1 目覚め
レオンとナタリーが暮らしていた村からは、すでに遠く離れた。
一行は荷馬車に揺られていた。
幌のかかった屋形には、意識を失ったままのレオンに、形ばかりの拘束をされたナタリー。
それから王子ユーフラテスを名乗った、レオンハルトの兄ジークフリートによく似た青年。彼の率いる男たち。
落ち着いて観察してみれば、男たちの中には、村人を装っていた人間がちらほら混じっていた。
リナが魔力を暴走させ傷つけた木こりと、その相棒の痩せた男。彼らは、村人を装う裏切り者だった。
またしてもナタリーは罠にはめられたのだった。しかし逃げ出すには、『彼』に恩がありすぎる。
それ以前に、あの冠を被られていては、手も足も出ない。
苦い思いで、ナタリーは一隊の将を務める男を見た。
彼はまるで、百五十年前のジークフリートが今世に蘇ったかのように見えた。
身体の細く、神経質で繊細だった印象の当時のジークフリートより、ずっとたくましく健康的で、男らしい容貌になってはいたが。
径はたいらでなく、大小さまざまな石が転がっているために、車輪は不規則に飛び跳ねた。
荷馬車が通るこの地は、いったいなんという名の地であるのか。治める領主が誰なのか。
ナタリーにはわからない。
レオンとジャックとリナと。家族で暮らしていた、のどかで幸福だったあの村は、昔からキャンベルに連なる家の所領だった。
村を含めた一帯の名は、ゴールデングレイン。
その名の通り、昔は穀物がよく採れたのだそうだ。
今よりずっと豊かな土地だったのだと、現キャンベル辺境伯の弟であるジョンソン氏が言っていた。
キャンベルに連なるいずれかの家が、今世でもゴールデングレインを治めているそうだ。
しかしナタリーは、ゴールデングレインを治める領主の名を聞かされたのかどうかすら、忘れてしまった。
ジョンソン氏の館でも、ジョンソン氏の前に世話になったモールパ公爵邸でも。どちらにせよナタリーは、百五十年余りの眠りから目覚めたあと、それほど長く過ごすことはなかった。
それだからナタリーは、彼らにはさほど親しみを抱いていない。信用もしていない。
モールパのひとびとなど特に、言葉もよく通じなかったのだから、当然だ。
百五十年前、ナタリーはいやらしい宮廷人たちが大嫌いだった。
今世でもやはり、身分と家格を鼻にかけた気取り屋たちのことは、好きになれそうにない。
モールパ公爵の次女テレーズは例外としても。
◇
約百五十年の長き眠りから目覚めたとき、ナタリーはモールパ公爵邸にいた。
寝ぼけまなこのナタリーが起き上がってみれば、煙立つような、むっとするほど強い芳香が鼻をかすめた。そして見渡す限りの黒薔薇。
香り高い大輪の黒薔薇が、部屋中を埋め尽くしていた。
これはいかにも、レオンのしわざね。ナタリーは苦笑いした。
黒薔薇が好きだと言ってから、レオンハルトは何かというと黒薔薇ばかりナタリーに贈った。
ナタリーが欲しがるものといえば、馬具や剣、軽装鎧といった、無骨なものばかりだったので、レオンハルトがナタリーへとロマンティックな贈り物をしたいと思えば、黒薔薇以外によい案が浮かばなかったのだ。
だがしかし、ナタリーはすぐさま全身をこわばらせた。
違う。レオンじゃない。レオンハルトじゃない。
だってレオンハルトが、ここには、いない。
『レオンハルトが、この世に存在しない』
全身を巡る血が、レオンハルトの不在をナタリーに知らせていた。
ナタリーは布団をはねのけ飛び上がり、部屋の出口へと走った。扉に鍵はかかっていなかった。
解き放たれた扉によって、濃く甘い薔薇の芳香が回廊へと流れていった。目に見えるかと錯覚するほどに凝縮された薔薇の香り。
ナタリーが部屋から飛び出すと、回廊を行き交う使用人の一人が悲鳴を上げた。一人が声を上げれば、回廊はまるっきり混乱に支配された。
狂ったような怒声が回廊を飛び交うのを構わず、ナタリーは一つの窓に狙いを定めた。
――あそこから飛び降りよう。
ナタリーが窓枠に手をかけ、足をかけようとした、そのとき。
男の手が眼前に伸びてきて、ナタリーの肩をつかんだ。
細く筋張って、あまり力強くは見えない手。そして気取った絹の手袋に包まれていない、むき出しの男の手だった。
尻もちをついたナタリーに黒い人影が落ちる。
男の手が差し出され、彼はよく聞き取れない言葉で、ナタリーに語りかけた。「ナタリー」と自身の名を呼ばれたことだけは、どうにかわかった。
ナタリーが見上げるとそこには、神経質そうな細面の、壮年の男が立っていた。
彼こそが現モールパ公爵ユーグそのひとだった。
モールパ公爵は義務的な手つきで、ナタリーの手を取り、もう片方の手でナタリーの背を支えた。
ナタリーが立ち上がると、彼は近くにいた使用人へと何事かを言いつけた。
おろおろと困惑した様子で、主とナタリーのやり取りを眺めていた使用人は、手持無沙汰を解消されたことに喜んだ。彼はうきうきと楽しそうに、ナタリーを別室へと連れていき、そこでナタリーは身支度を整えさせられた。
下着姿になって、ナタリーは気がついた。
己の身体に、ひとつの傷跡もないことに。
数多あったはずの古傷、戦傷だけではない。
目覚める前の、ナタリーが持つ最後の記憶とも、まったく異なっている。
「いったい、ここはどこなの」
ナタリーは思わずつぶやいた。
記憶が確かならば、ナタリーは鎖骨の下と両手首、太ももと両足首に杭を打たれ、磔にされていたはずだった。
産まれてくる腹の子のために。汚れた悪しき血を体外に排出させるためなのだと。
そう言って、あの蛇男はナタリーの肌に刃を走らせた。
そのたびに赤い一本線がナタリーの白い肌に浮かびあがった。
その数が数えきれないほどになると、血まみれのナイフをナタリーの鼻先につきつけ、蛇はニタリと笑った。
「これは瀉血といって、異国でもてはやされている医療技術なのですよ」
ヴリリエール公爵アンリは、ナタリーにそううそぶいた。
「我が国の医療は、オルレアン侯が独り占めしているために、アタシにはその造詣がありませんのでね。ですからこうして、昔ながらの理容師がごとく。ええ、異国においては、流行であるらしい医術でもって、あなたに尽くしているというわけです」




