48 蛇の館
冷たい石壁に、壁よりも淡い色調の、灰色の壁掛けが、至るところに掛けられていた。
ウールの壁掛けから浮かび上がるよう、銀糸で織られた文様は、とぐろを巻いた蛇。
生命が宿るような見事な図案は、燭台に揺れる無数の炎に照らされると、うろこの一枚一枚に光がうつろい、まるで今にも動き出しそうに見えた。
灰色と銀色に覆われた、静謐で神秘的な屋敷。
ヴリリエール公爵の王都屋敷である。
現当主のヴリリエール公爵アンリはイライラとした様子で、彼のひとり娘を執務室へと呼びつけた。
「ジャンヌが参りました、お父様」
アンリの娘ジャンヌが扉の外で膝を折った。
「はいりなさい」
父アンリが命じる。
ジャンヌが一歩まえに進み出た。彼女の背後で、音もなく扉が閉まる。
入室してまず、目に入るのは、赤地に青い一本線の旗だ。
上底中央から下底右端へと、青い一本の斜線がまっすぐに引かれる、ヴリリエール家の旗。
「ジャンヌ、おまえには失望しています」
父アンリは長々とため息をついた。
文机には、燭台にペン立て、几帳面にきっちりと積まれた書物。
それらに左右をはさまれ、父アンリは枯れ枝のような両手を組み合わせていた。
娘ジャンヌの入室にも関わらず、一瞥もくれない。
「申し訳ございません」
ジャンヌは頭を垂れた。
「我がヴリリエールの一族魔法である予見能力を、おまえは誰より強く、色濃く持ち合わせているはずなのに」
父アンリは燭台の蝋に似た色の、生気のない指をもみほぐし、ようやく娘ジャンヌを見た。
「アタシが一族魔法の所持を許されたのは、愚父が死んでようやくのことでしたよ。アタシはおまえに、自由にさせていたでしょう。それなのにおまえは、紛い物の獅子ヨーハンが仕掛けた霧を晴らせないというのですか」
「けれどお父様。万一、第五王子殿下が王になられるとすれば、彼の妃には私が――」
ジャンヌが父にすがれば、父は娘をさえぎり、「無能な婿は、ヴリリエールに必要ありません」と切り捨てた。
「しかし、彼ならば、我がヴリリエールが王を傀儡とできます」
本心では、それが父の望みではないと知りつつ、ジャンヌは反論した。
「無能な王は、さらに必要がない」
父アンリは娘の主張を否定した。
痩せ細った指でつるりとした頬をなでさするアンリは、いかにも楽しげな様子だった。
とはいえ、哀れな子羊をいたぶる残虐な主が、嗜虐趣味に興じているというふうではない。
愛娘ジャンヌの前では、狡猾な蛇とおそれられるヴリリエール公爵アンリも、親子の会話を楽しむ、平凡な父親に過ぎない。
「第五王子殿下が王位につくことに、いったいなんの不都合がありましょうや」
興が乗ったジャンヌも、芝居がかった口ぶりで父にたずねた。
「おや、まあ。我がヴリリエールの麒麟児たるジャンヌが、導きの暁の星を見失うとは」
アンリが両手を広げる。
彼の羽織るウールのガウンはその重みを示唆するように、美しい灰色の艶をドレープ上に滑らせた。
「彼が王位につけば、我が国から魔法が失われるのですよ。建国王の尊き青い血が途絶えるなど!」
アンリの嘆きは、もはや芝居がかってはいなかった。
「まさかヨーハンが、我が国の解体を望んでいたなんて。あの裏切り者」
蝋のような青白いアンリの額に、太い血管が浮き立つ。
「各諸侯の勢力均衡に独立など、これほど馬鹿馬鹿しく、無価値なことはないでしょうに! アタシが力を貸してやったのは、いったいなんのためだというのか」
「先代親愛王とリシュリューの共謀愚策がもたらす、エノシガイオスの我が国侵略を阻むため。建国王の築いた尊き我が国を、名誉ある七忠が、獅子王とともに護り続けるためですわね」
ジャンルが父アンリの代弁をする。
「お父様は正しくいらっしゃいます」
「ジャンヌ……」
アンリは顔を上げた。
「我が愛しの娘」
アンリは娘ジャンヌの、若い娘とは思えぬ、みすぼらしいほどに痩せ細った手を優しくなでる。
「アタシに生き写しの、ヴリリエールの麒麟児。アタシの最大の理解者」
陰では醜女とささやかれる娘ジャンヌを、父アンリは哀れんだ。
「アタシに似て容貌は優れぬけれど、おまえの知性は暁の星のように輝いています。メロヴィングの小娘などより、おまえの方がずっと、偉大なるジークフリート殿下にふさわしい」
「高貴なる慰み者と呼ばれる身ですもの」
ジャンヌは父アンリの同情を、かえって申し訳なく感じた。
「くらべてミュスカデ嬢は、当代最も可憐な花と誉れ高い方。彼女のような輝かしい立場にはなれぬことくらい、わきまえておりますわ」
高貴なる慰み者。
醜女であるジャンヌの蔑称だ。
敵国エノシガイオスでは、小人や肥満、異形、それから知的障害のある者などを慰み者と呼び、宮廷に置いた。
彼らは生きた魔除けであり、慈悲深く麗しい貴顕の引き立て役であり、子どもたちの遊び相手であった。
慰み者を持つことは富裕の証として、エノシガイオス家の人間は好んで彼らを手元に置いた。
彼らはたいてい、宮廷人を楽しませる機知を求められた。
それだから、機知に富み、醜いジャンヌは、『高貴なる慰み者』であると嘲笑われた。
最初に言い出したのが誰であったか。
いまとなれば、わからない。
だがジャンヌは、由緒正しい建国の七忠である、ヴリリエール家のひとり娘。
そのジャンヌをこれほど酷い蔑称で呼ぶ者は誰か。
本人を前にして呼ばずとしても、陰で嘲笑う多くは、一族のほとんどが美しい容貌を持つリシュリュー家。
あるいは彼らに追従する者たちであることは、間違いない。




