49 ヴリリエールの父娘
ジャンヌはそっと息を吐き出し、父アンリの背後にまわった。
これ以上、己の美醜について話したくはない。
「愚かな祖父が、お父様へと早くに一族魔法をお許しにならなかったことが、悲劇の始まりでしたわね」
ジャンヌは父の肩に手を置き、優しくなでさすった。
父アンリの筋張った二の腕を覆う、分厚いウールのガウンは、しっとりとしてすべらかだ。
いつまでもなでていたくなる。
美人や芸術品。
美しいものの価値をかたくなに認めず、遠ざけたり、疎んじたり、貶めたりするような、父アンリの偏屈は、ときどきジャンヌの気分を落ち込ませた。
父アンリは美しいものについて、見た目だけをとりつくろい、中身をともなわない軽薄さのあらわれである、と軽蔑しがちだ。
そこには娘ジャンヌを大事に思う父の、温かい親心もあるのだろう。
父自身の劣等感だけでなく。
外見に思想、性質。
父アンリにどれほど似ていようとも、ジャンヌは年若い娘だ。
美しくない己を受け入れてはいるが、ジャンヌとて、美しいひとびとに憧れる気持ちはあった。
「愚父は見誤ったのです。建国王の尊き政治理念は、ヨーハンに受け継がれなかった」
アンリは娘のいたわりに満ちた手つきに安らぎ、目を伏せた。
「もちろん、親愛王のエノシガイオスへの傾倒は、断じて許すべきでない。かといって、ヨーハンの促す領邦や個人の自立は、小国分立と対立を起こすだけです。いずれ、社会が成熟すれば、それもよいでしょうが、改革を起こすべきは、今ではありません」
「建国王が建国王となられた所以は、小国同士がいがみ合い、無為な犠牲がはびこるのを憂いたこと。そうして大陸の融合を願われたのですものね」
ジャンヌは言った。
ジャンヌは手を止めず、父の華奢な肩から腕にかけて、温かいウールをなで続ける。
「そのとおりです、ジャンヌ。建国王の理想と、大陸の現実とを正確に把握し、判断をくだすことができる王は、ジークフリート殿下しかいらっしゃいません」
アンリはうっとりとした口ぶりで言った。
目を閉じれば、ジークフリートの幼くも凛然たる姿が、まぶたの裏に浮かぶ。
あの頃はまだ、ジークフリートが生来持つ俊英さについて、アンリは認識していなかった。
しかし、ジークフリートの他には、正統なる王子がいなかった。
ヨーハンが七忠の反対を押しきって召し抱えた側妃は、七忠と血縁関係のない地方貴族の娘カトリーヌ。
彼女の産んだ、ルードルフ、ハンス、それから赤子のフィーリプは、皆、健康な男児だったが、七忠の血を引かない。
ジークフリートの身体に流れる七忠の血が、さかのぼればエノシガイオスへとたどりつく、リシュリュー由来だとしても。
一顧の価値もない枝葉貴族の息子に比ぶれば、ジークフリートの方がましだった。
七忠の血を引く正統なる王子を保護しなければならない、という、王の護り人たるアンリの義務感が、ジークフリートを王子として尊重させた。
そんな中で、アンリは予見した。
父を倒してようやく手にした一族魔法が、明確にあらわれた。
形式ばかりの敬意で幼き王子をあしらうアンリに対し、ジークフリートがまっすぐな瞳で見つめ返したときのことだった。
◇
その日アンリは、数多いるジークフリートの教育係のひとりとして、幼き王子を指南していた。
議題は、フランクベルト建国の流れと、建国王の政治理念について。
さまざまな解釈があり、さまざまな立場を取る人間がいるために、ひとりだけの思想を教え込むのではなく、王子であるジークフリートには、多くの人間が教えを説くことになっていた。
誰の思想も受け取っておらず、まっさらな状態の王子へ、最初の教えをほどこすのが、ヴリリエール公爵アンリだった。
ヨーハン王が、アンリを第一の教育係として指名したからだ。
アンリは次期王となるジークフリートへ、自身の見解と、そしてまた自身とは異なる亡き父、先代ヴリリエール公爵の見解について述べた。
父子の異なる見解とはつまり、先代ヴリリエール公爵であった亡き父が、ヴリリエール家一族魔法によって受け取った予見、その解釈の違いであった。
――こんな幼子に理解できるはずもない。
第一の教育係とは聞こえがいいが、王子がいずれ理解力を培うまでの、踏み台に過ぎない。
ほんのひとかけらでも、彼の中で、思想の萌芽となりうる種を蒔けるのならばよいが。
アンリは諦念を抱きながら「おわかりになりましたか?」とジークフリートにたずねた。
それほどまでに、ジークフリートは幼かったのだ。
政治、思想を指南される年齢に達していない。
幼子には難解に過ぎ、退屈であろう説教を黙って聞いていられただけでも、驚嘆に値する、とアンリは思い直した。
たしかにこの王子は、ヨーハンには望めない王らしい知性を秘めているのかもしれない。
アンリはジークフリートを好意的に評価した。
「これまでのお話で、疑問はございますか? なんなりとお申しつけください」
慇懃にアンリが頭を下げる。
するとジークフリートは、幼子とは思えぬほど、はっきりとした口調でアンリに言った。
「先代ヴリリエール公は、かの道が建国王の望みと見立て、策を立てることなく、あるがままに尊重するとした」
アンリを射抜くのは、幼子らしく澄みきった、迷いのない碧い瞳。
しかし、威厳があった。
幼子特有の傲慢さや、根拠のない自信ではなく、確固とした信念を感じさせた。
「おまえはその道が建国王の望まぬところと見立て、策を立て阻むことこそ、建国王の意向だとしたのだろう」
アンリは、目の前の幼き王子の言葉に、感嘆した。
理想と信念のために王殺しに父殺し、七忠殺しという大罪を犯して以来、アンリには常に、後悔と自責の念がつきまとった。
どれほど己の罪を正当化しようと試みても、苦悩が晴れることはなかった。
だがここにきてようやく、傷ついた彼の心に理解を示す存在があらわれた。癒されたように感じた。
アンリは心の底から、ジークフリートへ畏敬の念を抱いた。
――偉大なる王があらわれた。
ジークフリートこそ、アンリの切望した君主だった。
王を殺し、父を殺し、七忠を殺し。
そうまでしてアンリが欲した、理想の君主。
建国王の再来。
それと同時に、これまでアンリを覆っていた思考の霧が晴れた。
フランクベルトから魔法を永遠に消し去るだろう王子の誕生を、彼は見た。
亡き父が死んでなお、アンリに許可することのなかったヴリリエールの予見能力。それがいままさに。
ヴリリエール家当主として、一族魔法を正式に受け継ぐことができた。彼は悟った。
王殺し、父殺し、七忠殺し。
そのひとつひとつ。すべてが、許されざる大罪。
それら大罪を重ねて犯したアンリのもとへ、たしかにヴリリエールの一族魔法があらわれた。




