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八話




次に図書館を訪れることになったのは、僕が少年と話しをしたときから大分日にちが経った後だった。


仕事で締め切りに追われることとなり、誰かに任せることも出来ず土日でさえ休みが取れなかったのだ。だいたい毎月どこかでこういう状況になる。


その日は、彼女はきちんとカウンターには座っていた。僕は利用者が誰も受付にいないことを確認すると、真っ直ぐ彼女の元へ向かった。


「久しぶり」

彼女は軽く頷いただけだった。


「君と最後に会った後から、僕はいろいろなことを経験したよ」


彼女はまだ何も言わない。回りくどいことは面倒で嫌いだ。どうせ考えても駆け引きなんて僕には出来ない。今すぐにでも本題に入ることにした。


「この間少年に会ったよ。それで本を受け取った。この意味分かるよね?」


「そう。それで何か状況は変わった?」

やっと彼女は口を開いた。


「いや、まだ何も。それより僕は君に言いたいことがあるんだ」


「何かしら?」


「あの少年のことだよ。僕は彼と話した。少しだけれど。でもそれだけでも僕は彼のことがすごく不自由だと感じた。彼ぐらいの子供は本来自由であるべきだ。違うかい?」


「何が言いたいの?」


僕は一体何が言いたいのだろう?よく事情を知りもしないで、ただ腹を立ているだけなのかもしれない。小さい子供のように、むきになって駄々をこねているだけなのかもしれない。彼はそんなこと望んでいないのかもしれない。


「あなたはそんなことをしている場合ではないわ。少しは自分の状況を考えた方が良い」


本当に彼女の言う通りなのだろう。僕はこんなことをしている場合ではない。何か、良くは分からないが、無くしかけているものを探さなくてはならない。


ただそれも、全て彼女が言ったことだ。僕のために何かをしてくれたような口ぶりであったが、それが何だと言うのだ?何の確証もないし、それに従う義務もない。


何が僕をこんなに駆り立てるのだろうか?

妙な正義感を振りかざして格好つけているだけなのだろうか?

あるいは自分がこうあるべきだと感じること、それに対し思い通りにいかないことに苛立っているだけなのだろうか?

それとも……これが親になるということなのだろうか……?


「必要なことなのよ」彼女は嘆息してそう言った。


「何が必要だっていうんだい?」


その時僕のシャツの裾を誰かが引っ張っているのに気がついた。それがなければ、僕は彼女に詰め寄っていたかもしれない。少年だった。


彼は僕と目が合うと、何も言わず首を横に振った。それで僕はそれ以上彼女に何も言えなくなってしまった。


彼は僕のシャツの裾を離さなかった。そしてそのまま歩いていこうとしたため、僕は少年についていかざるを得なかった。どうやら、彼がいつもいるという奥の窓際のテーブルに向かっているようだった。そこに着くまで彼も、僕も、お互い何も喋らなった。


奥のテーブル席に着くと、彼は無言で僕に椅子に座るよう促してきた。四つあった内の一つに僕は座る。彼も僕の隣に座った。そして、肩から斜めに掛けていた鞄をテーブルに置き、中から鉛筆と一冊のノートを取り出した。小学生らしい、表紙にカブト虫の写真がプリントされた学習ノートだった。


彼はノートを開くと、自然に閉じてしまわないよう真ん中を手のひらで何度かこすった。中には升目が印刷してあり、何も書かれてはいない。


彼は僕の目を一度見ると頷き、鉛筆でノートの升目に一文字一文字ゆっくりと書いていった。


『今日来てくれて良かった』

『前の時に伝えられたら良かったんだけど』

『時間がない』

『おそらく今日が期限』


一文書いては手を止め僕の顔を覗き込み、僕が頷くと次の一文を続けて書いていった。その間僕は口を挟まなかった。


おそらく彼は喋ることが出来ないのだろう。それが何かの代償なのか、そういう日が周期的に来るのかは分からないが、ノートを使って筆談でのやり取りが出来るのであれば、僕にとって不都合はない。


彼はそういったコミュニケーションの取り方に慣れているようだった。それがまた余計に僕を苛立たせることにはなったが、今はそういったことを分析したり、いちいち腹を立てたりしている暇はない。彼が言うには時間がないのだ。


『おれもずっと探していたけれど見つけられなかった』

と彼が書いた後、僕は口を開いた。


「ずっと探していた?君は具体的に何をどう探せば良いのか知っているの?」


『絵はがしははがした写真や文字を一冊の本に集めている』


絵剥がしの「剥がし」は平仮名で書かれていた。まだ漢字を知らないのかもしれない。かく言う僕もいきなり書いてくれと言われたら、書けないかもしれない。


文章を書くときは、だいたいパソコンが漢字に変換してくれる。僕がする作業と言えば、いくつかの候補の中から正しいものを選択するだけだ。0から1を生み出すわけではない。


『そしてそれが一杯になると一口でそれを食べる』


なるほど。

「なるほど」

心の中で思った言葉が、そのまま口から出ていた。


僕は一度咳払いをし、「つまり、絵剥がしが食べてしまう前に、剥がされたものたちが集められている本を探せば良いってことだね?そしてその本はこの図書館の中にある。」

少年は頷く。


僕は振り返って辺り一面に並ぶ本を眺めた。


この図書館の蔵書数はどれくらいだろう?

一万冊……ということはないだろう。そんなに小さな図書館でもない。おそらくその十倍。十万冊か、もしかしたらそれ以上あるかもしれない。その中から一冊の本を探さなければならない。


しかし、この図書館の中にあると分かっているのであれば、時間をかけて虱潰しに探せばいつかは必ず見つかるはず。それが一冊目かもしれないし、十万冊目かもしれないということ。ただし今は時間がない。効率的かつ迅速にことをなす必要がある。


「君はどこを探したんだい?」


彼もずっと探していたと言っていた。同じところを探す必要はないだろう。どれくらいかは分からないが、それが分かればずいぶんと探す手間が省けるのではないだろうか。


僕の質問に、彼はすぐには文字を書き始めなかった。指を折って何かを数えているようだった。しばらくして鉛筆を手に取り、マス目に文字を埋めていった。


『おれがどこを探したか知っても意味はない。本は毎日移動する』


なるほど。それはいささか厄介だ。つまり今日、一から本探しを始めなければならないということか。ならば些細なことであっても、少しでも多くの情報が欲しい。


「その本に特徴はあるのかい?例えば本の色は何色だとか、厚さはどれくらいだとかって意味だけれど」


彼は僕をじっと見たままそれまでと同じように何も言わなかった。ノートにさえ何も書かなかった。視線を落として首を横に振っただけだった。


僕は彼の視線の先を見る。そこにはさっきまで筆談に使用していた学習ノート。すぐに気付くべきだった。一ページが縦10マス、横7マスの70マス。二ページ合計で140マス。


丁度見開き二ページ、140マス全てが漏れなく文字で埋まっていた。前のときは質問が三回と制限があった。今回彼は喋れないことに加え、この10×7×2マスの140文字しか僕に伝えることが出来ない。おそらくそういうことなのだろう。


それならば仕方がない。彼を責めるわけにはいかない。彼が言うにはとにかく時間がないのだ。一刻も早くその絵剥がしが剥がしたものたちが入れられている本を探さなくては。


いちいち絵剥がしが――と言わなければならないのも面倒だ。もしかしたら僕が聞けていないだけで、正式なものがあるのかもしれないが、それを呼称する何かが欲しい。名前でも記号でも良い。


絵剥がし。

剥がす。

剥がされた。

剥離……


そういえば今までよく考えてこなかったが、一体動物が、猫が喋るとはどういう理屈だ?彼、いや彼女?は、外にいた方が本体なのか?それとも本に載っていた方なのか……


存在そのものがひどく抽象的で、観念的で、概念的な感じだ。


よく分からない、というより考えても仕方がないように思えた。そういうものなのだと受け入れるしかない。


剥離か……しかし僕の中で剥がされたという表現がどうもしっくりこない。剥離というよりは乖離。あるいは解離。


本来あるべき本――あるべきは外の猫の方だという可能性もあるが――から引き離されている状態。分断されて、閉ざされている状態。


思念、いや精神的に解離された状態だと位置づけるのが最も近いのではないかと僕は思った。


解離性障害。あるいは解離性同一障害。心理学において多重人格などに用いられる用語であるが、これにつても大学の講義で話しを聞いたことがあったように思う。


喋る猫というものもそう。何らかの障害――エラーかもしれない――による結果かもしれない。


僕は十数秒の間にそれだけのこと考え、これから探すことになるその本を便宜的に『解離書』と呼ぶことにした。


僕は彼の肩を二度ポンポンと叩きにっこりと笑って見せた。


「大丈夫だよ少年。僕と君が力を合わせれば絶対に探し出すことが出来る」

何の根拠もなかったが、僕は彼に力強くそういった。そうしなければ、あの三毛猫は食べられてしまう。それだけは避けなければならない、そういう使命感が僕にはあった。


彼は顔を上げ僕を見た。僕は大きくゆっくりと頷いてから、少年が書いた字で一杯になった学習ノートを閉じ、『解離書』探しへと取りかかった。




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