63 二匹の獣
トリトンはヨーハンの頭を蹴り上げた。
「ぐあっ」
ヨーハンの頭から、王冠が外れ、床を転がる。
「建国王の聖剣に、建国王の冠か」
トリトンは長剣と王冠とを拾い上げる。
ヨーハンは激しく咳き込んだ。
よだれを垂らしてえずく醜悪な王を、トリトンは一瞥した。
「万物を切り裂き、奇跡をもたらす長剣」
トリトンは聖剣を握る一方で、冠については興味がなさそうに寝台へと放った。
「あらゆる妖術を防ぐ冠」
「なぜそれを」
ヨーハンは顔を上げた。
驚愕に満ちた、間抜けなヨーハンの顔。トリトンは無言で見下ろした。
浅慮な王子フィーリプは、敵国の英雄トリトンをいいように扱えることが嬉しいのか。
フランクベルトにしか存在しない魔法や魔術について、トリトンに高説をたれた。
フィーリプがトリトンに奪えと指示した冠と長剣の来歴。隠された銅板と、結界の楔としての役目など。子どもが喜びそうな、幼子のためのおとぎ話。
なにが誇らしいのか、フィーリプはそれらをトリトンに語ってみせた。
仮にそれらおとぎ話が真実であるならば、フランクベルト人であっても王族しか知らぬであろう、自国の機密に違いない。
それをフランクベルト王子であるフィーリプは、エノシガイオスの公子トリトンに気前よく披露した。
自身より名声ある者に対し、いっとき優位に立てる。そういった類の悦楽と爽快感に身を任せ、自国の機密を売る愚かな王子。
喜々として父を裏切り、父殺しをそそのかす、畜生にも劣る悪逆非道。
己の行いが己に返ってきたのだ。トリトンは、ヨーハンへの同情心を失った。
「だがしかし、来歴ある長剣も冠も、俺の槍を防ぐことはできなかったようだな」
トリトンは建国王の聖剣を振り上げた。
「では、由来を問わず、剣としての斬れ味はいかほどか」
ヨーハンはあわてて起き上がった。
しかし、遅い。
トリトンの剣が、ヨーハンの横腹をつらぬいた。
「ぐぅっ!」
脂肪で厚い腹から、剣が引き抜かれる。
ヨーハンは刺し傷を両手でおさえた。
ヨーハンのむくんだ指から、鮮血があふれる。強くおさえようとも止まらず、青い絨毯があっという間に赤く染まる。
青が、赤に。
トリトンはあえて、即座に意識を失うような急所を外した。
「ようやくだ……」
ゆらりとヨーハンの眼前に立つトリトン。
トリトンを見上げるヨーハンの顔に、影が差す。
窓からは月光が差し込んでいた。
青白い月光にさらされる男ふたり。
まるで、そこだけが舞台として切り抜かれたかのようだ。
月光に照らされたトリトンは、まちがいなく、喜色をたたえていた。
「憎き男を手にかけてやった」
血濡れた剣で、トリトンはヨーハンをすこしずつ斬り刻んでいく。
「すぐには楽にさせぬぞ」
「ぐっ」
刃を受けるたび、ヨーハンがうめく。
「は、はやく殺せ!」
「断る」
トリトンは吐き捨てた。
「満足を得たら、殺してやる。安心しろ」
おのれの手で、憎い男の生命を削っていく、たしかな感触。
トリトンはそれまで、自身が誇り高き武人であることに、疑いを持ったことはなかった。
自他ともに認める、高潔な英雄であった。
しかし。
痛みもなく、一瞬のうちに楽にさせてやるには、ヨーハンへの憎悪があまりに深く、強大に過ぎた。
「ぐぅぅ……っ! 戦狂いの野蛮人が……っ!」
ヨーハンが苦しそうに吼える。
「貴様ら武人が、高潔であるものか! ただの人殺しに過ぎぬわ!」
「避けられたはずの無益な争いを、君主みずから扇動したのは、おまえだろう、ヨーハン」
トリトンは表情を変えずに言葉を返した。
「おまえが先代フランクベルト王に謀反を起こさねば、我がエノシガイオスと貴様のフランクベルトは、講和できたはずであった」
トリトンがすばやく剣を振るう。ヨーハンの指が二本飛んだ。
「我が最愛の女を奪い、我が民を殺した悪逆の王」
トリトンの剣は休まることなく、脂肪で覆われた醜い男の身体から、鮮血を飛び散らせる。
「人殺しはおまえだ」
「詭弁よ! 人をその手で殺める体感こそに、愉悦を得る獣めが!」
ヨーハンは、トリトンの剣をかわそうと身をよじる。
だが、逃げたその先を、待っていたとばかりに、トリトンが狙いをつけ、斬る。
「あが……っ!」
傷をかばうようにヨーハンが身を縮めると、トリトンは手を止めた。
「獣はおまえだろう?」
トリトンは首を傾げた。
「フランクベルト王は獅子なのだと、かつてマリーから聞いたことがある。たかだか獣に過ぎぬものを」
「獣に獣呼ばわりされるとはな」
ヨーハンは赤い血と脂汗を流し、憎々しげにトリトンを睨んだ。
「笑えぬ冗談よ」
ほう。意外にも気骨がある。
トリトンはヨーハンの返答から、敵がこれまで考えていたほど、暗愚な臆病者ではないと認識を改めた。
対話できる程度の知能はある。
ならば。
「笑えぬ冗談といえば、貴様らは自身を神であると驕っているそうだな?」
トリトンは嘲笑した。
「それを誰から聞いた」
ヨーハンは驚愕して言った。
「マリーだ」
トリトンは一歩前へと足を踏み出した。
ヨーハンの手で、トリトンとマリーの恋が引き裂かれたとき。
マリーは絶望と怒りで、ヨーハンの父殺しをトリトンに告白した。そしてまた、相手が恋人であってさえも、マリーがそれまで決して打ち明けることのなかった、ヨーハンの呪いについても。
「マリーと俺の間に、明かせぬ秘密は存在しない」
トリトンは、すでに血まみれの鼻を蹴った。
「たとえそれが、マリーの国の、その重大な秘匿事項であろうと」
父殺しなどという魔物のような男を、死の間際で最も苦しめるのは、妾腹の息子の裏切りではない。
建国王の聖剣とやらの、この長剣でもない。
マリーだ。
「神を気取る、愚かで下賤な獅子よ」
トリトンがヨーハンを見下ろす。
「神は神でも、おまえは疫病を撒き散らす死神だそうだな。なんと汚らわしく、呪われた王であることか」
「マリーが余を死神と……?」
ヨーハンは絶望に満ちた顔で、トリトンを見上げた。
「このあたりでよいか」
トリトンは剣を払った。
剣先に付着した血が、勢いよく払われる。
青い絨毯に赤い血が飛び散り、青が赤に染まる。
「我が最愛の女を奪い、我が民を殺した悪逆の王ヨーハンに報いを!」
最後の一振り。トリトンは剣を高く振り上げた。
血濡れた剣の、白刃の露出した部分が月光を受けてギラリと光った。




