19 ゴールデングレイン
「まあ、なんて幻想的なの」
ジャスパーに手を引かれ、馬車から降りたテレーズは、あたりを見渡した。
湖面から湯気のようにたちのぼる霧が一帯を包み込み、冷気が足元を通り抜ける。
テレーズはぶるりと身を震わせた。
「寒いか」
ジャスパーはテレーズを引き寄せ、肩を抱いた。
「すこし」
テレーズは恥ずかしそうに、小さな声で答える。
「新緑の時期でも、まだ冷えるのですね」
照れてうつむくテレーズを、ジャスパーは愛おしげに見つめた。
ナタリーが衣装鞄から、しっかり目の詰まった、なめらかな毛織物を取り出す。
「盆地のここは、一度冷えると寒さが逃げにくいんだ。ここより標高の高い屋敷の方が暖かいこともあるなんて、不思議なもんだろ」
ジャスパーはナタリーから、大判の毛織物を受け取り、テレーズの体にぐるぐると巻きつけた。
「それに、風が冷えねえと、こうは霧がたたねえからな」
「そうですか」
テレーズは当惑してジャスパーを見上げた。
「あの、ジャスパー様」
両腕を体にそわせた状態で毛織物を巻かれたので、テレーズはまるで、糸紡ぎ棒のようになってしまっている。
濃緑と淡緑、山吹色など、新緑の季節らしいあざやかな色彩で、細やかな模様が織られた毛織物。それがぴったりとテレーズを固定して、身動きがとれない。
「霧の中で緑が芽吹いたみてえだ」
へたくそな詩人を気取るジャスパーは、テレーズの当惑に気づくことなく、テレーズを抱きしめる。
「いいにおいだ」
「テレーズが困っているわ」
ナタリーは見かねて、口をはさんだ。
黙っていられたのは、ジャスパーが調子にのって、テレーズの髪に鼻先をつっこむところまでだった。
フランクベルトの宮廷では、ナタリー自身が、鷲と蛇にさんざん邪魔をされたのだ。
それだから、恋人たちに水を差す無粋なお目付け役なんて、まっぴらごめん。そう思っていたのに。
「可愛がるのはいいけれど、それじゃあ動けない」
ナタリーは眉をひそめ、やむなく小言をつけ加えた。
ああ、どうしてあたしがこんな役回りをしなくちゃならないのかしら。もしかしたら昔、鷲も蛇も、レオンハルトとあたしに対して、こんな気持ちだったのかしら。
レオンハルトとナタリーの仲を引き裂かんばかりだった、メロヴィンク公爵オーギュストとヴリリエール公爵アンリの嫌味や卑劣なやり口を思い返す。
しかしそれでもやはり、同情の意は起こらなかった。
「すまん!」
ジャスパーがあわてて、テレーズから毛織物をはぎとる。
「きゃっ」
勢いあまって、テレーズはよろけた。
体を包んでいた毛織物を急に奪われたことで、熱も逃げていく。
「あぶねえ」
ジャスパーの太い腕ががっしりとテレーズを包み込む。
「ありがとうございます」
テレーズは背をしならせ、うっとりとして礼を返す。
恋人たちの幸せそうな姿を、ナタリーは白けた心地で眺めた。
これ以上二人の間になにか起こっても、余計な口は出すまい。そう決めた。
それよりもだ。
「ねえ、南の丘陵の先には、なにがあるの」
濃霧の先をナタリーはゆびさす。
「南か」
ジャスパーはナタリーのゆびさした方角に目を向けた。
「グレイフォードを抜ければ、ゴールデングレインだな。俺の大叔父のトマス卿――いや、従伯父だか、従叔父だったかもしれん」
ジャスパーはテレーズを抱いていない方の手で顎鬚を引っ張った。
「底意地の悪い爺殿が治めているはずだ」
ジャスパーにはめずらしく、明瞭な悪意をにじませた物言いだ。
霧の先へと意識をそそいでいたナタリーは、振り返ってジャスパーの顔を見た。
苦いものをむりやり飲み込んだようなジャスパーの顔つき。
「ゴールデングレインは昔、豊かな土地だったんだがな」
ジャスパーは気が進まなそうに続けた。
「今じゃ税収もままならないとかで、兄貴がいろいろ、肩代わりしてやってるみてえだ」
いつになく真剣なまなざしをよこすナタリーに気がつき、ジャスパーは首をかしげた。
「なんだ? ゴールデングレインになにかあんのか?」
「いいえ」
ナタリーは否定する。
「それより、テレーズを湖に案内してあげて。これほどの霧でなければ、ボートもよかったんでしょうけれど」
ゴールデングレインへの興味はすっかり失せたようで、ナタリーは体の向きを変えた。
ナタリーの視線の先には、湖畔のボート乗り場。
二隻のボートが柱に繋がれ、霧にかすんで揺れている。
「なあに、こんくらいの霧なら、どうということもねえよ」
ジャスパーはその気になったようだ。
「テレーズ嬢、ボートはどうだい。湖面の霧をボートで進むのは、わりと人気があるんだぜ」
そう。ゴールデングレインというのね。
ジャスパーが熱心にテレーズを口説く姿をしり目に、ナタリーはふたたび南の方角を見つめた。
灰白色の濃い霧が、丘陵の深緑をかすませている。
上流より下流の方が霧が濃いというのは、いったいどういった理屈なのだろう。もう間もなく、昼になるというのに、霧は晴れない。
魔力とは違う、不可思議な力が混じるのを霧から感じる。
それがいったいなにかはわからない。
ジャスパーから借りて以降、何度も繰り返し読んだ写本、『獅子に魅入られた男』の一節が思い返される。
――彼、あるいは彼女、もしくは『それ』、か。
どうせ、ろくなものではないのだろう。
肥満王ヨーハンの腹心、リシュリュー家のヴィエルジュが編纂したというのだから、あの民話にはそれなりに信ぴょう性がある。
悪賢い毒蛾の意図を、そう容易に読みとれるとは思わない。
だがそれでも、あの民話はたしかに、建国王レオンハルトについて書いているはずだ。ナタリーの愛するレオンハルトと同名の、初代フランクベルト王のことを。
獅子王の器ではないナタリーには、原初の神秘へと至る道は示されない。
レオンハルトならば、知っていたのかもしれない。
青い血を発現させたレオンハルトは、潔癖の狂信者アングレーム伯爵ブノワをして、すわ建国王の再来かと言わしめたのだ。
いいわ。直接レオンに確かめればいいだけのことだもの。
ナタリーのくちびるが、愉快そうに吊りあがる。
『ジョンソン氏の館』に戻ってすぐに、馬を一頭拝借しよう。ブラッククリフに似た、黒毛の馬がいい。
ナタリーは決意した。
家令オウエンの不在も都合がいい。
遺漏ないオウエンの目が光っていたとして、力を使えば抜け出せないことはないだろう。しかし彼がいては、ちょっとした騒ぎになりかねない。
それ以前に、ナタリー自身がまだ、力の制御がうまくない。
なにができて、なにができないのか。これもまた、レオンハルトにたずねてみなくては。
そうだ。グレイフォードを抜けるのだ。
今夜にはきっと、たどり着くだろう。
レオンハルトの魂が強く感じられる、ゴールデングレインへと。




