12 横乗り鞍
グレイフォード一帯を囲うようにしてある森。
その西の方角にジョンソンの館はあり、そこから浅瀬の湖へ流れ込む川があった。
湖は盆地の真ん中にあり、春や秋は特に、灰白色の濃い霧がなかなか晴れないのだという。
霧で隣人の顔もかすむような、それほどにまで神秘的な湖は、モールパにはなかった。
ジョンソンの館で過ごすようになって一週間。
深い緑の清廉なグレイフォードの森に、すっかり心を奪われていたテレーズは、ジャスパーからグレイフォード――灰色の浅瀬――の地名の由来と、その浅瀬の湖について聞かされ、矢も楯もたまらず、ジャスパーに案内をねだった。
ジャスパーは喜んで請け合った。
「そんじゃあ、明日にでも行くとするか」
テレーズはいつも、ジャスパーの三倍以上の時間をかけて食事を摂る。
ジャスパーはそんなテレーズの『のろのろ』を、グレイフォードのおしゃべりをすることで待っていたのだ。
ジャスパーはうずうずと待ち切れない様子で、からだを揺らした。
食事を切り上げ、今すぐにでも厩舎に向かいかねない。
テレーズは「まあ、嬉しい」とにこにこ顔だが、オウエンが水を差した。
「テレーズ様はお体が弱いのですよ」
「わかってら」
ジャスパーがむっと顔をしかめる。
「いいえ。おわかりになられていません」
オウエンがきっぱりと言った。
「馬から転げ落ちてそのまま冬の湖に浸かったとして、苦もなく水泳に勤しんでしまうような旦那様とは違い、テレーズ様は頑強な方ではございません。ですから、行程はしっかりと練らねばなりません」
そう言うとオウエンは、テレーズの後ろに控えるナタリーを見据えた。
「そうですよね、ナタリー様」
「そうね」
最後の台詞だけ、わざわざ古キャンベル語で確認するオウエンに対し、ナタリーは流暢なフランクベルト語で返した。
「すくなくとも、騎馬ではなく馬車でないと困るわ」
「馬車か」
ナタリーの指摘に、ジャスパーは顔をしかめた。
「そうか、そりゃそうだ」
納得した様子ではあるが、馬車がジャスパーの好みでないことは、誰の目にも明らかだ。
「あの、私、馬に乗ることはできます」
テレーズはおずおずと言った。
「横乗り用の鞍はございますか?」
「悪い」
ジャスパーは申しわけなさそうに首を振った。
「横乗り用の鞍はねえんだ」
横乗りか。
ナタリーがテレーズの前世マルグリットと初めて顔を合わせたのは、フランクベルトの宮廷で横乗りを指南されていたときのことだった。
それまでナタリーにとって騎馬とは、両足を開き、またがって乗るものだった。男同様に。
◇
百五十年前の、先王ヨーハンの突然の薨去。
王太子ジークフリートの不自然で不可思議な王位辞退の声明が国中に公表されると、あわただしくレオンハルトが即位した。
ナタリーは王となったレオンハルトによって、王都に居住するよう命じられた。
それからは王宮そばの離宮で生活をするようになった。
もとは、先王ヨーハンの側妃カトリーヌ、その母子が住んでいた離宮だそうだ。
彼らは病を得たそうで、今は静養のために生家に戻り蟄居しているのだという。
レオンハルトの異腹の兄三人のうち、末の王子フィーリプだけは宮廷に残っているようではあったが。
フィーリプはジークフリートの行くところへ常についてまわり、ジークフリークから、うっとうしいような視線を向けられていた。
ナタリーは何度も見かけたことがある。
フィーリプはまるで、異腹の兄ジークフリートの扈従のようにふるまっていた。
だが彼は、異腹の弟レオンハルトには、親愛の情を示してはこない。
それがナタリーには不思議だった。
今となれば、レオンハルトこそ、玉座にあるのに。
とはいえ、そんなつまらない疑問に頭を悩ませている場合ではない。
今はまず、目の前の馬に貴婦人らしく横乗りしなければならない。
そしてちょこんと腰かけた状態で、手綱を握り、鞭を持ち、ゆく手を阻む障害物を飛び越える。
非常に不安定で非効率的で、まったくくだらない。
この状態で、どうやって矢を放ち、剣や槍をふるうのだ。
レオンハルトはナタリーを魔法騎士団に所属させた。
ナタリーをフランクベルトの宮廷に住まわせ、立ち位置を確立させるためだ。
それはいい。
騎士団の中に身を置けるというのならば。鍛錬を積んでかまわないというのならば。
ナタリーの望むところだ。
だが魔法騎士団においては、女は馬に横乗りせよという。
「落馬しやすい横乗り鞍を取りつけるなんて、あたしに早く死んでほしいから?」
ナタリーは見慣れぬ形状の鞍を、手で叩いた。
臆病な馬を驚かせないように、首の横をゆっくりとなでながら鞍を叩いたので、馬はナタリーに鼻先をすり寄せた。
「メロヴィング公爵令嬢ミュスカデ様は横乗り鞍で、実に見事に馬を操られますよ」
馬頭の口ぶりは明らかにナタリーを嘲っていた。
出会ったばかりのナタリーに、親愛を示す馬の様子が気に食わなかったのかもしれない。
ナタリーにも可愛がっていた馬がいる。
フランクベルトに連れてくることはかなわず、キャンベルに置いてきてしまったが、あのこは元気にしているだろうか。
岸壁さえもともに駆け抜けることができるよう、生まれたばかりの黒毛の仔馬に、ブラッククリフと名付けた。
誕生を見守り、厩舎で寝泊まりするほどに可愛がっていたブラッククリフ。
あのこが、見知らぬ他人にすぐさま懐けば、ナタリーとておもしろくないだろう。
馬頭がいちいち、宮廷で管理するすべての馬に主人面して、そのほかの乗り手に嫉妬してみせるのは、狭量のようにも思うが。
「野猿令嬢もどうぞ、お試しを」
馬頭はフランクベルトの言葉を用いたので、ナタリーは正確に理解することはできなかった。
だが、侮られていることははっきりとわかった。
なぜこれほどまで、キャンベルのやり方を否定されなければならないのだろう。
言葉は違うが、キャンベルとてフランクベルトを支える領邦のひとつではないか。
「横乗りなんてバカバカしいことまでして、彼女は馬に乗りたいの?」
ナタリーはキャンベルの言葉で言い返した。
「それほどまで馬がお好きなら、彼女に同じ、女として、貴族令嬢として。あたしが乗馬を教えてあげるわ。もっと効率的で合理的で、気分のよくなる乗り方をね」
キャンベルの言葉を理解できないはずの馬頭が、反論しようと口を開きかけたときだった。
彼はあわてて口を閉じ、頭をさげた。
話題となった当の本人があらわれたからだ。
芝草の密集する緑の絨毯に、馬と馬上の人、それぞれ二頭と二人分の影が落ちた。
陽光をたっぷりと背に浴び、逆光となったその表情は見えない。
「ごきげんよう、ナタリー様」
大貴族メロヴィング家の公女ミュスカデ。
彼女は貴族令嬢らしく淑やかに横乗りで馬に腰掛け、器用に手綱を操っている。
彼女のうしろには、おそらく彼女の扈従である女が一人、つき従っていて、こちらもまた横乗りだろう。長いドレスの裾が優雅なドレープを描いている。
「……ごきげんよう」
無愛想にナタリーは返した。
だがそこで、はっと気がついた。
ミュスカデはキャンベルの言葉で、ナタリーに話しかけたのだ。
ナタリーはまだ、フランクベルトの言葉をうまく使いこなせないでいたので、ミュスカデの気遣いはありがたかった。
ミュスカデへの親近感がわき、警戒心がぐっとゆるんだ。
王宮に足を踏み入れるたび、宮廷人の誰も彼もが敵のような心地だった。だが、ミュスカデは他の宮廷人とはどこかが違う。
ナタリーの野生の勘が、ミュスカデが信ずるに値する相手であると告げていた。
「ここはわたくしにお任せくださいませ」
ミュスカデは馬頭にほほえみかけた。




