47 ベンテシキュメの誓い
白い太陽が紺碧の空に浮かび、ベンテシキュメの白い宮殿を照らしていた。
恋人たちは束の間の逢瀬に、情熱を注いだ。
祖を同じくするふたりの血脈を通じて、心地よい疲労感が肢体へ流れていき、心身が満ちる。
「そうはいっても、おまえはヨーハンを受け入れた。おまえに流れる青い血が、俺への愛よりも臣下としての忠義を貫かせてしまった」
トリトンはそう言うと、マリーの華奢な肩を抱き寄せた。
マリーのなめらかな素肌には、トリトンとの激しい情事の痕があった。
そのひとつひとつを愛おしむように、憎むように、トリトンは太くかさついた指でなぞった。
マリーの白い肌に、青い血管が透けて見える。
トリトンは顔を歪めた。
「ああ。おまえに流れる、その青い血が憎い。おまえにはエノシガイオスの血脈も流れるはずであるのに」
トリトンの碧い目が、憎悪で燃える。
「ヨーハンが憎い。おまえの国、フランクベルトが憎くてたまらない」
「あなただって妻を持ったわ」
マリーはトリトンのかたい胸に、音をたてて口づけをした。
「なにを言う。俺はあの女を抱いたことなどない」
いかにも不本意だとばかりに、トリトンは語気を強めた。
「エノシガイオスの公子が跡継ぎを儲けないなんて許されないでしょう」
マリーは愛しい男の胸に手を当て、恋人を諭す。
陽に焼けて、なめし革のようになめらかな光を放つ素肌には、じんわりと汗が浮かんでおり、マリーの手のひらに吸いつく。
高い体温と、汗。
しなやかで張りのある戦士の肌に、マリーは頬をすり寄せた。
「そんなことはない。過去にも女嫌いの君主が世継ぎを作らなかった例など、いくらでもある。にも関わらず、その国は今でも栄えている」
トリトンは複雑な心持ちで、異を唱えた。
法に縛られただけの、心の通わぬ妻を抱けなどと。
突き放すようなことを口にするくせ、トリトンが自分だけのものであると誇示するかのようなしぐさをするマリー。
気まぐれな猫のようにふるまう、彼の恋人。
運命というものは、たしかに存在するのだ、と。
彼は彼女に出会ったとき、天啓に打たれたがごとく、歓喜に震えたものだった。
「断っておくが、いまにも消え去りそうな小国ではなく強国の君主だ」
トリトンは恋人を安心させるように、優しい声色で言った。
「どちらの国のお話?」
マリーがトリトンの厚い胸の上で顔をあげ、たずねた。
「我がエノシガイオス公国だ」
トリトンはほほえんだ。
「あら、まあ。つまりあなたは男色の先祖を再現しているというの?」
マリーはおどけて目を丸くした。
「俺が男色か?」
トリトンはマリーにのしかかり、彼女の体のあらゆるところに口づけを落とし、くすぐった。
マリーは笑った。
「だが、何も知らぬ者には、なんとでも言わせておけ。俺はあの女を抱かぬぞ、マリー。結婚初夜の一度きりとはいえ、おまえがヨーハンに抱かれたようにはな」
「だめよ、それはだめ」
マリーはトリトンの口髭をくすぐり、ささやいた。
「あなたはあなたの奥様を抱かなくちゃ」
「なぜだ」
トリトンは不機嫌に鼻をならした。
「愛せぬ女を抱くことのおぞましさを、エノシガイオス――いや、リシュリューのおまえがわからぬはずがないだろう」
「愛のためよ、トリトン」
マリーがトリトンをなだめる。
「私があなたの息子を産んであげる。私生児になってしまうから、継承権は与えられないでしょうけれど――」
「マリーの産んだ俺の息子が、私生児なはずがあるか!」
マリーが最後まで言い終えるのを待たずに、トリトンは息せき切って言った。
彼は喜色満面で、浮かれあがった様子だった。
「おまえが息子を産んでくれるのであれば、財産も身分も権利も。エノシガイオスの公子として与えられるはずのすべて。俺は必ずその子に授けよう」
トリトンはマリーの腰をつかんだ。
「それだから、あの女は抱かぬ。あの女の子どもはいらぬ」
「いいえ。だめ」
マリーはトリトンの背をまさぐる。
「あなたはあなたの奥様に娘を産ませるの。そうして、その子は私の息子の元へ嫁ぐのよ」
「マリーの息子? ジークフリートのことか?」
トリトンはいぶかしんでたずねた。
「だがフランクベルト家の君主は、異国の女を妃に迎えないだろうが」
「いいえ、ジークフリートではないのよ」
マリーはおかしそうに笑った。
「これから産むのよ。トリトン、あなたとの間に息子を産んだあとに、私はヨーハンとの間に、もう一人息子を産むの」
「なんだと?」
トリトンは起き上がり、激高した。
「おまえはまたヨーハンに抱かれるつもりなのか!」
「ゆるして。たった一度っきりよ」
マリーは、必死でトリトンにすがった。
目の前の恋人は、今にもマリーを殺さんとばかりに、おそろしく猛々しい戦士の顔つきをしている。
マリーは恋人の激しい怒りに触れ、初めて恋人に恐怖を抱いた。
だが決して表には出さず、気丈にふるまった。
「抱かれなければならないの。なぜなら今、こうしてあなたと会っていることが、どうしてだかヨーハンに知られてしまうらしいのよ」
「らしい?」
トリトンは怒りをおさめ、マリーの言葉を繰り返した。
「ええ。蛇がそう言っていたわ。あなたと私の愛がヨーハンに知られてしまうのですって」
「その蛇とやら――つまりヴリリエール家のアンリが告げ口をするというだけの話だろうが」
トリトンは天をあおぎ、嘲るように言った。
覗き屋で告げ口屋のアンリ。
忠義を持たぬ狡猾な卑怯者。薄気味の悪い蛇男。
マリーの夫であるフランクベルト王ヨーハンに負けじとも劣らず、嫌いな男だ。
トリトンは嫌な顔ぶれを脳裏から振り払い、恋人を見つめた。
「マリー、おまえはアンリに、今日の計画を打ち明けてしまったのか?」
トリトンはマリーにたずねた。
屈強なたくましい体躯の美丈夫が、傷ついた子犬のような目で恋人の裏切りに怯えている。
「打ち明けてなどいないわ」
マリーは愛しい男の頭を両腕で抱え込むようにして、優しくなでた。
「けれど蛇は未来を見てしまうのよ。そういう人なの」
マリーは眉をひそめた。
「とても厭らしい。気色の悪い人。だけれど、蛇は私の信奉者ですから、蛇がヨーハンに告げ口することなどありえないわ」
「俺にはヨーハンのほかにも、ライバルが大勢いるようだな」
マリーの腕の中で、トリトンは拗ねたように身じろぎした。
「そうではないの。蛇が私を敬うのは、私がジークフリートを産んだからなのですって」
マリーはくすくす笑った。
「彼、あの小さいジークフリート坊やに夢中なのよ」
「ほう。それで、俺があの女を抱くことと、マリーが二人息子を産むことと、どう話が繋がる?」
トリトンがマリーの腕から抜け出し、彼女を抱え上げ、自身の腹の上にのせた。
「トリトン。あなたとはこうして、ベンテシキュメやロデを通じて、何度も愛し合っているわね」
マリーがかがみこむ。
マリーの長く波打つ黄金の髪が、トリトンの顔まわりで間仕切りの役目を果たした。
黄金の間仕切りの内側から、短くも官能的な口づけの音が鳴った。
「そうして生まれた息子があなたの後を継ぐの。エノシガイオス公になるのよ」
うっとりと夢見心地に、マリーが言う。
マリーは身を起こし、トリトンの眉から額へと、手のひらをすべらせた。
「そうだな。そうなれば、これほど幸福なことは、ほかにない」
マリーの華奢ではあるが、活力に満ちた手を、トリトンが握った。
「そして私は、しかたなくもヨーハンとの間にも息子を産む」
しぶしぶ、といった具合に、マリーは嫌悪を隠さずに言った。
「その子はきっと、フランクベルト王国の王になるわ」
「……ジークフリートを殺すのか?」
トリトンはうなった。
さすがにそれは受け入れられない。
たとえジークフリートが憎き男ヨーハンの息子だとしても。
それでもあの幼子は、愛しいマリーの息子でもある。
リシュリュー――エノシガイオスの血を引く子なのだ。
「まさか! そんなヨーハンのようなことはしないわ! 父殺しのヨーハン! 私を手に入れるためだけに、己の父親を殺す魔物のような男!」
マリーは高い声で叫んだ。
「ジークフリートは蛇にあげるわ。蛇は『未来はいくつもの可能性をはらんでいる』だなんてごまかして、否定しようとしているけれど、私にはわかる。王になるのはジークフリートじゃないわ。私がこれから産む子よ」
「そしてその子は、その子がこそ、エノシガイオス家のお姫様と共に、フランクベルト家を繋いでいくの」
マリーの口ぶりは、確信に満ちていた。
「トリトン、あなたと私の子どもたちが、エノシガイオス公国とフランクベルト王国を統治していくことになるのよ。なぜなら私が、この身と引き換えに、そうするようヨーハンに必ず、約束させるのだから」
マリーは宣言すると、トリトンの首に思いきりかじりついた。
「おまえはおそろしい女だな、マリー」
トリトンは、胸元に飛び込んできた、おそろしくも美しい蝶を力いっぱい抱きしめた。
愛しい女が、あの卑劣漢の手で、ふたたび汚される。
想像するだに、耐え難い。
心臓を槍で貫かれるような苦しみだった。
だが、愛しい女が産むトリトンの息子が、彼の跡を継ぎ。
愛しい女の産むはずの、もうひとりの息子が、彼の娘とともに、憎き敵国を掌握する。
エノシガイオスの血脈が、この大陸に君臨し、統治する。
恋人を奪われたひとりの男として、彼の胸中は憤怒に荒れ狂う。
それとは別の、エノシガイオス宗家の人間としての高揚が、彼の傷ついた心臓を悦楽で満たした。
「毒を秘めた美しい蝶よ。俺はおまえに夢中だ。おまえの毒からは、もはや解毒もかなわぬ」
「私の愛は永遠に変わらず、あなたのもとに」
マリーはおごそかに誓った。
◇
物思いにふける囚人のもとへと、誰かがやってきたらしい。
衛兵が声を張り上げ、来客を告げる。
囚人は顔をあげた。
扉のすぐ近くに立つのは、彼が入城して以降、彼の専属としてつけられた理容師だった。




