43 兄弟の密談(5)
「リシュリューのヴィエルジュから指南されたようだな」
ジークフリートは杯を煽った。
「問いたいことがたくさんあるだろう。不足については、私が補おう」
両手で囲った錫の杯へと、視線を落とすジークフリート。
杯は飲み干され、中身は空だ。
とっくに成人した、レオンハルトより八つも年長の兄の姿。
それなのに、なぜだか、兄と幼いこどもの姿が重なって見えた。
母マリーの不貞を、幼い兄が意図せず覗き見てしまったという、伯父ヴィエルジュによって語られた過去。
そのときの、レオンハルトが実際には目にしたことのない、無邪気であどけない兄の笑顔が凍りつく様。
目の前の兄に、まぼろしが、重なる。
「はい。ですが」
レオンハルトはジークフリートからそっと、錫の杯を取り上げた。
ジークフリートが顔をあげる。
兄弟の目が合った。同じ色の瞳。
「まずは七忠の強権問題について、教えてください」
「そうだな」
ジークフリートはほほえみ、レオンハルトの手に触れた。
兄の手は冷たく、弟の手は温かかった。
「お互い、晩餐会のワインに期待しましょう」
レオンハルトが兄ジークフリートから取り上げた杯を、兄から遠ざけて置くと、兄は愉快そうに片方の眉をあげた。
だが何かを指摘することもなく、兄は地図上に散らばった八つの駒を中央に集めた。
「七忠の強権については、たしかに他諸侯の立場とあっては、おもしろくはあるまい。かといって七忠の矜持を軽んじることもまた、あってよいはずがない。彼らはその名の通り、建国の七忠だ」
ジークフリートは集めた駒を、ひとつひとつ、立たせていった。
「彼らあってこその我が国」
王都に立つ獅子を中心に、鷲、蛇、蝶、馬、梟、蛙、豚の七つの駒が、ぐるりと円を描いて取り囲む。
「だがしかし、彼らの始祖は、建国王の政治理念に感銘したからこそ、付き従ったのだという経緯がある」
ジークフリートが弟の目を覗き込む。
「これについては先日、伯父から聞いたな?」
「はい」
レンハルトは迷いなく、うなずいた。
「ということは、だ。建国の経緯と建国王の政治理念を鑑みて、我が国が他国の血を交えることに、なんの矛盾が生じようか」
「それというのは?」
レオンハルトは反射的に質問した。
ジークフリートは言ったのだ。
かたくなるな、と。
だからレオンハルトは、身構えたりしないし、遠慮もしない。
それにジークフリートのまなざしには、兄らしい慈愛に満ちている。
腹違いの兄ルードルフを監視していてさえも。
「建国王は、この大陸の平和的融合を願ったのだ」
ジークフリートは大陸の地図を、その細い指で示した。
「彼の抱いた理想は、ひとりの寛大な君主による大陸統治が、恒久的な平和と幸福を、広く民にもたらすことだ。我が国だけを慈しみ、そこに含まれぬひとびとを排他する意図など、彼にはなかった」
ジークフリートが獅子の駒をつまみあげる。
「そしてまた、建国王の理念への解釈は」
獅子の駒をにらみつけ、つぶやきといっていいほどの小さな声で、ジークフリートは言った。
「父王ヨーハン陛下と、先代アルブレヒト陛下。親子間の修復しがたい、大きな亀裂となった」
「建国王の理念が?」
レオンハルトは驚いた。
父ヨーハンが祖父アルブレヒトと対立することになったのは――いや、言葉を濁すのはやめよう。
父殺しの大罪を犯したのは、母マリーを手に入れるための凶行であったと。
伯父ヴィエルジュは、報われぬ愛に狂った男ヨーハンについて、その息子レオンハルトへと、痛烈になじった。
「ああ、そうか」
ジークフリートは獅子の駒を置き、代わりに蝶の駒を取った。
「おまえは伯父に、父王陛下が、トリトン公子から母を略奪するがためだけに、親愛王を倒したと教わったのだったな」
「違うのですか?」
「まったく違う、とは言わんが」
ジークフリートは眉間にしわを寄せた。
手中にある蝶の駒を置くと、兄はそれを先頭にして、円状に配置されていた駒を今度は横一列に並べ替えた。
「これもまた、七忠の扱いが面倒なところだ」
先頭の蝶の次に置かれたのは、蛇。ふたつの駒は離されている。
蛇のあとには鷲が続き、ここでも、すこしばかり間隔が空く。
「伯父はいかにも、親愛王が七忠全員から、腹に一物もなく慕われていたかのように語ったが、そうではない」
「そうではない?」
レオンハルトは兄の言葉を繰り返すことしかできなかった。
だってそうだろう。
あの晩、レオンハルトは伯父ヴィエルジュから、あれほど迫真に満ちた憎悪を向けられ。
あれほど衝撃を与えられ。
あれほど苦悩したのだから。
そしてそんなふうに嘆くレオンハルトの姿を、伯父はいかにも罪の意識を抱いているかのようにふるまい、慰めたではないか。
「祖父アルブレヒト親愛王と現リシュリュー侯シャルルとがひそかに進めていた計画では、父王ヨーハン陛下の妻に、エノシガイオスの公女を迎えることになっていたそうだ」
「陛下がエノシガイオスの公女を? なぜ」
レオンハルトは困惑した。
その頃からすでに、他国の血を交えるつもりだったのか。
そして側妃制度さえも、検討されていたのだろうか。
ならばやはり、レオンハルトが先に疑ったように、建国の七忠の反発は起こりえたのではないか。
だからこそ、親愛王とリシュリュー侯爵は内密に企てていたのではないか。
もし、その婚姻が成立していたのならば。
七忠のうち、エノシガイオス家にルーツを持つリシュリュー家以外には、利がまったくない。
「そしてリシュリュー宗家の娘であった母は、当時年頃の娘がいなかったフランクベルト家に代わり、フランクベルト王国諸侯の娘として――つまり外国へ嫁ぐフランクベルト女のうち、特例として、財産も特権も、一族魔法や固有魔法さえも、その所持を認められたままで、トリトン公子の妻に」
ジークフリートは蝶の駒を、地図上のエノシガイオス公国、その直轄領である半島トライデントへと移した。
「そうして我が国とエノシガイオス公国とで、二重結婚政策を為すつもりだったらしい」
「それでは」
レオンハルトはトライデントに鎮座する蝶の駒を見つめ、ふるえる声で言った。
「リシュリューを除く七忠の反発は、すさまじかったのではないですか」
「そうなのだが、ほかにも問題があってな」
ジークフリートはため息をついた。
兄は遠くに置かれた杯をうらめしげに眺め「のどが渇いたな」とぼやいた。
「だめです」
レオンハルトはきっぱり言うと、デキャンタと杯を持って立ち上がった。
「そこまでするのか」
文机に杯を置いたレオンハルトが、デキャンタの中身を窓の外へぶちまけようとするのを見て、ジークフリートは笑った。
「窓ぎわは危険なのではなかったのか? そのうえ窓まで開けようとして」
「あっ」
レオンハルトは窓へと伸ばした手をあわててひっこめた。
「兄上、酒に頼りすぎなのではないですか」
レオンハルトは振り返り、八つ当たり気味に兄へとつっかかった。
「話し続ければ、のどが乾くのはしかたがないだろう」
ジークフリートはすまし顔で、弟に言い返した。




