11 風呂場の親子
呆然と立ち竦むレオンに、ナタリーは首を傾げた。
驚くようなことではあったかもしれない。だが気のせいか、レオンの顔は青ざめているように見える。
「大事な資料を水で濡らしたりはしないわよ?」
「いや、それは……。ええ、そうしてもらえると助かります」
歯切れの悪いレオンに、ナタリーは尚も不可解に思う。
それほどに風呂を設けるのが嫌なのか。
それとも溺れたことがあるとかなにか、大量の水に忌避感があるのだろうか。
「何か気に障ることがあった?」
「いえ、ありません」
取り付く島もなく言葉を返すくせに、未だ顔を強張らせているレオン。ナタリーは眉を顰めた。
レオンがそういう態度をとるのなら、こちらにも考えがある。
ナタリーは渦巻く水流を操ることにした。
「そう。じゃあ一緒に遊びましょっ!」
言うが早いか。
ナタリーはレオンの鼻先目掛けて、金貨ほどの太さの水流を勢いよくけしかけた。
「うわっ!」
驚いて仰け反るレオン。
「まだまだよ!」
ナタリーはコロコロと上機嫌で笑った。
今度はレオンの体をぐるぐるとトグロを巻くようにして、水圧を抑えながら操っていく。
「ほら、これでどう!」
ナタリーがパチン、と指を鳴らす。
大きく渦巻いていた大量の水が消える。
レオンの体を渦巻いていた水流だけが残された。
そしてその水流の統制も解かれ、水の縄に縛られた形のレオンは、頭から全身びしょ濡れになる。
不思議と足場は濡れていない。
レオンの体からボタボタと水が床に落ちる前に、その水が消えてしまう。
びしょ濡れになったレオンを見て、ジャックがきゃっきゃと声を上げて喜んだ。
「……やってくれますね」
濡れた栗色の髪をかき上げ、レオンはナタリーを見上げた。
レオンの額には、幾筋もの水が滴っていてる。
垂れた雫が目に伝わって入ってくるものだから、開けたり閉じたりと忙しない。
「あら、色男になったわ」
ナタリーは揶揄うように手を叩いた。
レオンは濡れた前髪を両手で後ろに撫で付け、嘆息した。
「ご希望通り、風呂場を作りますよ」
「そうこなくっちゃ!」
ナタリーは紅い唇をつりあげて、ニンマリと笑った。
◇
――ジャックの裏切り者。
レオンはじとっと暗く陰気な目でナタリーとジャックの二人組を一瞥した。
ナタリーがジャックの脇腹をくすぐり、ジャックがキャッキャと声を上げる。
微笑ましい光景だ。
一方でレオンは、額に汗を流し、慣れない力仕事に従事している。
それも今日一日の診療を終えて、疲れ切った体に鞭を打って。
レオンは只今、風呂場の制作に取り組んでいた。
ナタリーに用命された風呂桶と湯桶に風呂椅子。手拭を掛ける梯子、風呂から上がった濡れた体の足場とする簀子。
そしてそれらを設置する小屋。
風呂小屋を建てながら、きゃっきゃと遊ぶジャックとナタリーを見る。
まったく、いい気なものだ。
結局ナタリーは毎日の水汲みの労は不要だと言ったが、風呂場の構築には一切手を貸してくれなかった。
「魔法で水を出せるのは、水の成り立ちを知っているからよ。空気中から水の素を取り出して構成させているの。でも風呂桶や建物をどう組んだらいいのかはわからない」
ナタリーの口ぶりは、そんなことは知っていて当然の常識でしょう、とでも言いたげだった。
「あなたが木材なり煉瓦なりを持ってきてくれるなら、なんとなく見様見真似で組むことは出来るけど。すぐに崩れ落ちることは確実ね」
それならば足場をレオンが作り、いくらか組んでみせるから、続きを魔法で同じように組んでいってほしい、と訴えた。
だがナタリーは頷かない。
レオンの作業をじっと眺めているのは退屈だし、その間ジャックの面倒を見ている大人がいなくなる、と。
ナタリーが居座るようになってから、村の娘にジャックの子守りを頼むのをやめていた。
だから結局レオンが全て担うことになった。
うまく丸め込まれた気がして、釈然としない。
しかし、これでジャックと一緒に入浴できると微笑むナタリーを目にすると、レオンは何も言えなかった。
それはまるで、レオンが幼少の砌からずっと焦がれていた、母と子の交流そのもののように思えたのだ。
そうして苦労して、レオンはようやく風呂場を作り上げた。
その日は診療に訪れる者がいなく、朝から風呂場の仕上げに取り掛かっていた。
レオンが風呂が出来たと告げると、ナタリーは嬌声を挙げて喜んだ。
まだ日も高い昼間だというのに、ジャックと入浴すると言い出す。
これにはレオンも焦った。
これから診察に訪れる患者がいないとも限らない。
もしナタリーとジャックが入浴している最中に、村の者が駆け込んできたら。
そう思うと、レオンは到底頷けなかった。何を言われるか、わかったものじゃない。
しかしナタリーは、そんなレオンに今更だと言う。
「何を言っているの。あたしがここに住んでいる時点で、村の人はあたしのことを押しかけ女房だと思っているわよ」
レオンは言葉に詰まった。
それはそうなのだろう。
だがしかし。
村の人間の目の前で、建物の中とはいえ、ナタリーとジャックが親子のように風呂に浸かる様子を示すのは、違うと思うのだ。
それにだ。
レオンの建てた不格好な小屋で、視覚は遮られる。
けれども、声や水音は、確実に漏れる。
そう伝えると、魔法で防音するから気にするなという。
音を遮ることが出来るなんて、ナタリーの言い分を聞くなら、ナタリーは音の成り立ちも知っているということだ。
「あなたは音の成り立ちまで知っているんですか?」
興味深々でレオンはナタリーにたずねた。
「そんなの知ってるわけないじゃない」
ナタリーはしれっと言い放った。
「はい?」
レオンは目を見開いた。
呆然とするレオンを前に、ナタリーは平然として言葉を重ねる。
「あら、水の成り立ち云々を信じてたの?」
「…………はい」
苦虫を噛みつぶしたような顔になるレオン。
「あたしは学者だったことはないし、百五十年前の人間だけど、百五十年も生きてきたわけじゃないわ」
ナタリーは薄く笑った。
「実際あたしの記憶は見た目通りの年齢分しかないわよ」
つまり風呂場を作ることに協力しなかったのは、面倒だっただけなんだな、とレオンはため息をついた。
「あなたの事情は知りませんが、今後はもう少し協力してください」
「気が向いたらね」
なんとか怒りを腹に収めたレオンを、誰か褒めてやってほしい。
◇
きゃっきゃと風呂から楽し気な笑い声が響く。
レオンはその笑い声に微笑んだ。
「のぞかないでよ!」
ばしゃり、という水音と共に、ナタリーから愉し気で揶揄うような声が飛んでくる。
――誰がのぞくか! 約150年前の魔女なんか!
レオンは胸中で悪態をつく。
けれどこんな生活も悪くないと思い始めていた。
いや、少しずつナタリーに惹かれ始めていることにも気が付いている。
とはいえ、レオンはそれを認めたくなかった。
自分はレオンハルトではないし、ナタリーのお腹の子の父親でもない。
ナタリーは妊娠しているらしいこともあり、レオンにあからさまな色を仕掛けてくることはなかった。
けれど二人の距離を縮めようと努めていることは、レオンも感付いている。
レオンは知らぬ振りを貫いていた。
頑なに線を引こうとするレオンに、ナタリーは呆れながらも、友人として仲良くしようと提案する。
ただの居候だろう、と突き放すレオン。
前世のよしみで、とナタリーは言う。
だがレオンは、その前世とやらが受け入れがたいのだ。
レオンはどうしたってレオンハルトではない。
ナタリーがレオンにレオンハルトを重ねているだけだと思えば思うほど、レオンは頑なになっていった。
一方でナタリーは、少しずつ大きくなるお腹を抱え、幸福を感じていた。
レオンをからかいながら過ぎていく日々。
レオンに前世を全て思い出してほしいとは、もう思っていない。
ここに来た当初は、忘れ去られていたことが悲しかったし、怒りも感じた。
ナタリーはレオンハルトの我儘によって約百五十年の眠りに閉じ込められたのだ。
それなのに、目覚めてみればレオンハルトは既にこの世を去り、ナタリーのために生まれ変わってこの世に生を受けた筈のレオンは、前世をすっかり忘れ、それだけでなく前世を否定する。
腹立たしくて哀しくて。
レオンの手前、自由気ままに振舞いながらも、ナタリーは絶望に似た虚無感の中、取り残された気がした。
けれどナタリーと供に眠りについていたお腹の子が、レオンハルトの忘れ形見であること。
それからレオンの義弟のジャックが、ナタリーに懐いてくれたこと。
それらが、ナタリーのささくれた心を癒した。
ナタリーは改めて、レオンと向き合ってみることにした。
レオンはレオンハルトの生まれ変わりだというだけではなかった。
レオンという一人の人間として生きてきた、別の人生を辿ってきた、レオンハルトとは異なる一人の男なのだと納得した。
ナタリーにはもう、レオンに百五十年前のあれこれを押し付けるつもりはない。
それだからナタリーは、言葉にはしなかった。
ジャックは、かつての息子の生まれ変わりだ。
初めてジャックを目にしたときは、レオンが他の女に産ませた子かと、悋気を起こしかけた。
だがすぐに気がついた。
ジャックが現キャンベル辺境伯家の祖先の生まれ変わりであると。
レオンハルトとナタリーの間に生まれ、後のキャンベル辺境伯となった、我が子。
ジャックまで生まれ変わらせ、またレオンハルトの生まれ変わりであるレオンの側に生を受けるよう差配したのが、かつてのレオンハルトの意図だったのか。
それは、ナタリーだけが知っていればいい。




