16 写本の示唆
「献辞にオノレの名が」
写本の表紙をめくってすぐに、テレーズははっと息をのんだ。
「ん?」
ジャスパーは首をかしげた。
「オノレってのは、あんたの知り合いか?」
「ええ」
テレーズはどきどきと高鳴る胸をおさえ、顔をあげた。
すると、テレーズの目の前に突き出された、髭もじゃで目がくりくりとした、ジャスパーの顔。
愛想のいい熊のようだ。
見世物小屋で見かける獣たちは野生の獣とは違い、人に危害を加えぬよう、よく飼いならされ牙を抜かれている。
ナタリーにはジャスパーが、キャンベルという獰猛な牙を抜かれた、哀れな獣のように見えた。
体は大きく逞しいが、戦い方を知らない。危機感がない。
ナタリーは、グレイフォードの領主ジャスパーにとって、いかにも怪しい人間のはずだ。
モールパの地からテレーズの扈従として主にひっついてきたものの、フランクベルト語を使いこなせず、古キャンベル語に堪能なのだから。
なんらかの企みがあっておかしくない。そう考えるのが自然だろう。
それにも関わらず、テレーズとナタリーは引き離されず、ジャスパーは安穏として客人を歓待している。
しかしテレーズのジャスパーへの感想は、ナタリーとは違うようだ。
「オノレは私の弟です」
またしても距離の近いジャスパーに、どぎまぎしながらテレーズは答えた。
「同名の、まったく関係のない別のかたの可能性もありますが」
テレーズは慎重に断りを入れたが、最後には確信をもって言った。
「オノレも王太子殿下のお側に仕えているので、おそらくは弟のことかと」
「そうか」
ジャスパーは嬉しそうに笑った。
「テレーズ嬢との縁は、モールパ公やウジェーヌ殿だけでなく、弟君からも繋がっていたんだな」
テレーズとの共通点が見つかったと、ジャスパーは無邪気に喜んでいる。
そんな二人のすぐそばで、ナタリーは凍ったように硬直していた。
口語ではよくわからないことも、文語であれば、ある程度察しがつく。
その法則は、テレーズがゆっくりとめくる写本にも適用された。
写本の精緻な装飾文字や挿し絵へと、ナタリーの目は吸い込まれていく。
フランクベルト語で語られる民話。
いかにも昔話といった体で、言葉と絵で再現される物語。抜け目のない盗人のように、ナタリーの頭の中へ、するりと忍び込む。
ジャスパーがテレーズにもたらした翻訳本は、ナタリーにさまざまな知識の奔流をもたらした。
まず最初に理解できたことは、ナタリーがレオンハルトの手によって、仮死状態となったこと。
それからナタリーの仮死後に完成された、フランクベルト語への、完璧な理解。もちろん、文語と口語のどちらもだ。
ほかにもいくつか、断片的な映像が見えた。
たとえば、ナタリーを模した人形をそばに置き、甘やかな声色で語りかけ、黒薔薇と愛の言葉を捧げる、狂人のようなレオンハルトの姿だとか。
レオンハルトは、食事でも就寝するのでも、ナタリーそっくりの人形をとなりに並べて抱擁し、接吻した。
「ごめんなさい……!」
ナタリーは頭を抱え、狂ったような叫び声をあげた。
室内を突然の強風が吹き荒れる。
さまざまな置き物や家具が倒れ、ジャスパーとテレーズは驚いた。
だが、それよりも、うずくまるナタリーの姿に二人はあわてた。
この突風で、怪我をしたのか。頭を打ってはいないだろうか。
「おい、あんた、どうした!」
ジャスパーがナタリーの肩をゆさぶる。
「ナタリー?」
テレーズも写本を閉じ、呼吸のままならないナタリーの背をさする。
「ゆっくり、ゆっくりよ」
テレーズは優しい声色で、ナタリーの呼吸をうながすに努めた。
ジャスパーはテレーズの落ち着いた様を見て、ちいさく頷き、離れた場所に控えていた使用人に、果実水を持ってくるよう指示した。
冷えた果実水がのどを滑り落ちるにしたがって、ナタリーの全身を巡る狂乱は静まった。
「それを」
ナタリーは震える手で写本を指さす。
「もう一度、見せて。お願い」
古キャンベル語ではなく、フランクベルト語でしゃべり出したナタリーに、ジャスパーとテレーズは顔を見合わせた。
テレーズが「ジャスパー様」と呼びかければ、ジャスパーはうなずいた。
「もったいぶるつもりはねえ」
ジャスパーはテレーズの手から写本を受け取ると、今度はナタリーに手渡した。
「あんたが欲しいってんなら、くれてやってもいい」
「ありがとう」
ナタリーは礼を言い、顔を上げた。
「でも、けっこうよ。甥御さんからの贈り物を奪うつもりはないわ」
ジャスパーの労わるようなまなざしと出会い、ナタリーがほほえむ。
「笑った」
ジャスパーは驚愕に目を丸くした。
「あんた、ずっと俺を敵視してただろうに。すげえ目で睨んで、だんまりをきめこんで」
「あら、気がついていたの」
ナタリーが肩をすくめる。
「でもしかたがないでしょ。年のいったガサツな大男なんて、テレーズの相手にふさわしいとは思えなかったんだもの」
「よくしゃべるのも考えものだな」
ジャスパーは顔をしかめ、顎髭を引っ張った。
「しかし、そうか。あんた方がグレイフォードに来たのには、なにか事情があるんだろうとは思ったけどよ」
ナタリーはジャスパーの意外な言葉に、内心驚いた。
まさかこの熊男に、働かせる頭があったなんて。
「事情持ちはテレーズ嬢じゃなく、ナタリーだったのか」
ジャスパーは騒ぎを聞きつけ、やってきた家令のオウエンへと横目をやった。
「オウエンにはかなわねえな。俺の負けだ」
「旦那様が私に勝てるはずがありません」
オウエンはニヤリと不遜に笑った。
「私が勝ったら」
言葉を切り、ジャスパーに念を押す。
「覚えておいでですね」
「覚えてるよ」
むすっとジャスパーは答えた。
「だがなあ。気が進まねえなあ」
「賭けまでしていたの」
ナタリーが呆れ声で言う。
「そりゃ賭けますよ」
オウエンはあえて古キャンベル語を用い、取り澄まして答えた。
「キャンベルは賭け事が大好きなんです」
主に代わって、オウエンがうまくない冗談を得意げに言った。
一方で敗者ジャスパーは、賭けの勝敗どころではなくなっていた。
それまで、いつでもにこにことジャスパーに笑いかけてくれていた、天使のようなテレーズ。
そのテレーズが、今にも泣きだしそうな顔を見せたかと思うと、すっかりうつむいてしまったのである。




