10 愚王の犯した罪
居座って早々、ナタリーはレオンに風呂を作るよう要求した。
曰く毎日入浴しないなどというのは不潔の極みで野蛮極まりなく、およそ人間らしくない。人の道の悖るのだという。
――野蛮極まりなくて悪かったな。
それでもレオンは毎日、村の共用の井戸へ水を汲んでいた。
その水をたっぷりと布に含ませ清拭し、体を出来るだけ清潔に保とうとしてきた。
ジャックに至っては沸かせた湯を盥に張り、丁寧に洗い流してやっていた。
たまの贅沢で共同浴場にも足を運ぶことだってある。
ナタリーは本人曰く、出自は貴族でそのご令嬢だということだから、平民の感覚がまるでわからないのだろう。レオンは自らを納得させようと飲み込んだ。
だが、どうしたって気分は悪い。
レオンはふいとナタリーから目線を反らした。
「風呂桶いっぱいの水を汲むような力仕事を毎日する気はありません」
レオンは低い声で言った。
するとナタリーは何度かパチパチの目を瞬くと、「あら」と声を挙げた。
「そんなこと、大した手間ではないわ」
のんびりと鷹揚に答えるナタリーに、レオンは癇立つ。
「そりゃ、あなたがするわけではないですからね」
苛立ちを少しも隠さず、レオンは尖った声色ですぐさま言葉を返した。
ナタリーは溜息をつくとやれやれ、というように首を振る。
「そうじゃないわ。あなたにわざわざ遠くまで、水を汲みに行っていただく必要はない、ということよ」
どういうことだとレオンが胡乱な目を投げかける。
ナタリーは紅い唇を釣り上げてニンマリと笑った。喜色満面。
――嫌な予感がする……!
レオンは後ずさった。
ナタリーが両手を大きく広げ、黒いローブが腕から滑り落ちる。
白く輝くような艶めかしい二の腕が露わになった。
それからナタリーは、タクトを振るうように、手首を返した。
「こういうことよ!」
途端、レオンの目の前に溢れ出る、水、水、水。
どこから湧き出るのか、大量の水がレオンの鼻先で踊り狂うようにうねり。逆巻き。飛沫をあげ。泡立ったその流れのまま浮き立っては、また渦巻いていく。
あまりの光景に唖然と息をのむレオン。
斜め前方では、クーファンにちょこんと腰かけたジャックが「あー!だあー!」と声をあげて喜んでいる。
「どう? これなら水を汲みに行く必要はないわね?」
ナタリーは満足そうに微笑んだ。
「ない……です、ね……」
レオンは呆気にとられていた。
荒れ狂う水の大きなうねり。
超自然的現象であるはずのものが、なぜか眼前に繰り広げられている。
それも空中で。レオンのボロ小屋という屋内で。
――これが魔法なのか……。
過去、王侯貴族の間にはよく見られたという魔法。今や失われた古代の力。
これは、確かに喪いたくなどなかっただろう。
なぜ過去に王家は他国の血を交えたのか。
婚姻を国内の貴族のみに留め、濃い血縁関係を保っていれば、魔法は。魔術は。
今も失われず発展し続けていたのではないのか。
それは歴史を学ぶ上で、様々な憶測がなされ、常に議題に上がるものだった。
レオンは歴史書を手にしたとき、この国の一大事件に、まあそうなるだろうな、と至極妥当だという感想を持っていた。
それまでの国内の貴族を優遇する政策から、他国との結びつきを強化し、外交を重んじる政策への転向。
この歴史的政策転換には、それまで長く続いていた、近隣諸国との小競り合いが背景にある。
戦を終結するためには、同盟国家との結びつきを一層深める必要があっただろう。
同盟関係の強化に婚姻という手段は双方にとってわかりやすく、即物的な面においても優れている。
そもそも他国の王族との婚姻を拒み続けていられたということが驚くことだ。
レオンはそう考えていた。
それほどまでに圧倒的な国力があったということだろうか。
その圧倒的な国力というのは、青い血の生み出す魔法や魔術によるものだったとして。
しかしながら結局、この婚姻を締結し同盟強化するまで戦は長く続いていたのだから、おそらくその時点で国力は低下していた。
そしてこの国は陸の孤島ではなく、地続き。
隣り合う諸国との交易が途絶えたことはなく、輸入に頼る作物も技術もあり、また輸出で外貨を稼ぐ必要もある。
それなのに他国の血は受け入れない、けれど友好関係は築きたいなど。ふざけた話もあったものだ。
おそらく批判も受けていただろうし、孤立しつつあったのではないだろうか。
それほどまで重要視する青い血。そして魔法と魔術、魔力。
他国にとっても魅力的、尚且つ危険視されていたただろうことは、疑いの余地もない。
けれど。
ナタリーから、お前は第十一代国王レオンハルトの生まれ変わりなのだと言われて。
初めてこの国に他国の血を受け入れた国王その人が、自分の前世なのだと言われて。
久しく手に取ることもなく、積み重ねた医術書の下で埋もれていた、この国の歴史書を再び手に取った。
第十一代国王レオンハルトの治世まで頁を捲り、彼の功績についての記述に目を通した。医術学校への受験勉強の時分以来のこと。
ナタリーがレオンに見せた前世の記憶。
そこでレオンハルトはナタリー以外は決して娶らぬと言っていた。レオンハルトの胸中渦巻く激情は、レオンに伝わってきていた。
掘り起こされた記憶の中で、あのときレオンは確かに、レオンハルトだった。
――何があったんだ。
レオンは今でも、自分がレオンハルトの生まれ変わりだなどと信じてはいない。
けれど、ナタリーに導かれ、見せられた百五十年前の光景の中、あの瞬間は確かにレオンハルトと感情を共にしていた。
レオンハルトの中に、レオンは入り込んだ。レオンハルトとして嘆き、怒り、絶望し。
そして何よりナタリーを深く愛していた。
だからこそ、わからない。
なぜ彼が王家から青い血が失われるかもしれないリスクを侵してまで、愛するナタリーではなく他国の姫を妃としたのか。
それとも表の歴史には綴られなくとも、実はレオンハルトの真実の妃はナタリーであったのか。
存続する王家の血筋、それを辿ったとき、王族の体を巡るのは、レオンハルトの正妃の血ではなくナタリーのそれであるというのか。
しかしレオンハルトの婚姻以降、王家は他国の血を受け入れ続け、青い血を薄めていったことは事実だ。
果たして第十一代国王レオンハルトは、既存の悪しき慣習を撤廃し外交的手腕を振るった賢王ではなく。
女に溺れ、この国独自の貴重な魔法を失わせた、希代の愚王であったのではないのか。
目の前の圧倒的な力を前に、水飛沫でレオンの頬が濡れた。
レオンハルトの犯したかもしれない大きすぎる罪が、レオンの胸の奥底へ、鉛となって沈んでいった。