5 モールパ家の信条
「ここしばらく、僕なりに考えていたのだ」
ウジェーヌは深く息を吸い込んだ。
「彼女にとっても、言葉も通じず、親族もおらず、慣習も異なり、不自由を強いられるモールパの地より、彼女の郷里の方がよっぽど、心穏やかに過ごせるのではないだろうか」
「ええ、そうね。それはそうだわ」
テレーズはうなずき、しかしすぐさま不満げに眉をひそめた。
「けれど、ナタリーの出自はやっぱり、ここモールパではないの?」
テレーズが兄へとたずねる声には、すがるような、どことなく哀願の色がにじんでいた。
ようやくできた初めての友人。家族同様に、その幸せを願う友人。
けれど大切な友人は、もしかすれば去ってしまうかもしれない。友人の幸せを願うのならば、その背中を見送り、幸福な門出を祈らなくてはならないのかもしれない。
モールパの地がナタリーの故郷であればいいのに。テレーズはそう願わずにはいられなかった。
そうであれば、テレーズが公女としての名誉と財産と権利を行使して、ナタリーを守ってあげられるのに。
悪魔だ、魔女だなんて事実無根の風評被害は、すぐさま消し去ってやれるのに。
根拠のない嘘偽りであれば、まっとうな手続きを経て、公正な法のもと、正義を通すことができるはずだ。
善良なるモールパの民のために、モールパの公女が力を尽くすことは、公女としての義務でもあるはずだ。
だがウジェーヌは非情にも、テレーズの祈りを否定した。
「彼女の出自は、ここモールパではない」
「そうなの」
兄の答えは予想通りではあったが、テレーズはがっかりと気落ちした。
「そうよね。言葉も見た目も違うものね」
ウジェーヌに向けていたテレーズの視線が、物憂げな様子でテーブル上の花瓶へと移る。
一輪の黒薔薇が、己の存在を主張するかのように、濃厚な芳香をまき散らしていた。
モールパ邸忌憚『開かずの間』として、ながらくささやかれていた部屋は、ナタリーが客室として使っている。そこにはあいかわらず毎日、たくさんの黒薔薇が届けられた。
黒薔薇に囲まれて、ナタリーがどのような感想を抱いているのか、テレーズには想像するほかない。すくなくとも嫌がってはいないだろう。
ナタリーはときおり、テレーズの名をマルグリットと言い間違えることがあって、そういったとき、ナタリーは黒薔薇を一輪、テレーズに差し出してくる。
それだからテレーズの部屋には、ナタリーから受け取った黒薔薇が、毎日飾られることになる。
なぜマルグリットなのだろう。
テレーズはそこに、ナタリーの身上の秘密が隠されているような気がした。
ナタリーの本当の名は、マルグリットと言うのだろうか。それとも、ナタリーの姉妹や友人だとか。
マルグリットという名の、親しい誰か。モールパの地にはいない、その誰かのことを、ナタリーは恋しがっているのだろうか。
「彼女の名は、ナタリー・キャンベル」
ウジェーヌはほとんどささやき声で打ち明けた。
「キャンベル家の、それも宗家のマダムだ」
「キャンベル家ですって!」
テレーズは驚きに息を呑んだ。
キャンベル家といえば、フランクベルト建国より以前から続く、旧家中の旧家。
そのうえ宗家となれば間違いなく、キャンベル辺境伯一家のことを示す。
国家最大戦力を誇るキャンベル辺境伯騎士団を擁する、フランクベルト王国の重鎮だ。
モールパ家同様、国政に携わることはないが、モールパ家よりずっと家格が高い。なにせモールパ家はその生起より、せいぜい百五十年しか経っていない。
テレーズはあ然として兄ウジェーヌを見つめた。
「キャンベル辺境伯、ならびにキャンベル宗家の人間には、彼女の存在を知られてはならない」
ことさら念押しするように、ウジェーヌは言った。
「どうやら彼女は、キャンベル宗家において、なにかしら問題を抱えているようだから」
「そんなことが」
テレーズは二の句が継げなかった。
兄ウジェーヌの言葉が頭の中に染み入ってくる。
すこしずつ、じんわりと。その意味することはなんなのか。テレーズの思考がめぐり始める。
ナタリーはお家騒動に巻き込まれたのだろうか。そのために遠く離れたモールパの地へ逃げ落ち、父公爵ユーグが気の毒なナタリーをひそかにかくまっていたのだろうか。
そうしてしばらく静養していたというのならば、なるほど、モールパ公爵邸の開かずの間とは、事情のある人物をかくまうのにうってつけの場だ。
モールパ公爵は愛国の七忠、王の上級顧問という、絶大な信頼を王や国民から得ている。
そのうえ、国政には関与しないものだから、貴顕の間からも、市井のひとびとからも、中立的な立場であると見なされている。
政治犯や思想犯、国事犯、宗教裁判で異端と見なされた者など。
モールパ家当主が、彼らを良心の囚人と判断し、彼らが受け取るべき健康、そして罪からの解放、新たな人生を、と慈悲を与えるのならば。
きっとそういうことだったのだ。そうにちがいない。
なぜならモールパ家は、傷ついたひとびとを癒すことを信条としているのだから。
つまり、ナタリーをかくまっていたのは、やはり父公爵ユーグのモールパ家当主としての判断であったのだろう。
ここにきてナタリーが『悪魔、あるいは悪しき魔女』と告発されたことは、父公爵ユーグの想定外であり、モールパ家としての意向に背くものなのだ。
胸が熱くなり、これまでに感じたことのないなにかがこみあげてくるのをテレーズは感じた。
体が弱いばかりに、家族のお荷物でしかなかったテレーズ。
モールパ公女として生まれた使命を、ようやく果たせるのかもしれない。
「彼女が懐かしのキャンベルで安息を得るためにも」
使命感に燃えるテレーズの瞳を見て、ウジェーヌは話がうまく進んでいることを確信した。
「君は彼女をキャンベル宗家の人間から守ってやらねばなるまいよ」
「私はどうしたらいいの」
テレーズは前のめりになって、兄ウジェーヌの上着の裾をつかんだ。
テレーズの剣幕に押され驚いたウジェーヌが、妹の決意に満ちたこぶしへと、自身の手をかぶせる。
テレーズの鼻腔に、ハチミツとチェリー、樟脳の香料が届いた。それから、天気のよい日の草むらで嗅ぐ、香ばしい匂い。
たばこの葉と混じり合う、甘くて刺激的な調香は、最近のウジェーヌのお気に入りだった。




