64 愚者の狂宴(1)
「陛下!」
勇ましい喧呼や、どおっという雪崩のような跫音、ガチャガチャと金属のぶつかり合う音が扉向こう、回廊から伝わってくる。
王宮中の騎士や兵が集結し、王の部屋目掛けて向かってくるのがわかった。
ヨーハンはもはや、満足に動けなかった。
トリトンはヨーハンの首を剣筋に捉えていた。
そのままトリトンが剣を振り下ろせば、ヨーハンの生命を奪えたはずだ。
だがトリトンは回廊へと振り返り、静かに剣を下ろした。
「とどめを刺さぬのか」
ヨーハンはトリトンを見上げた。
ヨーハンはトリトンに反論するのでも、すべてエノシガイオスの言葉を使った。己が発する言葉の最期となりうる、その間際まで。
回廊を走る男たちの声を聞き、トリトンはその事実に気がついた。
「すでに致命傷を負わせた」
トリトンは扉を睨めつけたまま答えた。
「加えて、その出血では、先はない」
「それもそうだ」
ヨーハンはうなずいた。
トリトンとヨーハンが黙して待ち受ける中、男たちは気勢を上げ、部屋へとなだれこもうとした。
だが狭い入り口で、武装した男たちが詰まる。
団子状態の集団から、まっさきに飛び出し、王ヨーハンを庇ったのは、近衛騎士団長。
ヨーハンは腹を抱え、うずくまっていた。
「国王陛下! ご無事ですか!」
団長はヨーハンに問いかけた。
「余が無事か、見ればわかるだろう」
ヨーハンは苦しそうに声を絞り出した。
団長は、王の意識が途絶えていないことに、ひとまず安堵した。
とはいえ、王が相当の出血をしていることは明らかだ。
歯が折れ、鼻も曲がっている。顔だけでも、刀傷は無数にある。
一方で身体は、血に濡れそぼった黒貂の長い毛が王の巨体に張りつき、惨状がはっきりとしない。
団長は注意深く、細部に目をやった。
王の左手は、親指以外のすべての指を失っていた。
「凶徒をおさえろ!」
「凶徒は何人いる!」
「ひとりだ!」
「なんだと? たったひとり?」
「エノシガイオスのトリトンだ!」
「油断するな!」
回廊から続々と、フランクベルト兵が続く。
彼らのわめき声に、トリトンは顔をしかめた。
フランクベルトの言葉は濁音が多い。滑らかなエノシガイオスの言葉を愛するトリトンには、耳障りで聞き苦しかった。
「魔物の言葉で、俺の名を軽々しく呼ぶな」
トリトンは向かってきた近衛騎士の脚を払った。
「名が汚れる」
そう言うが早いか、体勢を崩す近衛騎士の口に剣を突き刺した。
トリトンへと向かった近衛騎士のひとり目が、即座に斬り捨てられ、その反骨心から、男たちの士気が高まった。
幾人もの兵がトリトンへ向かっていく。
だがトリトンは、手にした聖剣がまるで稽古用の木剣であるかのように、軽々と操る。
重さを感じさせず、思いもかけない方向や角度で、兵の身体を貫き、斬り刻む。
部屋の入口付近という狭い空間が、トリトンに有利に働いた。
トリトンへと向かう兵は、扉によって人数が阻まれる。
ひとりずつ。多くても三人までしか、前に進めない。
トリトンは己に振り上げられる剣をさばき、次々に倒していった。
天井や床、暖炉。壁掛けや絨毯といった絹や毛の見事な織物。王の私室を彩る金細工、燭台、ガラス製品、陶器の香炉。豪勢な品々が飛び散る血に塗れた。
むせかえるような血の匂いが室内に充満する。
金属のぶつかり合う音はやまず、いっそう激しさを増す。
なにかが崩れ落ち、なにかが打ち壊され、なにかが引き裂かれ、なにかが失われていく破滅の音。怒号と絶叫。
とはいえ、多勢に無勢であった。
トリトンがガスコーニュ家の騎士を斬り刻んだところで、ガスコーニュ侯爵アルヌールがついに、トリトンの背後をとった。
「観念せよ」
ガスコーニュ侯爵は、トリトンの手から聖剣を叩き落とした。
たっぷりと血を吸った絨毯の上を、たいした音もたてずに聖剣が転がる。
ガスコーニュ侯爵の太い腕が、トリトンの首を締め上げた。
「さて」
ヨーハンは、ひゅうひゅうと苦しげな呼吸を整えた。
「トリトンを斬れ、アルヌール」
ヨーハンはフランクベルトの言葉で、ガスコーニュ侯爵に命じた。
「承知した」
ガスコーニュ侯爵はトリトンをおさえたまま、剣の鯉口を切った。
兵士らから「おおっ」という、歓喜の声があがった。
しかし。
「お待ちください」
メロヴィング公爵が慌てた様子で割り入った。
「それでは私刑となってしまいます。しかるべき法の裁きをなさねば」
「そ、そうです! 陛下!」
エヴルー伯爵も、メロヴィング公爵に加勢する。
「今ここでトリトン公子を斬ってしまえば、彼と引き換えに、エノシガイオス公国から保釈金を引き出すことができなくなります!」
「地位ある捕虜を裁きもなく、一方的に私刑にかければ、諸外国からの非難は免れない」
オルレアン侯爵も眉をひそめた。
「対立国はエノシガイオスだけに限らない。諸国が徒党を組んでは、やっかいなことになる」
上級顧問たる七忠の静止に、兵士らがざわついた。
王と、ガスコーニュ侯爵に捕らえられたトリトンと、七忠。彼らの間で、兵士らはせわしなく視線を走らせる。
「貴公ら、陛下のお言葉ぞ!」
ガスコーニュ侯爵が一喝する。
「うむ。馬よ、アルヌールよ。おまえに任せた」
ヨーハンはふたたび、ガスコーニュ侯爵を頼った。
「お役目、任された」
ガスコーニュ侯爵は応じると、ヨーハンを支える団長に視線をやった。
「そこの者、代われ」
「承知しました」
すばやく団長は立ち上がり、ガスコーニュ侯爵に代わってトリトンをおさえつけた。
トリトンは後ろ手を組まされると、縄で縛り上げられた。
手早いな。トリトンは感心した。
この者は戦場でもよく動けるだろう。そう思いついたところで、すぐに否定した。
斬り落としやすいよう、敵に己の首を突き出してまで考えることではない。
オルレアン侯爵はやれやれ、というように首を振り、ヨーハンのそばで膝をついた。
そしてじっくりとヨーハンの容態を確認しにかかった。
「よし」
ガスコーニュ侯爵はうなずき、剣を抜いた。
取り押さえられたトリトンの鼻先に、切っ先が突きつけられる。
よく研がれた白刃が、ギラリと光った。
「トリトン。敵将ながら、貴公については、正々堂々な戦いぶり、あっぱれな男だと感服しておった」
ガスコーニュ侯爵は落胆に嘆いた。
「にも関わらず、この醜態はなんだ。王の寝込みを襲うとは、卑怯者のなすことよ。最期に己の名を汚すとは」
「なんとでも言え」
トリトンは鼻で笑った。
彼はエノシガイオスの言葉で悪態をついたので、ガスコーニュ侯爵は正しく理解ができなかった。
しかし、覚悟を決めた男の様子から、ガスコーニュ侯爵もなんとはなしに意を汲んだ。
「遺す言葉はあるか」
武将としての情けで、ガスコーニュ侯爵がトリトンにたずねた。
「やれ、蛮人。もはや悔いはない」
トリトンは不適に笑い、ガスコーニュ侯爵を見上げた。
ガスコーニュ侯爵はうなずき、剣を振りかぶった。
「ゆくぞ」
ガスコーニュ侯爵とトリトンのやりとりに、衆目がつどう。
固唾をのんで見守る聴衆。血なまぐさい部屋が、いっときしんと静まり返る。
しかしそこで、どよめきが起こった。
入口付近で、ちょっとした騒ぎが起きたようだ。
武装した男たちをかきわけ、やってくる者があった。
王妃マリーだ。
「やめてぇえええええええええ!」
王妃マリーは、今ようやく王の私室へと辿り着き、入室できたようだった。
必死の形相で泣き叫ぶマリーをひと目見て、トリトンは笑った。
これ以上の満足はないというような、晴れ晴れとした、そして温かな愛情に溢れていた。
マリーの細く白い指が、トリトンへと伸ばされた。
「マリー、我が最愛」
頬を床にすりつけ、トリトンは歌うように言った。
マリーの手が宙をつかんだ。
そして、落ちた。




