」
娘はわざとらしく頬に手を当て、眉をひそめた。
「こうして突然乗り込んできては、我が物顔で振る舞うのだもの」
「先触れを出したのですが、届かなかったようですね。ご不快にさせたようだ」
「何が先触れよ。国王の命令では断れないじゃないの」
国王ときたか。
レオンハルトは面白くなってきた。この娘、陛下に敬称すらつけない。
「断っても構わなかったはずですよ。陛下からの勅令ではなく、何の力もない第五王子からのお願いでしたから」
レオンハルトは辺境伯へ爽やかな笑顔を向けた。
「そうですよね? 辺境伯」
レオンハルトは、歌うように、軽やかな口調で問いかけた。
辺境伯は、正式に誰からの依頼とする書面だったのか、把握していないようだった。
気まずそうに「そうでしたかな」と頬をかく。
この男は事務仕事のほとんど全てを、家令や執政代官に丸投げしているようだ。とレオンハルトは当たりをつける。
「子供の我儘を無理強いするなんて」
娘は強い口調で非難した。
辺境伯の返答が曖昧だったせいか、娘の中ではレオンハルトが権力に物を言わせたことに確定したらしい。
レオンハルトに、キャンベル辺境伯を従わせるほどの現実的な力はない。
もちろん王族であるから、建前上は従わせようとすればできることになっている。だがそれはあくまで建前である。
キャンベル辺境伯自身が固辞しようとすれば、そんな建前になんの意味もない。レオンハルトが恥をかくだけで終わる。
「そうですね。なにぶん力のない子供ですから、辺境伯や騎士団の皆さんに、お力をお借りしたくてこちらに参りました。遠慮なく鍛えていただきたい」
よろしく頼むと、レオンハルトは騎士団の面々に視線を走らせ、にっこりと笑った。
身分が下の者に教えを乞うてきたことに驚いたのか。
娘の挑発に乗らなかったことが意外だったのか。
辺境伯騎士団の騎士たちは目を丸くしたり、何事かを囁きあったり。賭けでもしていたのか、悔しがる者もいる。
辺境伯騎士団所属騎士の皆が皆、面白そうに様子を見ていた。
レオンハルトの言葉に気をよくしているのは間違いない。
一方でレオンハルトの後ろに控える近衛騎士たちは、表情を変えなかった。
だが彼等の目には、主レオンハルトに平然と侮蔑を向ける小娘に対して、敵意とあざけりが滲んでいた。
娘はそれを見て取った。
「あなたの後ろで棒立ちのお嬢さん方はそうは思っていないようだけど?」
見目麗しい近衛騎士たちを明らかに嘲笑する娘に、辺境伯騎士団の騎士たちが喝采する。
美しい男への嫉妬心。そして彼等の大事なお姫様が、整った容貌の近衛騎士を蔑んでくれたという痛快さ。
胸のすく思いなのだろう。彼等は晴れ晴れとした顔つきをしている。
これにはレオンハルトも、諾諾と受け入れるわけにはいかなかった。
王族である己があなどられるのは、たしかに、王家への侮辱といえる。
だがレオンハルト個人へのものと留めることもできた。
王都を離れたキャンベル辺境伯領でならば、レオンハルトが俎上に載せなければ、それで済む。小娘の囀り程度に痛痒を感じない。
しかしレオンハルトの護衛を務めてくれる者達をあなどられれば、話は別だ。
主として許容することはできない。
なにより、単純に不愉快だった。
レオンハルトは、対立を抑えんと辺境伯を称え、辺境伯騎士団を持ち上げてやった。
それにも関わらず、だ。
娘は彼の意図を汲めないほどに、能無しなのだろうか。
もしくはそれをわかっていて、あえて対立関係を構築しようとするような。
その場限りの優越感に浸るだけの、先を見据えた利を捉えられない能無しなのか。
どちらにせよ、傲慢で愚かな娘だ。
レオンハルトは無能が嫌いなのだ。ジークフリートの役に立たない人間は、遍くすべて不要なのだから。
レオンハルトはぐるりと周りを見渡した。
わざとらしく眉をひそめる。彼は顎に手を当て、考え込む素振りを見せた。
それから最後にふたたび、ぐるりと一周。ことさらゆっくり、体をねじって見渡した。
「お嬢さん方ですか?」
レオンハルトは、すっかり困り果てたような様子で、娘に問いかけた。
「僕の目にはどこにもレディが見当たらないのです。この場のどこにレディがおいでなのか、教えていただけませんか」
レオンハルトは申し訳なさそうに弁明した。
娘の顔が真っ赤に染まった。
「なるほど。僕はたしかに、由緒正しい辺境伯家の礼儀作法を弁えぬ無骨者です」
レオンハルトは、知ったような口ぶりで言った。
「しかし、レディへの挨拶をせずに去ることが無作法である。と、知る程度の分別は持っています」
「ですが、王宮に集う王侯貴族の御婦人方と挨拶を交わす程度にしか、これまでレディとの交流がなかったのです。僕はどうやら、レディについて、かたよった知見しかないようだ」
レオンハルトは、せつせつと訴えた。
「無知な僕に、ここ辺境伯領でのレディとはなんたるか、教えていただけませんか」
レオンハルトは、ちらりと辺境伯を一瞥した。
辺境伯は愉快そうに口の端を歪めている。明らかに面白がっていた。
お前の娘は、王宮ではレディと見なされない。無作法で垢抜けない田舎娘に過ぎない、と示唆したのだが。
それに加えてレオンハルトは、辺境伯領での歓迎ぶりも非礼であると辺境伯に示したつもりだった。
それが辺境伯に伝わっていないとは思えない。
しかし、先に無礼を働いたのは辺境伯の娘だ。
そしてまた、辺境伯もわかっているのだろう。
レオンハルトが、辺境伯その人に咎を問うつもりがないことも。
それ以前に、この程度のじゃれ合いで目くじらを立てるほど、要塞の長たる辺境伯が狭量であっては困る。
ブルブルと憤怒に顔を歪めるのは娘だけだ。
辺境伯騎士団の騎士たちも、レオンハルトに敵意を見せる者はいない。
尊敬する領主の姫君を田舎娘呼ばわりしたことに、騎士たちが憤るかもしれない。
そんな懸念も浮かびはした。
再び騎士たちと対立するのは得策ではない。
だが、かといって、あなどられたままヘラヘラ受け入れてしまえば、女に媚びへつらう情けない優男だと、ますます増幅させてしまう。
その方がよっぽどまずい。
武に長け腕に物をいわせる輩は大抵、いわゆる情けない男というものを嘲り、嫌う。
彼等が可愛がる姫君をあざけってやる方が、まだ認められるというものだ。
男らしさを履き違えているような人種には、こちらも相応にすればいい。
どうせ彼等もジャジャ馬な姫君を、珍獣のように可愛がっているだ。
色恋や色欲は、淑やかな女や劣情を誘う女を選ぶのだ。彼等自身、姫君をレディとは認めていないだろう。
これがレディならば、辺境伯領にレディはいない。
「誰からもちやほや忖度され、面と向かって非難されたこともないような、軟弱王子が…………!」
低く唸るような娘の声に、レオンハルトは内心おやと首を傾げた。
この娘の中で、レオンハルトは一体どのような王子に見えているのだろう。
王宮が娘の思うような優しい世界だったのなら。
いやしかし、確かに娘の言う通り、面と向かって直接罠を仕掛ける間抜けに出会ったことはない。
そんなことをしてきたのは、目の前にいる娘くらいだ。
「確かに、面と向かって直接非難されたのは初めてです」
「そうでしょうね。王都の男なんて皆軟弱でお飯事でもしているのでしょ」
娘は得意満面だ。
娘は口の端をあげ、片手でくるくるとダガーを回している。器用なものだ。
刃先に陽の光が反射して、きらりと光った。
「ええ。我々はまず最初に、オブラートの包み方から学ぶのです」
微笑みを崩さないレオンハルトに、娘はつまらなそうに鼻白む。
「お医者さんごっこってわけ? それとも薬師? ずいぶんもやしっ子なのね」
娘の言葉に、レオンハルトは目を丸くした。
これほどあけすけな嫌味が通じないとは思わなかった。
これ以上直截的にやりこめようとするなら、かなり品位を落とさなくてはいけない。
「……煮え湯を飲まないためには、大事なことなんですよ」
想像以上に残念だった娘の頭の出来へと自らを落としてまで、この娘に理解させる必要はあるだろうか。
これ以上は自分を許せそうにない。レオンハルトは唸る。
「煮え湯ですって? なんなの、本当にあなたってヤワなのね。出来立ての料理でもてなしたところで、猫舌だからって断るわけ?」
この娘、話が通じないにも程がある。
レオンハルトは頭を抱えた。
後ろに控える護衛騎士たちが、笑いをこらえているのがわかる。
おそらく表情は変えていないだろうが、気配が揺れているのだ。
レオンハルトは溜息をつくと、笑顔を消した。
突然無表情になったレオンハルトに、娘がたじろぐ。
「な、なんなのよ。あたしはただ、美味しく食べてもらおうとせっかく熱々で出されたスープも飲めないようじゃ、失礼じゃないのって……」
「違いますよ。熱い冷たいなんてどうでもいいんです」
レオンハルトは疲れた様子で娘の言葉を遮った。
もうどうでもいい。
王子の仮面をつけていては話が進まない。
「蟲毒渦巻く王宮ではオブラートに包んでやり合うのが常だと言っているんです」
「え?」
娘はきょとん、と目を丸くしたかと思うと、一瞬で顔を真っ赤に染め上げた。
「あ……、オブラートって……」
くるくると回していたダガーが、娘の手から滑り落ちる。
落下した刃先が娘のつま先に刺さりそうだったので、レオンハルトは軽くしゃがんで、ダガーの柄を掴んだ。
レオンハルトの気負いなく流れるような動作に娘が目を見張った。
辺境伯騎士団の騎士たちも口をぽかんと開けている。
――落下するダガーを拾うくらいで驚かれるとは。
レオンハルトは苦々しい気持ちを抑えてダガーを娘に返す。
「あ、ありがとう……」
刃先をレオンハルトが指でつまんでいたので、娘は急に引き抜くことでレオンハルトを傷つけないよう、ゆっくり慎重に柄をつかんだ。
娘が柄を握ったのを確認すると、レオンハルトはぱっと手を開き、娘に手のひらを示す。
「手中にどんな恐ろしい毒が隠されているのか、察することのできない者は、生き延びることができません」
「毒って……その、それは体を害する毒ってこと?」
娘はおずおずと口を開く。
自身が舌戦には不向きだと悟ったのだろう。
つい先ほどまでの勢いは鳴りを潜めて反発していたはずのレオンハルトに問いかけている。
この娘はおそらく、純粋で真っすぐなだけなのだ。まさに田舎娘そのもの。
レオンハルトは口の端が歪むのを感じた。
「両方ですね。飲食物に毒を盛られることは日常茶飯事ですし、片言隻語をとらえて言質をとったり、陥れたり、蹴落としあったり。それが魔宮です」
娘がはっと息をのむ。
「王侯貴族は皆、微笑みを貼り付けて表情を隠します。あなたから見れば、非常に気味が悪く思われるでしょうね。こちらの方々は感情に素直なようですから」
レオンハルトがほほえむ。
騎士たちはバツが悪そうに視線をそらした。
彼らの反応そのものが、単純で朴直だ。
「ここでなら、天衣無縫のお嬢様は尊ばれるでしょう。それが許されるのなら、きっとその方が幸せだ。ですが簡明直截な言葉しか使えない幼子のままでは、身を守ることは出来ません」
どうせならこの令嬢も仲間につけておくか。
そんなふうに、駒として見ていた娘だった。
しかし駒にする前に、友情をはぐくむ真似事をしてみるのも一興だ。
辺境伯領の滞在期間は定めていないが、王宮へ戻れば殺伐とした日常に戻るしかない。
それならば本来の年相応だとかいう、能天気な少年時代を謳歌せん。と己自身を試してみる余裕くらいあるだろう。
レオンハルトはここにきた当初のように、ほほえみを浮かべ、娘に語り掛けた。
「微笑みの下に棘を。言葉の裏にナイフを忍ばせる。僕もそう得意ではありませんが、おそらくあなたよりはまだマシだと思うんです」
娘がぴくりと眉をあげる。
気に入らないが、納得もしている。そんな感情が手に取るようにわかる。
表情が全く隠せていない。
こみあげてくる笑いと、何か別の温かなものがレオンハルトの胸をくすぐった。
「いかがでしょうか。滞在中、僕はこちらで剣術や体術の指導を乞い、そのお返しとして、僕があなたに、王侯貴族の厭らしさを護身術程度に指導する。
これなら我儘王子の強要も、少しは許すお気持ちになりませんか?」
澄み渡った美しい蒼穹を背にする、レオンハルトの輪郭が光り輝く。逆光となった表情は娘ナタリーからは判然としない。
しかし傲慢な王子の口元が、勝利の愉悦に歪んでいることはわかった。