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46 西の塔




 貴き囚人を(かくま)う西の塔。

 そこはかつて、フランクベルト家が居城としていた廃城で、現在の王宮から西へと、いくらか離れている。


 石の城壁には崩れたところがあり、常は誰が寄ることもない。有事にあっては、(とりで)として機能することになっている。

 だが、フランクベルト家が現王宮へと居所を移して以来、この古城が要塞として活躍したことは、これまでない。


 代わりに、貴顕(きけん)の牢としては、それなりの頻度で用いられた。


 城の前では、左右両側に鉄製のカゴが配され、昼夜(ちゅうや)を問わず、かがり火が焚かれている。

 城壁には松明掛(たいまつが)けが列をなし、そこでもまた、炎があかあかと燃えていた。

 ひとつの火につき、ひとりの衛兵の姿があった。


 客人を招き入れる前に、すべての回廊から部屋に至るまで、念入りに掃き清められていた。

 それでも、古城から這い出ることを許されず、怨嗟(えんさ)を吐き続ける罪人の死霊のように、陰気なかび臭さや(ねずみ)の糞臭が留まっていた。


 貴顕囚人は、窓の外をぼんやりと眺めた。

 彼がこの古城に移されて、数日が経った。


 壁をくりぬいただけの穴には、鉄格子がはめこまれていたが、光は差し込んだ。

 囚人を慰め、彼の足を優しくなでるように、弱弱しく白い光が、暗がりの中で伸びていた。


 囚人は鎖や縄で繋がれているわけではなく、室内を自由に歩き回ることができた。

 彼が望めば、毎朝、その黄金の髭を整えることすら許された。

 もちろん、刃を彼自身に渡すわけにはいかぬから、彼の手足をそのときだけ縛り上げたのちに、彼の立派な髭のうち、遣わされた理容師が、不要なところを剃ってやる。


 髪を切るのも、戦で負傷したところの手当ても、歯の治療も、瀉血(しゃけつ)も。

 刃をつかうことはすべて理容師に任されていたから、囚人にも一人、専属の理容師がつけられていた。


 なにせ囚人の身分といったら、解放の代わりの保釈金として、半島トライデントを彼の国元へ求めることができるくらい高貴なのだ。

 丁重に扱わずには、金鉱脈を失ってしまう。


 囚人は監視下で、塔の外を散歩することもあった。

 そのとき彼は、壊れた鐘楼(しょうろう)を越え、王宮のある東の方角を、じっと見つめるのが習いだった。



『私の愛は永遠に変わらず、あなたのもとに』



 囚人の脳裏に浮かぶのは、愛しい女の声。

 あの女の愛は今も、彼だけのものなのだろうか。


 もはや確かめようもない。

 だが、たとえ愛を失っていたとして、彼は己自身を止めようとはしなかっただろうし、そもそも、そんなことはできなかっただろう。


 美しい蝶の(とりこ)となってから、蝶が舞うたびに宙に散る、わずかな鱗粉(りんぷん)さえも手に入れようと、彼はあがいた。

 そうせずにはいられなかった。


 彼を狂おしく駆り立てるのは、(あで)やかな蝶の毒。

 そして彼の身体に流れる、熱い血潮だ。


 彼と女とを結ぶ、エノシガイオスの血。


 エノシガイオスの流れを汲むベンテシキュメ王の手引きで、女と最後に愛を交わしたのは、いつのことだったか。


 彼の領土トライデントと、女の出自であるリシュリュー侯爵領の狭間にある、小国ベンテシキュメ。


 白い壁に白い柱。

 白い大理石で表された神々の像。

 庭園中央にある噴水では、女神が手にした(かめ)から水が噴き出し、舞い散る水しぶきは光を浴びて、虹を描く。


 恋人たちが激しい愛を交わす間、ベンテシキュメ宮廷では日が昇り、そして日が落ちた。

 日の出と日の入り。

 そのわずかな時間、宮廷の見渡す限りが空と同じ、淡いピンクと紫に染まり、神々の住まう天空に溶け込む。


 幻想的なベンテシキュメの宮廷で、恋人たちは互いの命を賭けた約束を交わした。


 それきりもう二度と会えないだろうことを、覚悟していた。

 そして実際、その通りに、彼は女と触れ合うことも、言葉を交わすことも、愛しい姿を目にすることもなかった。



『その子がこそ、エノシガイオス家のお姫様と共に、フランクベルト家を繋いでいくの』

 二人分の汗をたっぷり吸った寝台に寝そべり、女は言った。

『あなたと私の子どもたちが、エノシガイオス公国とフランクベルト王国を統治していくのよ』



 女の美しく蠱惑的(こわくてき)な裸体と笑みが、幻となって、囚人の眼前にあらわれる。


 精悍さと威厳を感じさせる、綺麗に整えられた彼の髭が、わずかに震えた。

 すこしずつ白いものが混じり始めてはいるものの、まばゆくばかりに輝かしい、濃い黄金の髭。



「おまえはおそろしい女だな、マリー」

 窓の外へと、囚人は語りかける。

「毒を秘めた美しい蝶よ。俺はおまえに夢中だ。おまえの毒からは、もはや解毒もかなわぬ」



 それはかつて、囚人が女へとささやいた台詞だった。

 彼のかすれ声は、灰色の空に飲み込まれ、消えていった。


 だが彼の忠誠心は揺るぎなく、今なお、彼とともにあった。

 女と初めて出会い、恋に落ち、そしてベンテシキュメで女と別れてから今日(こんにち)に至るまで。

 彼は己を偽ることなく、変わらず忠誠を捧げ続けた。


 彼の身体を流れるエノシガイオスの血脈へ。

 彼の生まれ育った国へ。

 彼を信頼し敬愛する民へ。


 そして、彼が愛する、ただひとりの女マリーへと。




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― 新着の感想 ―
トリトン公子はまだずっと愛していたのか……。純愛ですね(#^^#)
[良い点] 昨日から何度もこの辺り読み込んでます。 そっかー。ベンテシキュメでマリーと別れて以来だから、(子供らの年齢から推測して)15年以上は会えてなかったんだ。 そりゃ、心に憎悪の澱も溜まるか…
[良い点] ぎゃうううぅぅ! トリトン公子きたーーーー♡♡ 期待を裏切らない素敵な人だあ♪ 今も一途にマリーを!? 叶わぬ恋に誠を尽くす男! はー、シビレてしまう♡ マリー、あんたはフラフラとあち…
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