2 モールパ公爵邸
着替えをすませると、ナタリーは白い陽光の降り注ぐ、開放的な庭園に案内された。
流れるような仕草で引かれた椅子。ナタリーはおとなしく腰をおろすことにした。
ぐるりと見渡せば、庭園は灰白色の石壁に囲まれている。
圧迫感がすこしも感じられないのは、単純に庭が広いからというだけではないだろう。
邸宅は小高い丘にあるようだった。
石壁が途絶え、前方に突き出たテラスからは、淡い水色の空に白い雲がたなびくのが一望できる。下方には、緑の稜線が霞んで見えた。
まばゆいばかりの陽光を石畳がやわらかく照り返し、ていねいに刈り込まれた灌木は上からも下からも光を浴びる。そうして立体的な緑の絨毯が、美しい濃淡を描く。
緑の合間を縫う石は、それぞれの場所に調和するよう、大きさや色を変えて敷き詰められていた。
紫がかっていたり、青みがかっていたり。絶妙な色合いの石が、心地よい自然な風景を作り出すのに一役買っている。
石造彫刻は、丸に三角や四角といった単純な曲線と直線だけで形成されていた。石の表面は磨き上げられていない。粗さを残した様は、古典的な素朴さがある。
庭の端には、ラベンダーにローズマリー、タイムにディルといったハーブの植わった薬草畑。その近くには、噴水のない、石造りの人口池があった。
薬草畑も人工池も、大人の男が三人並んで両手を広げたほどの大きさしかない。こじんまりとして、手入れもよく行き届いている。
石壁に沿うようにして咲き誇る赤紫色の花は、その花弁を池の水面に落とし、ゆらゆらと揺蕩う。
ナタリーの視線の先で、鮮やかな赤紫の花弁が、人工池の端から端までゆっくりと泳いでいった。
故郷キャンベルとは異なるが、美しい風景だった。
フランクベルト王都の寒々しさより、ずっと好感が持てた。
温かな日差し。鳥や虫の鳴き声。ほつれた髪を揺らす、さわやかな風。
ナタリーはまぶたを閉じた。
いったいぜんたい、なにがどうなっているのか。ここがどこなのか。さっぱりわからない。
だが、この邸宅に住まうひとびとの心根は、きっとそう悪くない。
そんな気がした。
「マダム」
冷たい声が、温かな風を切り裂いた。
ナタリーがはっとして顔をあげると、そこには先ほどの神経質そうな男が立っていた。
男はナタリーと目が合うと、早口で何かを言い、それから椅子に腰かけた。
使用人が白い陶器のカップ、それから焼き菓子のようなものを二人分運んできて、テーブルに置く。男は運ばれてきた黒褐色の液体を一口飲んだ。
それから男は手のひらを軽く振った。ナタリーにもその液体を飲むよう、勧めているらしい。
おそるおそる口にすれば、不思議な酸味と苦みがあった。薬草とはまた違う苦み。
苦いけど、悪くない。ミルクがあればもっといいのに。ナタリーはそんなふうに思いながら、もう一口飲んだ。
その間に別の使用人が、山積みの書物を抱えてやってきて、サイドテーブルに置いた。
目の前の男が使用人に向かってうなずくと、使用人は去った。庭には男とナタリーの二人だけが残された。
男はナタリーがカップを置くのを待って語り始めた。
ぱくぱくと男の口が動き、音がつむがれていく。
よくよく耳を澄ませてみれば、彼はキャンベルの言葉に似た言葉を話しているようだった。だがそれにしても、おそろしく訛っている。
キャンベルの言葉と、フランクベルトの言葉と、七忠どもの言葉が混じり合ったような、奇妙な言葉だとナタリーは思った。
その奇妙に訛った言葉で、ナタリーが眠りについてから約百五十年の年月が経ったのだと男は言った。
愛するレオンハルトも、息子のジェイコブも、父辺境伯ロドリックも、すでに亡くなっているという。
受け入れられなかった。
一瞬にして、体中の血液が沸騰し逆流するような、すさまじい魔力の奔流がナタリーを包みこんだ。
幼い頃に、魔力暴走を起こしかけたことはある。だがそれとは比にならぬ膨大な熱量が生まれ、いまにも弾けんとしていた。
サイドテーブルに積まれた書物。その一番上に載った書物が、水車の歯車のように猛烈な勢いでめくられる。
かと思えば、つぎつぎに書物が石畳に滑り落ちた。
テーブルの上はひっくり返ったカップや焼き菓子でめちゃくちゃだ。
これはいけない。ナタリーの頭に警告のラッパがけたたましく鳴り響く。
だが渦巻く魔力のほとばしりは、止められそうにない。止め方がわからない。力の種類、その源が、感覚としてつかめない。
こんな力は、知らない。
「ナタリー」
男は落ち着き払った様子で立ち上がり、ナタリーの両肩をおさえた。
「いますぐ逃げて!」
ナタリーは慌てて叫んだ。
「あなた、巻き込まれるわ! 自分じゃ、どうしようもできないのよ!」
「ナタリー」
男はふたたび、ナタリーの名を呼んだ。
男と目が合う。
眼窩奥の、淡い水色の瞳。
決して大きくはないその瞳が、ナタリーをとらえると、ふつりとナタリーの力が抜けた。
あたり一帯を焦土と化すかに思えた、自制のきかない膨大な力が、あっけなく霧散した。
狐につままれたような心地だった。
だが男は何事も起こらなかったかのように、話を続けた。
それから聞かされたのは、フランクベルト王国は領土を多少減らしながらも、同じ王朝のまま存続していること。キャンベル家もまた存続していること。一方で、あのいやらしい蛇、ヴリリエール家が断絶したこと。
そういったことを説明された。
男は書物を幾冊も引っ張り出し、地図や家系図などを用いてナタリーに示してみせたので、ナタリーもどうにか理解できた。
彼がモールパ公爵の地位にあることも、書かれた文字によって知った。
口語はほとんど理解できなかったが、文語であれば、多少は理解できた。
また文字を目で見ることで、モールパ公爵の用いる言葉が、やはり、キャンベルとフランクベルトと七忠の混じり合った性質であると確信した。
そのほかにもモールパ公爵はナタリーに語ろうとした。ナタリーも溢れんばかりの疑問を公爵に浴びせた。
だが、互いに相手の言葉を聞いては、そのたびに何度も聞き返した。ひとつの言葉を交わすのに、相当の労力が必要だった。
筆談も試した。
だがナタリーがもっとも聞きたいことに話が及ぶと、公爵はペンを止めてしまう。そして文字ではなく音にして語ろうとする。ナタリーにはよく聞き取れないと、公爵も知っているはずであるのに。
そのうち、ナタリーはすっかり疲れてしまった。
――キャンベルの地へ帰りたい。
百五十年の年月が経過しているが、キャンベルであれば、もっとなめらかな会話が可能に違いない。
なぜナタリーだけが一人こうして、眠りについていたのか。
あれからレオンハルトは、息子のジェイコブはどうなったのか。彼らは今、本当に存在しないのか。
この身を巡る、不可解な血の昂ぶりはいったいなんなのか。
そして、腹の子は、無事なのか。
これらの疑問に応える人間がいないのと同様に、書物もなかった。モールパ公爵邸の図書室には、求める蔵書がない。
もしかすれば、ナタリーが長い眠りにつくことになった、その事情などは、書物に残せる類ではなかったのかもしれない。
ナタリーの問いかけに対し、公爵が文字を残そうとしないことからも、その可能性はおおいにある。
加えて、モールパ公爵とは、ナタリーにだけかまっていられるほど、暇を持て余した人物でもないようだった。
しだいにモールパ公爵と顔を合わせる機会が減っていく中、公爵の次女だという娘が代わりに、ナタリーの前へ顔を見せるようになった。
娘の名はテレーズ。
顔のつくりはそれなりに整っていたが、ひどく痩せていて、いかにも病弱そうな娘だった。
「あら、この子」
ナタリーは不思議なことに、テレーズに既視感を覚えた。
「この子ってば、かわいそうに」
考えるともなしに、ナタリーの口をついて出た言葉。
「もしかして今回も体が弱いの?」




