66 愚者の狂宴(3)
「陛下。眠りをさまたげられ、充分ではないでしょう」
オルレアン侯爵は王ヨーハンをたしなめた。
「そのうえ怪我まで負っておられる」
ヨーハンはオルレアン侯爵のマントをつかんだ。
主従の視線が交わる。
まぶたが垂れ下がった奥にある、王の琥珀色の瞳。いつになく強い意志の宿った王のまなざし。
荒い呼吸を繰り返す王は、まなざしで訴えかけていた。
肥満の王からは久しく感じられなかった、フランクベルト王としてあるべき獅子らしさだ。肥満の暗愚王の内にも、たしかに獅子王が息づいている。
オルレアン侯爵はここにきてようやく、現王ヨーハンに獅子王を見ることができた。
「しばし待て」
ヨーハンは絞り出すように言った。
「承知しました」
オルレアン侯爵はしぶしぶうなずいた。
血だまりに浸って重量を増したマントが鬱陶しいのか、オルレアン侯爵は立ち上がりざま、前方に垂れたマントをぞんざいな手つきで払った。
対して王ヨーハンのマントは、オルレアン侯爵のマントとは比にならぬ量の血を吸っていた。
濡れそぼり、赤い滴が垂れる黒褐色の毛皮。赤黒いまだら模様が浮かぶ、黄金のビロード。
窓から差し込む青白い月明かりや、部屋に集うひとびとの掲げる松明や手燭の炎が、手負い獅子を照らした。
オルレアン侯爵が王ヨーハンを支える格好で、背後に控えた。
ヨーハンは目を閉じた。
不規則な呼吸を規則にのせようと、眉根をきつく寄せる。すこしずつ息が整い始め、ヨーハンは最後に大きく、そして慎重に息を吐き出した。
王ヨーハンの、獅子のような金茶の双眸がふたたび開かれた。
皮膚がたるみ、血の気が失せ、疲れきった王の顔。それがいつもの、肥満の暗愚王らしい、卑しげな厚顔に戻った。
「マリー」
ヨーハンは己の正妃を呼んだ。
「おまえが余の妻であるならば、余を労わる言葉をかけぬか」
「労わるですって……?」
マリーは顔をあげた。
涙で頬を濡らすマリーは、この世の憎悪すべてを身に宿したかのような、おそろしい形相をしていた。
「ヨーハン! おまえとの約束を、私は守ったではないの!」
マリーはキンキンと高く裏返った声で、夫ヨーハンを糾弾した。
「厭わしいおまえにふたたび身体を許し、おまえの息子を産み、トリトンには二度と会わず。そしておまえの指示するがままに、あちこちに出向いた!」
荒ぶる正妃マリーの口から繰り出される罵倒を聞き、宮廷事情に疎い下級の廷臣や兵士らは騒然となった。
大国フランクベルトの王であり、法が認める夫であるヨーハンへの不敬、不義不忠。夫婦間で起こったのかもしれない不穏な過去や密計、その暴露とも受け取れる示唆。
兵士らは慌てて視線をあちこちにやってみたものの、直系王族や上級顧問たる七忠、彼らに近しい扈従といった国の中枢を担う貴顕の面々に、動じる気配はなかった。
「それなのに! この始末はどういうことなの!」
死した恋人トリトンの首を抱えたまま、マリーは髪を振り乱して叫んだ。
「卑しくも王であるおまえが、言を食むなど! おまえの誠はどこにある!」
「売女め。誠だと?」
ヨーハンは腹をおさえ、苦しげに血とツバを吐いた。
「この期に及んで、余がおまえに誠を捧げるとでも? そうとも、余はおまえを愛した。だがその分だけ、おまえを憎んだ」
ヨーハンとマリーの夫婦は互いの憎悪をぶつけ合い、しばらく睨み合った。
奇妙な静寂のあと、先にマリーが崩れ落ちた。トリトンの首を抱えてうずくまり、嗚咽をもらすばかりになった。
ごぽごぽという不穏な水音のまじる咳き込みのあと、ヨーハンは側妃カトリーヌへ声をかけた。
「カトリーヌ、おまえにはすまぬことをした」
カトリーヌを始め、ルードルフにハンス、フィーリプの母子は驚愕におののいた。
衆目のある場で、王ヨーハンが彼ら母子の存在を気に留めることは、これまでほとんどなかった。
故意に無視をしているというふうではなく、声をかける必要がないからといったようでもなく、王ヨーハンの目には彼ら母子の姿が実際にうつっていないのだと、彼らは感じていた。
それにも関わらず、誰もが王ヨーハンの挙動を注視するこの場で、王ヨーハンは声をかけるだけに終わらず、なんと謝罪まで口にしたのだ。
「余の愛は、残らずマリーにくれてしまった。ゆえに、おまえへと愛を捧げることはできない」
「存じております」
カトリーヌは震える声で言った。
「それでよろしいのです、ヨーハン王陛下。このカトリーヌは陛下の忠実な臣下でございます。陛下へと誠の愛を捧げております。それが許されるだけで満足にございます」
そこまで言うと、カトリーヌは顔を覆い、わっと泣き出した。
「見返りは求めておりませぬ……っ!」
「そうか。おまえはよい女であったな」
ヨーハンは血まみれの口を歪め、笑おうとした。
「おまえには愛の代わりに、余の生命をやろう」
「陛下、そのようなことを口にされるのは――」
オルレアン侯爵がすかさず口をはさんだ。
「控えよ! 梟」
ヨーハンは一喝した。
「夫婦の会話に、立ち入ることは許さぬ」
「さあ、カトリーヌ、ちこう寄れ」
王ヨーハンが側妃カトリーヌを手招きした。
夜着にガウンを羽織っただけの、心もとなさそうに寄り添う母子。
王の側に寄ることを許され、カトリーヌはおずおずと前に進み出た。
長兄ルードルフが足元のおぼつかない母カトリーヌを支え、その後ろを次兄ハンス、末弟フィーリプが続いた。
ヨーハンの傷を癒そうと努めていたオルレアン侯爵は、戸惑い顔でカトリーヌを見上げた。
「む」
ヨーハンは自身を抱えたまま、離れる様子のないオルレアン侯爵へと、力なく手を払った。
「下がれ、梟。それから余の王笏をここに持て」
「はいはい」
オルレアン侯爵は反論を諦めて答えた。
王ヨーハンの身体を支えやすいよう、オルレアン侯爵は側妃カトリーヌへと、ゆっくり預けた。
それからこの騒乱のために、行方の見当たらない王笏を探し始めた。
オルレアン侯爵に命じられた兵士らも、さまざまな品々が破壊され遺体の散乱する部屋で、王笏捜索に着手した。
ルードルフは母の肩を支えながらもう一方の手で手燭を持ち、父と母を照らした。
ルードルフは不思議な心地だった。これほどの満足を味わったことはないような気がした。
両親が仲睦まじく寄り添う姿を見るのは、初めてのことだった。この瞬間がいつまでも留まり続ければいい。
だが父ヨーハンは明らかに深手を負っていた。
父自身もまた、「生命をやる」と母に言った。父の残り時間は、そう長くないようだった。
それはルードルフにハンス、フィーリプ、それから母カトリーヌが企てた、父への裏切りのためにもたらされた悲劇であった。
ルードルフはもちろん知っていた。
しかし悲劇がもたらされたからこそ、父はようやく母の存在に気がつき、過去の所業を後悔したのかもしれない。
ついに兵士のひとりが王笏を見つけ出し、オルレアン侯爵の手に渡った。
兵士からオルレアン侯爵。オルレアン侯爵から王ヨーハンへ。
人を介して得た王笏を、王ヨーハンは握った。王笏が揺れ、先端の装飾にルードルフの持つ、手燭の炎がうつりこんだ。
獅子を象る黄金の装飾。獅子の目にはダイヤがはめこまれていて、まるで獅子に生命が宿ったかのように炎がゆらめく。
ヨーハンは王笏を支えに身を起こした。
「これまでの余の無情をどうか許してくれ」
カトリーヌから身を離し、向かい合う格好でヨーハンは言った。
「ヨーハン王陛下……!」
カトリーヌは震える手で、ヨーハンの頬へ手をのばした。
愛する夫が重症を負ったことへの不安。
愛する夫がついに、正妃マリーを差し置いて、自身を選んだことへの歓喜。
「おまえたちも」
ヨーハンはルードルフやハンス、フィーリプに声をかけた。
「悪かった」
「父上」
ぽつりとハンスがつぶやいた。
ルードルフは涙を流す母カトリーヌにほほえみかけ、ハンスは悔恨とも苦渋ともつかぬ表情を浮かべた。
フィーリプはすまし顔で、両親が抱き合い、兄二人が両親に寄り添うのを少し離れた場所で見守った。
「死の前に、許しを乞いたかった」
そう言うと、ヨーハンは王笏を振り上げた。
王笏の石突に炎がうつりこみ、流れ落ちた。
すかさずオルレアン侯爵がフィーリプの肩をつかみ、前に押し出した。フィーリプはよろけて体勢を崩した。オルレアン侯爵は舌打ちした。
カトリーヌ、ルードルフ、ハンス。三人の身体がつぎつぎに王笏で貫かれ、重なった。
ルードルフがつかんでいた手燭は絨毯の上を転がり、血だまりに沈んだ。じゅっという音を立て、火は消えた。
王笏は装飾された槍であった。
それを知るのは王笏の主たる王。それから上級顧問である建国の七忠。
獅子、鷲、蛇、梟、馬、蝶、蛙、豚。
八体の鳥獣虫。
八体の魔物。




