6 それぞれの使命
「キャンベル辺境伯の弟御ジョンソン氏を頼りたまえ」
妹のふるえるこぶしを、ウジェーヌは優しく包み込んだ。
「ジョンソン氏?」
これまで縁のなかった人物の名だ。
どのような人物だろう。どこかで聞いたことがないか、テレーズは自身の記憶をさらった。
「ジョンソン氏は穏やかで包容力のある、素晴らしい男だ」
ウジェーヌはここぞとばかりにたたみかけた。
「あちらのお家柄なのか、君の苦手な貴族らしさ、つまり気取り屋でもない。おてんばな君にとっても、居心地はよいだろう」
「どういうことなの、ウジェーヌお兄様」
テレーズはくちびるをふるわせた。
「彼女を君の扈従として連れ出し、この屋敷から出るのだ」
ウジェーヌはきっぱりと言った。
「それって……」
テレーズのはしばみ色の瞳が、希望と困惑で揺れる。
「君はジョンソン氏との見合いに出かける。そういうことにしておきたまえ」
ウジェーヌはにやりと笑った。
「あとのことは、僕がなんとか誤魔化してやるから」
「ウジェーヌお兄様……」
テレーズの瞳に涙が浮かび上がる。
「ああ、君が本気でジョンソン氏を気に入るのなら、そのまま嫁ぎたまえよ」
婚約者がおらず、嫁ぐことの叶いそうにない身の上を、テレーズがひそかに嘆いていたことを、ウジェーヌは知っていた。
「彼は少しばかり君より年上だが、実に気持ちのいい男だ」
だからこれは、嘘偽りのない、ウジェーヌの本心でもあった。
部屋を出ていく間際、ウジェーヌは扉に手をかけ、テレーズへと振り返った。
「余計なことかもしれないのだが」
「なにかしら」
テレーズは瞳をきらきらと輝かせ、兄ウジェーヌの言葉を待った。
「父はこれから、神官と難しいやり取りをせねばならない」
ウジェーヌは渋面をつくった。
「それだから、この件の進捗について、父にたずねるようなことをすれば、屋敷内でも難局を思い起こさせ、父を疲れさせてしまうに違いないと。そのように思うのだ」
「そうね。きっとそうだわ」
その先は言わずともわかっているとばかりに、テレーズは胸をはった。
「お父様には、ゆっくりお休みいただかなくてはならないもの。私、ちゃんと静かにしています」
「テレーズ、やはり君は本当に優しいな」
ウジェーヌはほほえみ、それから「おやすみ」と部屋を出て行った。
兄の背を見送り、ドキドキといまだ高鳴る胸をテレーズは両手でそっとおさえた。
病がちで、誰かに迷惑をかけるばかりだった。
神より与えられた生命を生きる中で、何も成し遂げることのないまま生命を終えるのかもしれない。それが不安だった。
心に決めた誓いのために奉仕し、生命を燃やすような。そんな生き方ではなく。
いたずらに時間を浪費するだけの、虚しい人生になるのかもしれない。
生の対価を支払えないことが、テレーズは悔しくて、悲しかった。
だけれど、ようやく誰かの、友人の助けになれる。モールパ家の一員として、公女としての役目を果たせる。
もしかすれば、物語のようなロマンスすら、起こりうるかもしれない!
あまり期待はしないでおいたほうがいいだろう。しかし兄ウジェーヌがジョンソン氏の人柄を褒めていた。きっと素敵な男性にちがいない。
愛してほしいだなんて、それほどまでにだいそれたことは願わない。
ただそっと恋い慕うような。心の浮き立つような経験が、もし叶うのなら。
まるで夢に見た冒険のよう。
テレーズは陶然として、まぶたをとじた。
だがそこで、そういえば、とテレーズは首をかしげた。
――今日のウジェーヌお兄様ったら、昔のように、とっても親しみやすかった。
きっとナタリーを救いたくて、義憤の念にかられていたに違いない。お優しい方だから。
普段はあまりしゃべらない兄の、珍しく饒舌な様に、兄ウジェーヌの優しさが見えるようだった。
じんわりと温かくなった胸に手を当てたまま、テレーズはほほえんだ。
きっとお父様とウジェーヌお兄様で、神官様への告発は、どうにかしてくださるに違いないわ。だってナタリーは悪魔ではないし、もちろん、悪しき魔女なんかであるはずがないのだから。
◇
会わせるものか。
テレーズの部屋をあとにしたウジェーヌは、こぶしを握りしめ、回廊を進んだ。
厳しい顔つきで足早に歩く公子ウジェーヌ。
眉間には深いしわが刻まれている。父親ゆずりの細面は青白い。
彼の姿を目にした使用人は、彼の機嫌を損ねぬよう、あわてて進路を変えた。
使用人に怒鳴り散らし、折檻を与えるようなことを、ウジェーヌがしたことはない。だが彼の醸し出す、えもいわれぬ憤怒、不機嫌な様は、使用人をおびえさせるのにじゅうぶんだった。
私室に戻ると、ウジェーヌはさっそくペンを執った。
手紙の宛て先は、先ほどテレーズとの密談にて名が上がったジョンソン氏。
ジョンソン氏はキャンベル家の人間だが、辺境伯の嫡子ではないので、事情を深くは知るまい。
ウジェーヌは自身より年上の、身分も財もある貴顕へと、哀れな体で同情を乞うことにした。
体が弱く、自由と希望のない気の毒な妹テレーズを、ジョンソン氏の男性らしい寛容さで、力強く救い出してほしいと。
口先で美辞麗句を述べるのは、どうにも性に合わなかったが、手紙に綴るのであれば、いくらでも並べ立てることができた。
詩歌を詠むのと同じだ。ウジェーヌはよどみなく、ペンを走らせた。
この国は、国家――領邦に自治都市、国民が自由意思を持ち、すでに新たなる歩みを始めたのだ。
それを過去の亡霊などに、邪魔されてなるものか。
レオンハルト二世も、ナタリー・キャンベルも。
愚王と魔女がこの国を乱すことなど、二度と許してはならぬのだ。
叡明な初代モールパ公爵ジークフリートの子孫として、彼らの我欲による越権、横暴、それらによって引き起こされる国家の混乱と文化の衰退は、必ずや阻まなければならぬ。
魔法に魔術など。時代錯誤な遺物は、現代において不要だ。
現王オットー陛下も宣言なされたではないか。フランクベルト王国に、青い血は不要であると。
それはつまり、オットー王陛下はついに、モールパが発展させ成し遂げた成果こそ、これまでの医術――魔術に並び、さらには人智がそれらを超えうると。たしかにお認めになられた。そういうことだ。
愚王と魔女を引き合わせてはならぬ。
それが、フランクベルト王国のため。モールパ家次期当主としての務め。
父ユーグが、その優しさゆえに同情心を切り捨てられぬということならば、僕ウジェーヌが。
次期モールパ公爵ウジェーヌが、非情の役を担おう。
ウジェーヌはペンをスタンドに戻した。
書き終えたばかりの手紙に息を吹きかけ、インクを乾かしてから折りたたみ、封筒に入れる。それから小指にはめたシグネットリングを外し、机の上に転がした。
引き出しから棒状の真紅の蝋が取り出され、ウジェーヌはそこから親指の大きさほどの分量を、ナイフで削り落とした。
銀匙の上に蝋を載せ、蝋燭の火で蝋を温める。
ぷつぷつと小さな気泡があらわれたところで、銀匙を火から下ろし、少しばかり冷えるのを待って、封筒へ蝋を落とす。
どろりと粘度の高い蝋が流れ落ち、そこへシグネットリングの印章を押す。真紅の塊がぐにゅりと歪み、しばらく待ってからウジェーヌはシグネットリングを外した。
杖頭に獅子の横顔と鷲の両翼、蔦の巻きついた杖の柄、といったモールパ家の象徴。
シグネットリングに彫られた印章が、封蝋にもくっきりと刻まれる。
封蝋でとじた手紙をトレイの上に置くと、ウジェーヌはまぶたを閉じ、息を吐き出した。
今すぐ、たばこが必要だ。胸元に手を差し込み、ウジェーヌは嗅ぎたばこ入れをさぐった。




