18 石橋の役人
それだから。
ジャスパーから借りた翻訳本が、ナタリーにさまざまな光を示唆してくれたから。そういった経緯があったから。
湖へと向かう馬車の中、ナタリーはプアスミス川へと横目をやりながら、ジャスパーのつまらない話にも、相槌を打ってやっているのだ。
気が向いたら、といった程度ではあるが。
それでいいのだ。
ジャスパーが話を聞いてほしいと願っているのは。格好つけたい相手は、ナタリーではなく、テレーズなのだから。
ナタリーは気むずかしくならない程度に、愛想をとりつくろうだけでいい。
起承転結のない、だらだらとしたジャスパーのおしゃべり。
テレーズはおかしそうに笑い、楽しそうにつき合っている。
そばで聞かされるナタリーは、話下手なジャスパーにうんざりした。馬車内では逃げ場がない。
天から降り注ぐまばゆい輝きをきらきらと不規則に反射していた川面は、じょじょに霧が立ち始めた。
かと思えば、気がつけば、あたりはすっかり、濃い灰白色の霧に包まれている。『精霊の舞』なる光の柱どころではない。
もうすこし眺めていられたらよかったのに。退屈しのぎにはぴったりだった。
それにしても。
オウエンの不在が、これほどにまで苦痛をもたらすとは。予想外だ。
数日前、オウエンはキャンベルの屋敷へと出向き、それからしばらくグレイフォードを留守にしていた。
今日は家令オウエンの代わりに、ロジャーがジャスパーに仕え、湖への案内役と馭者を務める。
ロジャーはオウエンの地位に次ぐ、使用人たちのまとめ役だ。
しかしロジャーは、オウエンのような勇気を持ち合わせていないようだった。
つまりは、ジャスパーの行方不明になりがちな会話を忌憚なく斬り捨てる、といった類の英断を、ロジャーには望めない。
そもそもロジャーは今、馬車内にいるのではなく、馭者台で手綱を握っている。
ジャスパーの、山も谷もなく、眠気を誘うにはうるさい、辟易とするようなおしゃべりから逃れ、その幸運をかみしめているに違いない。
「このまえ、グレイフォードの名の由来については話したろう」
ジャスパーは大きな体躯を窮屈そうに縮こめて、向かいに座るテレーズの目をのぞきこんだ。
「はい。うかがいました」
テレーズは瞳をきらきらとさせ、待ちきれないようなそぶりで、ジャスパーにうなずいた。
「そんじゃ、今度は俺がなぜ、ジョンソンを名乗るか、という話だ」
そうこなくちゃ、とばかりにジャスパーは胸をそらし、太い腕を組んだ。
どうせ父親がジョンだからジョンの息子だとか、そういう単純な話に違いない。
ナタリーはつまらなそうに、ジャスパーを一瞥した。
キャンベルとは遠く離れたモールパの地に生まれ、また己よりだいぶ年下のテレーズが、早く馴染めるように。
そんな気持ちが、ジャスパーにはあったのかもしれない。
だがテレースとて、見合い相手の出自くらいは調べる。テレーズの弟オノレの名すら知らないような、粗忽者ジャスパーとは違うのだ。
それでもテレーズは、すっかり既知であることを、まるで初めて聞いたことであるかのように、わくわくして耳を傾けた。
なにしろジャスパーという男は、テレーズのまったく関わったことのない類の人間なのである。
やることなすこと言動のすべて、興味がひかれる。
「俺は一応キャンベルの人間ではあるが、ふだんはジョンソンを名乗っている。兄貴がキャンベル宗家の家督を継いで、俺は、家を出たといっていい身だからな」
それに、ジャスパーの低いだみ声には、テレーズの薄い胸をあつくさせ、うっとりと陶酔させるような、不思議な力があった。
「ジョンソンというのは、俺の親父――先代キャンベル辺境伯の名がジョンだったんだ。それで俺は、親父の名を譲り受けてジョンソンを名乗り、一人前の男として、堂々と宗家から独立したってわけだ」
ああ、やっぱり父親がジョンだった。
ナタリーはあくびをかみ殺した。
それにしても、一人前の男というのは、まさかジャスパーのことだろうか。
財産管理にとどまらず、領地経営の方針計画立案も、人事も、領内の裁定も、社交の細事も。
なにもかも家令のオウエンまかせのようだが。
オウエンはよくやっている。本当によくやっている。
もう一人の使用人頭ロジャーとともに、領主ジャスパーの至らぬ仕事をせっせとこなしている。
ナタリーの父ロドリックとて、ジャスパーほど人任せではなかった。はずだ。
おそらく。
かつての家令ウォルターの哀れな嘆きが、記憶によみがえった気がして、ナタリーは急いで頭を振り払った。
『ナタリーお嬢様! 聞いてくださいよ! 旦那様ときたら、またしょうこりもなくタージル産の軍馬を八頭、タージル人から購入すると約束をなされたのです!
八頭ですよ! よりにもよって、タージル産の軍馬を!
その費用は、いったいどこから捻出するおつもりなのか!』
いや違う。
きっとナタリーの記憶違いだ。
そのあとにナタリーが「新しい軍馬がくるのね!」とはしゃいで、ウォルターが言葉を失ったことも。
そんなことは起こらなかった。だろう。
百五十年も前のことだ。
眠っている間に、すこしばかり記憶障害が起こっていても、おかしくはない。
ついでに。
かつての愛馬ブラッククリフであったり、眼前のプアスミス川であったり。名の由来を云々しがちなこと。
それからテレーズの弟オノレの名前を知らなかったことなど。
ナタリー自身も、よくよく考えてみれば、ジャスパーと同様であった。なんて、そんなはずはないのである。
人里離れた森の奥にある『ジョンソン氏の館』から馬車を走らせ、どれほど経つだろうか。
左手にプアスミス川。右手に丘陵。
馬車は湖に向かって、はじめよりずいぶんとなだらかになった坂道をくだる。
ロジャーの馭者ぶりは見事で、ゆったりと馬車は進んだ。
車輪は濃霧の中でも、地面に深く刻まれた轍から逸れずに、丁寧にあとをなぞった。
地面が敷き詰められた丸石に変わっても、玉突き遊びのように、派手に石を弾き飛ばすこともない。
川沿いの街道を進むうち、霧の中からぼんやりと、石橋が浮かび上がる。
鍛冶屋が放り投げられたという石橋と、同じ石橋だ。
さて石橋を渡ろうというところで、役人が詰め所から出てきた。
「通行料を払っておくれ」
役人はやる気のなさそうな素振りで、手のひらを表にして催促した。
役人は今しがた農作業を切り上げてきたばかりといった具合に、上着やズボンのあちこちに泥がはねていた。
ブーツは革で作られているのかもしれない。
しかし彼の足元を見る限り、泥土で固めたカチコチの焼き物のようにしか見えなかった。
「俺が支払っておまえの財布に入り、それからすこうし、額が減って俺の懐に戻ってくるというわけだな」
ジャスパーは馬車から降りて、役人の肩を叩いた。
「お疲れさん。畑仕事の合間に、いつも悪いな」
「こりゃあすまねえ」
役人は目を丸くして、前に突き出していた手を下ろし、手にこびりついた泥を上着のすそで拭った。
「領主様じゃねえか!」
「俺の馬車だろうが」
ジャスパーは役人の肩を抱いて笑った。
「俺のほかにグレイフォードで、こんなに立派な馬車を走らせるやつがいるかよ」
大柄なジャスパーが小柄な役人を抱き込み、役人はジャスパーのなすがままに体を揺さぶられた。
「いやあ、だって領主様が馬車に乗ることなんてめったにねえじゃねえか」
役人は不満げに口をとがらせ、ジャスパーを見上げる。
「すこし前に、やたらめったらきらびやかな馬車が、フォギー街道を通ったみてえだけど」
「そりゃモールパの馬車だな」
ジャスパーは照れたように顔を赤くし、だがまんざらでもない様子で誇らしげに胸をはった。
「俺の婚約者殿だ」
「へえ!」
役人は目を丸くした。
「領主様、ようやく嫁さんをもらえるのかい!」
「めでてえだろ」
さあ祝えとばかりに、ジャスパーは役人の肩をたたいた。
「へえ」
役人はすっかり驚いた様子で、気の抜けた声を上げた。
それからジャスパーの顔をまじまじと眺め、感慨深げに言った。
「いつになったら結婚するのかと、儂らヤキモキ――うんにゃ、もう諦めとったわ」




