61 持てる者と持たざる者(1)
敵国フランクベルトの君主ヨーハン。その私室。
そこにはフランクベルト人曰く、国内で唯一だという結界がほどこされていた。らしい。
だがその厳重なる結界とやらは、子供騙しのらくがきのような、奇妙な紋様が彫られた銅板に傷をつけるだけで、あっけなく打ち砕かれた。
気味の悪い青い光があたりを覆ったかと思うと、フランクベルト王の私室はみずからその扉を開いた。
解錠のために扉を破壊する必要がないどころか、扉の取っ手に触れるまでもなかった。
「彼らの忠告に従ってはみたが」
トリトンは嘆息した。
「事実、子供騙しではないか」
身構えてさえいなかったのだから、拍子抜けするということでもない。
だが、呆れた。
王の私室を護っていた衛兵の亡骸を一瞥し、トリトンは同情した。これではこの者たちも浮かばれぬ。
子供騙しの手品ごときをありがたがる、愚かな王を護るために、彼らは死んだ。
最後の一人はとくに、人間と同じ赤い血をその身に流し、それなりに気概のある戦士だった。
貴君らの命、無駄にはせぬ。トリトンは衛兵から奪った槍をかまえた。
扉が完全に開かれる。
目に飛び込んできたのは、黄金と黒褐色。
真の威厳を持たざる者が持てる者を装うための、けばけばしい偽り。その色彩。
よくよく見れば、肥満の王が羽織るマントだった。
生涯の敵である肥満王は、トリトンを睨めつけていた。
脂汗を流し、震える手で長剣を構える。
虚勢を張るハリボテの王。その手にはマント同様、威厳を偽るためだけの、いかにも来歴のありそうな長剣。
だが肥満王の両手は、剣の重さと眼前にせまる恐怖とに耐えかね、今にも下ろされそうだ。
肥満王がみじめに膝をつくまで、そう時間はかからないように思われた。敵と見なすにはあまりに哀れな姿だ。
「久方ぶりだな、ヨーハン」
トリトンは槍の穂先をヨーハンにつきつけ、エノシガイオスの言葉で言った。
だがトリトンの胸に、同情心がわき始めていた。
自業自得とはいえ、好色で道を誤った肥満王は、己の妻だけでなく、彼の血を分けた息子にまで裏切られたのだ。
息子。
一方、トリトンにとってただひとりの息子メリケルテス。
彼の息子は故郷エノシガイオスへと逃した。
ひっそりとマリーが産み、トリトンの手元で育てられた息子メリケルテス。
戦場を知るまでの息子は、ひよわな少年だった。
武勇を尊ぶ、強大なエノシガイオス公国を背負うには、あまりに惰弱。
トリトンは息子を世嗣として公表することに躊躇いがあった。
しかしトリトンが息子メリケルテスへ、伝令兵としての使命を託したとき。
別れ際の息子の目つきや口ぶりには、エノシガイオスの血脈が流れることが、はっきりと表れていた。
あれなら心配はいらぬ。トリトンは息子メリケルテスの将来から杞憂を取り払った。
俺が死んでも、のちのことは親父殿がうまく取り計らってくれるだろう。
息子を逃し、捕虜となったトリトンだったが、彼はフランクベルトの王都まで連行され、しまいには西の塔に幽閉された。
フランクベルトにとって敵国の将である捕虜トリトンは、輝かしい勝利の証。
いずれ釈放はされるだろうが、彼の釈放の対価として、エノシガイオス公国が払う犠牲はいかほどか。自国に勝利を齎すどころか、自国の足枷となってしまった。
保釈金とひきかえに、エノシガイオスへと戻るのだろう。
――敵の恩情を期待せねばならぬほど、俺は落ちぶれたのか。
自国の兵。それも彼が目をかけ育成した兵を、あれ以上いたずらに失うわけにはいかなかった。
彼の護るトライデントの地を、あのまま荒廃に任せるわけにはいかなかった。
一時の降伏は、やむをえなかった。
だが捕虜となることは、明確な屈辱だった。
幽閉された塔で、鬱屈とした日々を送るトリトンの前に、ひとりの男が現れた。
トリトンの死を運ぶ男。
だがトリトンの切望をもまた叶える男。
トリトンを王宮まで直接手引きしたのは、彼につけられたフランクベルト人の理容師だった。
だが一介の理容師が、わざわざ敵国エノシガイオスの公子であるトリトンに肩入れする必要があるだろうか。
たとえトリトンの名が、敵味方問わず、英雄として知れ渡っているとしてもだ。
英雄トリトンへの熱狂的な崇拝が、自国の危機となる背信行為にまで走らせるだろうか。
そんなはずはない。
もちろん、その裏には別の人間がいた。相応の意図があった。
フランクベルトの主王宮へとひそかに導かれ、トリトンが最初に面通しされたのは、フランクベルト王国の正統なる王子二人。
リシュリューの血を引く、愛しいマリーの息子ジークフリートやレオンハルトとは、まったく異なる面差しの青年たちだった。
彼らはハンスにフィーリプと名乗った。




