59 唯一の友(3)
沈黙を破ったのは、ヴィエルジュだった。
「アンリの予見ですが」
ヴィエルジュがヨーハンを見据える。
ヨーハンはわずかに身じろぎした。
「一族魔法をしぼるようなことは、できないのですか?」
ヴィエルジュは珍しく遠慮がちに、おずおずとたずねた。
「以前にも言ったが」
ヨーハンは安堵したのか、ほうっと息を吐きだした。
「魔法や魔術の供給は、呼吸のようなものだ。各々へと繋がれる脈そのものや、出力等、すべてが無意識下に為すことができ、しかし意識しようとすれば、律することもできる」
ヨーハンがヴィエルジュをちらりと見れば、ヴィエルジュはうなずいた。
「だが、一度許可してしまったものについて、常時意識化に置き続けることはできない」
ヨーハンは惨めに言った。
「余にはそれほどまでの、獅子王としての器はないのだ」
「以前のヨーハンは、鼓動のようだと言っていましたよ」
ヴィエルジュはヨーハンを慰めた。
「『心臓が脈を打つ。その感覚はわかるが、鼓動を制御し管理することはできない。それと同じことだ』とね。当時に比べ、獅子王としてふるまうことに慣れたのではないですか」
「覚えていたのか」
ヨーハンは目を丸くした。
「慣れた、か。そうだな。慣れたのかもしれぬ」
目を伏せ、自嘲気味に笑う王の姿は、あきらかに疲労していた。
「獅子王であることを嫌悪しながらも、あなたがあなた自身の出自や血脈から、逃れることはできない」
ヴィエルジュはリシュリュー産のワインが注がれた杯へと、視線を落とした。
「ヨーハンの矛盾は、私も多少はわかる気がします」
「ああ、そうか」
ヨーハンは顔を上げ、力なく笑った。
「おまえも、エノシガイオスを疎んじていたな」
ヴィエルジュは答えず、杯を一気に煽った。
荒々しく杯をテーブルに叩きつける。
「そうです」
苛立ちを隠さず、ヴィエルジュは口元をぬぐった。
「私のリシュリューの血脈は、エノシガイオスに通じている。この上なく、腹立たしいことに」
ヨーハンは黙って友を見守った。
信頼すべき友である臣下ヴィエルジュの愚痴に、王みずからがつきあう。初めてのことではない。
「慰み者のような哀れな存在を、いまだ宮廷に置くような文化に、親しみと敬意を払えるはずがない」
ヴィエルジュは嫌悪あらわに、吐き捨てた。
「そのうえ、美しい芸術、歴史ある文化や思想、信仰に慣習、言語。それから社会制度や秩序、技術といった、すべての文明について、己と異なるものを尊重しないどころか弾圧する。ありとあらゆる異分子すべてを、刈り取り、馬鍬で地ならしし、エノシガイオスという種子をばら撒いていく」
ヴィエルジュの碧い瞳に、燭台の炎が映り込む。
彼の瞳の中の炎は、彼の胸中で絶えることのない憎悪とともに、燃え上がった。
「エノシガイオスとは、悪逆非道な破壊者。残忍な侵略者にほかならない」
ほほえみや冗談で本心を隠すことなく、ヴィエルジュは断言した。
ヨーハンは何も言わなかった。
ヴィエルジュは吐露を終え、肩をすくめた。
「さて。ヨーハンの頼みとはなんでしょうか」
ヴィエルジュは、彼特有の軽薄な笑みを浮かべた。
ヨーハンはヴィエルジュの変わり身に、目を細めた。
「これは内密の話なのだが」
ヨーハンが前置きする。
「はいはい。他言はしませんよ」
ヴィエルジュはヨーハンをあしらうように、おざなりに手を振った。
ヨーハンが、むぅと顔をしかめる。
ヴィエルジュは肩をすくめ、「とにかく飲んでください」とヨーハンに杯をすすめた。
「まだひと口も飲んでいないでしょう」
「うむ。まあ、そうだな。いただくとしよう」
ヨーハンは顔をしかめつつも、ワインを舐めた。
「これはまた旨いな」
驚嘆と歓喜でほころぶヨーハンの面持ちに、ヴィエルジュがうなずく。
「それはそうでしょう。ヨーハンのために、とくべつ出来のいいワインを選んだのですから」
ヴィエルジュもまた、手酌で杯にワインを注いだ。
「そうそう、それで、内密の話とやらについてだがな」
ヨーハンはうきうきとした様子で、杯を傾ける。
「暗愚王ヨーハンはどうやら、小心ゆえに、王の私室の結界に不安心を抱くらしいぞ」
「暗愚王の小心ぶりは、いまさら言及するほどのことではないでしょうに」
ヴィエルジュは首を傾げた。
それまで上機嫌でワインの風味を楽しんでいたヨーハンだったが、静かに杯をテーブルに置いた。
しんと静かになる。
かと思うと、ヨーハンは勢いよく杯を煽った。
切り出しにくいことの景気づけに、幼馴染が酒の力に頼ることを、ヴィエルジュはよく知っていた。
幼馴染同士、ときおり癖が似てくる。
「なにかまた、面倒を持ち込まれたようですね」
ヴィエルジュは嘆息した。
「急な呼び出しの時点で、嫌な予感はしていましたが」
ヨーハンは深く息を吸い込み、吐き出した。そしてうつむく。
「暗愚王が自身の最期を予感するとき」
絞り出すように、ヨーハンはかすれ声で言った。
ヴィエルジュが身を起こす。テーブルに杯が置かれた。
二人の男の間で燃える燭台の炎が、冷たい風に煽られ、揺れる。
「死の恐れゆえに、暗愚王は楔の銅板を、私室の石壁の中、扉すぐそばにある小さな洞へと移動するだろう」
王は、己の近い未来を予言した。
今でも変わらぬ友であるヴィエルジュを、王ヨーハンが急ぎ呼び寄せた目的。
新たな銅板の在り処を告げるため。
その裏にある意図を汲んでもらうため。
「忠実な臣下として、王妃マリーの兄として、無二の親友として」
ヴィエルジュは応じた。
「ヨーハン陛下のご懸念、承知いたしました」
「頼む」
ヨーハンは杯を口元に運んだ。
杯の中身はさきほど飲み干していて、空だった。
ヴィエルジュが友の杯へとワインを注いだ。
◇
「ヨーハン」
扉に手をかけたヴィエルジュは振り返りざま、まっすぐにヨーハンを見つめた。
「父シャルルと妹マリーの生命を奪わずに留まってくれたこと、感謝しています」
ヨーハンは答えなかった。
「さらば。ヴィエルジュ」
代わりにヨーハンは、友に別れを告げた。
「さよなら、ヨーハン」
ヴィエルジュもまた、友へ別れを。
二人の男はかたく抱擁しあった。
互いに振り返ることなく別れた。
ヴィエルジュが回廊に足を踏み出すと、彼の連れてきた扈従が、静かに歩み寄った。
扈従が主の肩へマントを着せかける。
首下にリシュリューを示す蝶の紋章が留められると、ヴィエルジュは歩き出した。扈従が後を追う。
西の塔にわずかに配された衛兵が城門を開き、リシュリュー主従の騎馬が積雪を駆けていった。
王ヨーハン、人間ヨーハン。
そのどちらへも、ひとかけらの疑いもない忠誠と友情とを捧げる、ヨーハンの唯一の友。ヴィエルジュ。
ヨーハンの言わんとする表裏を理解し、悪役を甘んじて引き受けてくれるのは、ヴィエルジュのほかにいない。
ヨーハンには、信を置く友が、二人いた。
ヨーハンにとって友といえば、ヴィエルジュとアンリの二人だった。
だが、かつての友アンリは、愛妻マリーとトリトン公子との逢瀬を予見しながら、友であったはずのヨーハンに知らせなかった。
二人しかいなかった友は、今は一人。
鈍重暗愚王ヨーハンは、唯一の友ヴィエルジュに、すべてを託した。
今生の別れだった。




