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4 悪魔、あるいは悪しき魔女




「今からする話は、君を怖がらせてしまうかもしれない」

 ウジェーヌは椅子に腰掛けるテレーズの肩に、彼の華奢で繊細な両手を置いた。

「落ち着いて聞きたまえ」


「なにかしら。怖いわ」

 兄ウジェーヌの真剣な顔つきに、テレーズは顔をひきしめた。


 しかしその次には、はじかれたように笑い出す。

「子どもの頃、ウジェーヌお兄様が寝る前にこっそり聞かせてくださった怖いお話。悪魔のお話。魔女のお話。よく覚えているわ」



 思いもよらない妹の反応に出端をくじかれ、ウジェーヌは目を丸くした。



「お話がとっておきの怖い局面になると、オノレと私は怖がって耐えきれず、ついには泣き出してしまうのよね」

 弟オノレの幼く可愛かった過去を思い出しては笑い、テレーズは肩をふるわせた。

「そうしてウジェニーお姉様が、あわてて私達を泣き止ませようとするの」



 テレーズがちらりと兄ウジェーヌを見上げれば、兄は懐かしそうにほほえんだ。



「そうだったな。君もオノレも、たいそうな怖がり屋だった」

 そこでウジェーヌがおどけた様子で、ぴくりと片眉をあげた。

「それから僕は、ウジェニーに叱られた。やりすぎだと」


「ええ、ええ。そうだったわ」

 テレーズは笑いすぎて目じりに浮かんだ涙を、指でそっとぬぐった。

「私達は泣き止まないし、ウジェーヌお兄様とウジェニーお姉様は言い争いを始めてしまうし。そうなると騒ぎを聞きとがめたお母様が、カンカンに怒って見えたのだったわ。『遅くまで起きている子は、悪魔にいざなわれますよ!』って」


「母は迫力のある方だった」

 ウジェーヌがうなずく。

「母の導火線に火がつけば、父とて止められなかったものだ」



 ウジェーヌはくすりと笑い、「君もウジェニーも、まちがいなく母に似ている」とからかった。



「そんなことないったら」

 テレーズはたまらず、くちびるをとがらせた。

「でも、ウジェーヌお兄様?」

 かと思えば、兄ウジェーヌを上目遣いで見やり、可愛い妹らしく、とびきり甘ったるい声でたずねる。

「久しぶりに怖いお話をしてくださるのね? 楽しみだわ」


「そうであればよかったのだが」

 ウジェーヌは憂慮に耐えぬ風情で、大きく首を振った。

「まったく遺憾なことにだね、テレーズ」

 そこでウジェーヌは言葉をきった。


 胸元をごそごそとやったかと思うと、ウジェーヌの手には、嗅ぎたばこ入れがあった。


 七色に輝く白蝶貝が箱全体を覆い、細やかな装飾には、繊細かつ大胆な金細工と真紅の宝石。

 箱の側面には、モールパ家の象徴。獅子の横顔と、大きく広げた(わし)の両翼を杖頭とし、そこへ螺旋(らせん)状に巻きつく(つた)

 獅子の目には、真紅の小粒な石がはめこまれている。



「失敬」

 豪奢(ごうしゃ)な嗅ぎたばこ入れの蓋を開けると、ウジェーヌは中の粉末をひとつまみ。手首のすこし上、タバチエールと呼ばれるくぼみに置いた。



「君の友人。かの美しいマダム・グノンは悪魔、あるいは悪しき魔女である」

 ウジェーヌは親指と人さしゆびで鼻をつまんで、粉末たばこを鼻腔によく揉みこんでから言った。

「そのような嫌疑がかかっている」


「なんですって!」

 テレーズは飛び上がらんばかりに驚いた。

「ウジェーヌお兄様。私、言いたいことがたくさんあります!」



 きっと()めつけてくる妹に、ウジェーヌは肩をすくめ「どうぞ」と言った。

 テレーズはうなずき、「まずはひとつめ。その渾名(あだな)ったら!」と憤慨した。

「マダム・グノン――野猿夫人だなんて、ずいぶんじゃありませんか」


「僕がつけた渾名ではないのだ」

 妹テレーズをなだめようと、ウジェーヌは優しく妹の髪をなで、額にくちづけた。

「彼女については、彼女の目覚め以前より父から聞き及んでいて――詳しくは言えないのだが、彼女は過去にそう呼ばれていたのだそうだ」


「そうでしたの」

 テレーズは片目をつむって兄ウジェーヌの接吻を受け入れた。



「けれどナタリーが悪魔? 悪しき魔女ですって?」

 兄の言い分に納得したものの、こちらの言いがかりについては、毅然として退くつもりはなかった。

「どなたなの。そのようなことを言い出したおばかさんは」


「我が領を教区とする神官のもとへ、内密に告発があったそうだ。むろん、告発者の名は、神と当該神官のみぞ知る」

 ウジェーヌはふたたび粉末たばこを吸いこんだ。


 テレーズは苛立ちをおさえて、兄ウジェーヌが嗅ぎたばこを堪能し終えるのを待った。



「考えてもみたまえ」

 ウジェーヌはふう、と息を吐きだし、ようやく嗅ぎたばこ入れを胸元にしまった。

「百五十年余りも開かずの間であった部屋から、突如見知らぬ佳人が飛び出してきたのだ。そしてその佳人は、このあたりでは見かけない漆黒の髪に瞳をしていて、さらには言葉が通じないとくる」


「たしかに、ナタリーがいつからこの屋敷にかくまわれていたのか。由来もなにもかも、わからないことだらけだけれど」

 テレーズは兄の言葉をよく吟味し、こたえた。

「でも、モールパ家は病や怪我で弱ったひとびとを庇護し、癒すことを信条としているでしょう。だから……」


「誰もが君のように、寛大でいられるわけではないのだよ、テレーズ」

 傷ついたひとびとを受け入れ、むやみに詮索しない。というテレーズの優しさに、ウジェーヌの良心が痛んだ。



「悲しいことに、人間というものは、未知の存在を恐れ、また疎み、排斥しがちなのだ。愚かしいことだな。そう思うだろう、テレーズよ」

 ウジェーヌは腰をかがめ、うつむく妹の目を、下からのぞきこむ。

「そこでだ、テレーズ。抜本的な解決とはいかないのだが、僕から君に、提案があるのだ」


「提案?」

 テレースは顔を上げ、兄の言葉を繰り返した。



「うむ。テレーズ、君は彼女の友人であろう」

 ウジェーヌが妹に確認すれば、テレーズのはしばみ色の瞳に、決意の光が宿る。

「もちろんだわ、ウジェーヌお兄様」


「そうであれば君は、友情でもって彼女の力になるべきだ」

 ウジェーヌは妹テレーズの肩と膝に手を置き、心をこめて説得した。

「彼女を救えるのはテレーズ、君だけなのだよ」


「私にできることなら」

 テレーズは兄の期待に応えようと、力強くうなずいた。




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