60 獅子王と冥界の男神
襲撃者と衛兵が斬り結ぶ金属音に、何かが床や壁にぶつかる衝撃音、絶叫。
扉を隔てた向こうでは、戦闘が続いている。
ヨーハンは寝台に身を横たえたまま、いくつも重ねられた枕のその下へと手を入れた。
隠し入れていたダガーを抜き取る。
ダガーは王が初めて手にしたとき以来、変わらぬ輝きを放っていた。
なにより、折れずに原型を留めていたことに、王は安堵した。
水鳥の羽毛がたっぷりと詰まった枕が、王の巨体から、ガラス製の繊細な刃を守ってくれたようだ。
「ありがとう、ヴィエルジュ」
ヨーハンはダガーの柄を握りしめた。
「我が友よ」
眼前にダガーをかざせば、透明なガラスの刃に青白い月光が滑り落ちた。
貿易で栄えるリシュリュー港には、さまざまな貿易船が行き交いする。
工芸品はとりわけ、芸術を尊ぶリシュリュー家が力を入れて取り扱う主力商品だ。
目下リシュリュー港一押しの品は、ガラス製のダガー。
実用性はともかく、芸術性において尊ばれ、貴賎問わず、人気が高い。
とはいえ、高度な技量を要する繊細なガラスダガーは高価で、とても一般庶民が手の出せるものではない。
それなりに資産のある貴族を除けば、市民のうちでも特権を有する者。
自治都市の市民議員や神学者、そのほか学士に商人など。裕福な者たちがこぞって買い求めた。
なかでもガラスの都ミルフィオリ産のダガーは希少品で、芸術性が非常に高い。
細い八角柱の、不純物のない透明なガラス棒を、精緻な金細工がぐるりと取り囲む。
七色の光を反射するガラスと、咲き誇る金の花々の対比は、言いようもなく美しい。
側妃カトリーヌの生家は、その細いガラス製のダガーを複数本、美しい芸術品として、大枚をはたいて購入したそうだ。
現王ヨーハンはある日、彼の妃カトリーヌから、その美しいダガーのうち、一振りを献上された。
カトリーヌはうやうやしく、「ヨーハン陛下の御身を護られる刀となりますよう」とヨーハンに差し出した。
頭を垂れながらも、側妃カトリーヌの瞳には、静かな狂気とともに油断ならない光が灯っていた。
正妃マリーの生家リシュリューから側妃カトリーヌの生家へと渡った、暗殺者のための美しきダガー。
「カトリーヌ、すまぬ」
ヨーハンはつぶやいた。
「ルードルフ、ハンス、フィーリプ。すまぬ」
ガラス製のダガーをふたたび枕下に差し込むと、ヨーハンはサイドテーブルへと手を伸ばした。
正妃マリーの好む、大海を隔てた東国より渡ってきた香炉が、ヨーハンの太い指先に触れた。
フランクベルト王ヨーハンがその国名を知らない、直接の国交がない、はるか遠国の品。
炭は消え、熱はとうに冷めていた。
香炉を満たす灰から香木を探る。
「おお、これか」
灰まみれの指で、ヨーハンは香木を抜き出した。
正妃マリーは不遇の側妃カトリーヌをよく気にかけていた。
マリーなりに、カトリーヌの哀れな境遇を気の毒に思っていたのだろう。
生家リシュリューから希少品を取り寄せ、カトリーヌへと贈り物をしていたようだった。
ヨーハンがつまむ香木は、彼が側妃カトリーヌの部屋で見つけ問いただした末に、同品をみずから取り寄せ、手に入れた品だ。
それが愛妻マリーからしばし香る匂いに、よく似ていたからだ。
夫ヨーハンから香炉の詳細を問われると、側妃カトリーヌは刹那、眉をひそめた。
だがすぐに、正妃マリーからの贈答品であると答えた。
王ヨーハンは王妃マリーから何かを贈られたことなど、ほとんどなかった。
「マリー。愛しき妻よ」
ヨーハンは鼻先に香木を当て、その香りをゆっくりと吸い込んだ。
「幼き頃のおまえは、鈍重な醜男の余へあってさえ優しく、慈愛に満ち。だがいまや、氷のように冷たい妻よ」
髭に灰が落ち、ヨーハンは咳き込んだ。
巨体が揺れ、寝台がぎしぎしと悲鳴を上げる。
手中の香木が、王の分厚い手のひらに刺さって折れた。
「心残りであったのは、おまえとの約束であった。だがこれで、おまえとの約束を果たせる。王は、次代の王は。レオンハルトに――おまえと余の、可愛いあの子に」
ヨーハンの目に、涙が盛り上がった。
目がくぼみ、衰え、疲れきったそのさまは、年齢以上に年老いて見える。
張りのない肌の上に、涙がひとすじ、弱弱しく流れた。
「余にトリトンのような美貌があれば。さすればマリー、おまえは、余を愛してくれたのだろうか」
ヨーハンはふたたび、目をつむる。
「だが、あのレオンハルトは、おまえと余の可愛い息子は、おまえの愛するトリトンのように、美しい少年となった」
扉の外が静かになった。
ヨーハンはゆっくりと身を起こした。
立ち上がって手のひらの香木に灰をはたき落とすと、衣装戸棚へ向かった。
戸棚を開けば、贅を凝らしたかずかずの衣装が、隙間なく詰められている。
ヨーハンはそれらを手でよけ、王のマントを取り出した。
ビロードと毛皮のマントは、建国王以来、数ある王たる象徴のひとつだ。
表地が黄金に輝くビロード。裏地には素晴らしい色艶と毛並みの、黒貂の毛皮が縫いつけられている。
王の大柄な体躯をすっかり覆うほどの、布量をたっぷりとった、黄金に黒褐色のマント。
ヨーハンは寝間着の上から、ビロードと毛皮のマントを羽織った。
見る者に獅子を思わせるよう、ヨーハンはマント姿で己の最期を迎えることにした。
「よかった、本当によかった」
ヨーハンはつぶやき、聖剣をしまう長持の前に立った。
「余の代わりに、あの子を愛してやっておくれ。マリー」
結界にひびが入ったのだろう。
寝台のサイドテーブルの上で、無造作に置かれた冠が青く発光している。
持ち主に危険を知らせるかのような、目がくらむほどの光だ。
長持からも同様に、青い光が漏れ出している。中には建国王の聖剣。
ヨーハンは建国王の冠を頭に載せた。それから聖剣をおざなりにかまえた。
建国王のマント、建国王の冠、建国王の聖剣。
建国王の青い血は、ない。
建国王の政治理念と、その意思も。
父王アルブレヒトとは反りが合わなかった。
父王は建国王を盲目的に崇めていた。
この国の多くのひとびとと同様に、過去にすがるばかりで、未来を見ようとしなかった。
そのくせ、エノシガイオスと足並みを揃えよう、などという、到底相容れぬだろう、不可能な講和を是とした。
エノシガイオス公国ほど強烈な優生思想を持ち、徹底した排他弾圧主義の国家は、他にないというのに。
建国王が生きた時代、たしかに建国王は成功した革命家であり、優れた統治者であったのだろう。
だが建国王が死んで、三百年近くが経った。
フランクベルト家の王は、ヨーハンが十代目だ。
初代と十代で、同じ政治構造を維持することの不自然さを、王がまっさきに気がつかねばならない。
民を幸福の元に先導するのが、君主の、王の役目であるはずだ。
大陸の平和を真に願うのならば、傲慢な支配者が民を搾取してはならない。
民や領邦の自由意志を育み、自立を支援せねば。
特権は廃棄せねばならない。
偉大なる建国王は、もはや過去の遺物に過ぎない。
咲き終わった花をそのままにしていては、養分がそちらにいってしまい、次の花が咲きにくくなる。
しおれた花弁から病気になったり、虫がついたりする。
見た目だって悪い。
バラも王権も、同じことだ。
ひとびとが建国王へ過度な理想を見続けるよう、国家全体でしつけている。
搾取構造の言い訳に都合がいいからだ。
建国王の理念をもちいて平和を騙る。このおぞましさを、ひとびとに自覚させねばならない。
暗愚王の死はきっと、王権を筆頭に、特権階級の愚かさをひとびとに知らしめるだろう。
それがヨーハンの、王としての最期の仕事だ。
「死神でよい」
ヨーハンは自嘲気味に笑った。
呪われた固有魔法から解放されてさえ、ヨーハンは最期まで死をまき散らす存在だ。
だが、獅子王としての、フランクベルト王国の神としての青い血は、ヨーハンから消え失せた。
今ならば、信仰を変えてもいいだろう。
「余は、冥界の男神だ」
ヨーハンは聖剣の切っ先を扉へ向けた。
聖剣は重い。
暴飲暴食で肥え太ったヨーハンでは、両手でかまえるのも腕がつらくて、すぐにおろしたくなる。
トライデントの戦では、まだ少年の王子レオンハルトが、聖剣と同じくらい重い長剣を操り、敵を斬り、戦っていたというのに。
「レオンハルトは、余の希望」
ヨーハンはぶるぶる震えながらも、聖剣をおろさずに耐えた。
扉が開く。
「ジークフリートは、余の――」
回廊の壁に掛けられた松明の炎が、ヨーハンの目に映る。
そして、赤と青の返り血を浴びた、美しく精悍なる野獣の姿が、すぐそこに。




