七話
彼女が僕に何かを無くしかけていると言い、そして猫が喋った日、あの後少し考えて分かったことが一つだけあった。
本だ。猫の生態。
あの本の表紙が、そういえばあの三毛猫にそっくりだと感じたことを思い出したのだ。あの本に何かしらのヒントがあるに違いないと思った僕は、さっそく翌日に図書館へ向かった。
二日続けて朝から出かけることとなったが、妻は特に気に留めていないようだった。一言だけ、「何時に帰ってくる?」と聞かれただけだった。
この日は図書館の入口に三毛猫の姿は見えなかった。少しだけ周囲の植込みなどを探してみたが、気配すらなかった。図書館の中で見つけるまで、出てこない気なのかもしれない。
その日いなかったのは三毛猫だけではなかった。彼女もまた、受付のカウンターに座ってはいなかった。いつも彼女が座っていた場所には、代わりに三十代くらいの眼鏡を掛けた女性が座っていた。
何か他の作業を行っているのだろうかとも思ったが、彼女に限ってはそれはないと思われた。普通に休日だと考えるのが妥当だろう。
喋る三毛猫に出会ったことを話したったが、いないのであれば仕方がない。
僕の優先順位の第一位は、この館内であの三毛猫を探すことだ。彼女と話しをすることではない。
僕はまず、「猫の生態」が置いてあった場所へ向かった。記憶にあった場所まで行き、一見した限りでは目当ての本を見つけることが出来なかった。
続いて一番上から順番に、一冊ずつタイトルを見ながら見ていったが、見つけられなかった。もう一度今度はタイトルをゆっくりと読み上げながら見ていったが、それでも見つけられなかった。
同じことをもう一度繰り返したが、結果は同じだった。
「猫の生態」は見つけられなかったが、可能性としては何もおかしなことではない。
たまたま僕が読みたかった本が、同じ日同じ時間に他の誰かが読みたかったというだけのことかもしれない。ここは図書館なのだ、誰にも自由に本を読んだり借りたりする権利がある。
僕を除いて、ということだけれど。
とりあえずここに居続けても仕方がない。確か受付の横にパソコンが置いてあったはずだ。おそらくあれで蔵書の貸し出し状況が検索出来るだろう。使い方が分からなければ、この図書館の職員にでも聞けば良い。
僕はその場から数歩離れ、本棚を振り返ってみた。なぜそうしたのかは分からなかったが、何か引っかかるものがあり気付いたらそうしていた。
始めは何か分からなかった。ただ、僕の両目は何かを確実に捉えている。本棚の中央からやや右下辺り。
そこに、隙間が空いていた。
丁度「猫の生態」が一冊収まるくらいの隙間だった。
なぜ今まで気が付かなかったのだろうと思うくらい、それはあからさまな空間の欠如だった。そう、まるでそこだけ世界がくり抜かれたように、真っ黒で、どこまでも暗闇が続いているように見えた。
奥行が全く把握できない。
僕は何も考えずその隙間に手を伸ばそうとした。
しかし、僕のすぐ隣に人が立っていることに気が付き、その手を止める。見ると、小学生くらいの少年がじっと僕のこと見ていた。
いつの間に僕の横に来たのだろう。全く気配を感じなかった。
「そこに手を入れるのは止めておいた方がいいよ」と、その少年は言う。そして、一冊の本を差し出してくる。
「おじさんが探している本はこれ?」
見ると、それはまさに僕が探していた「猫の生態」だった。しかし、ただ一つだけ僕の記憶にある「猫の生態」とは違っていた。
表紙にあの三毛猫が載っていなかったのだ。
いや、載っていなかったというより、まるで本から抜け出したように、三毛猫が写っていた場所だけ真っ白く塗りつぶされたようになっていた。
僕は少年から本を受け取り、表紙を撫でてみる。質感は何も変わったところのない、ただの紙のようだった。
「図書館の中でおいらを探せ」
あの三毛猫の言ったセリフが頭の中で再現される。
慎重に本を開く。そしてゆっくりとページをめくっていく。
十五分ほどかけて全てのページをざっと見たが、特段変わったところはないように思えた。
僕が本を見ている間、少年はずっと僕の横で何も言わず佇んでいた。
「君はなぜ僕がこの本を探していることを知っていたんだい?」僕は少年に聞いた。
「なぜって言われても……これは言っちゃいけないって言われてるんだよね」
「言っちゃいけないって言われている?」
「そう」
「誰に?」
「お姉さん」
「お姉さん?」
「そう、お姉さん」
「……」
どうやらこの少年には聞かなければならないことがたくさんありそうだ。
「それはどこのお姉さんだい?」
「ここのだよ」
「ここって……この図書館?」
「そう……あれ?これも言っちゃいけなかったんだっけ?」
「え?どうだろう。僕に聞かれても……」
少し抜けている少年のようだ。
「あー、おれもう何も喋らない。何も聞かないで。何も答えたくない」
「どうして?」
「怒られるからだよ。だから何も聞かないでって。あーやだやだ。考えただけでも嫌な気分になる」
「君には悪いけどそういうわけにはいかないんだ。僕は僕でこう見えてけっこう微妙な状況でね」
「ふーん。でもそれっておれに関係ある?」
「うーん……」
そう言われてしまうと何も言い返せない。
僕はどうやったらこの少年から情報を聞き出すことが出来るかを考える。あまり良い手とは思えなかったが、一つ頭の中に浮かんできたものがあった。そしてそれを試してみることにした。
「君は僕にこの本を渡すようにお姉さんに言われた。でも君が僕の質問に答えなければ、僕は君から何も受け取っていない、とお姉さんに言ってみよう。今日はいないみたいだから、また今度来たときにでも。それだと困るだろ?」
言っておきながら僕はいくばくかの罪悪感に苛まれた。しかし僕にはこんな方法しか思い付かないのだ。
「え……汚いぞ……」
少年は本当に嫌そうに僕を睨み付けた。
「そうだ、アイスを買ってあげるよ。確か一階にアイスの自動販売機があったはずだ。それでも食べながら話を聞かせてよ」
罪滅ぼしではないが、これで少しは僕の気が晴れるかと思いつきで言ってみた。
「え?アイス?!やった!食べる!食べたい」
思った以上に喜ぶ少年を見て、これで話が進められそうだと僕も安心した。ただ、初めからアイスで彼を買収するようなつもりは毛頭なかった。それだけは信じて欲しい。
「あ、でもだめだ。おれ、ここから出られないんだ……」
「え?どういうこと?」
僕の言葉が聞こえなかったのだろうか、「…………あー、やっぱいいや、アイスは。わかったわかった。いいよ、それじゃあおじさんの質問に答えるよ。ただし、三つだけ。三つだけだからね。それ以上は答えられない。いい?」と言った。そう言われてしまえば、頷くしかないだろう。
三つ。
この一連の状況を把握するのに三つでは足りないだろう。少ない手数で多くの重要なことを聞き出さなければならない。
しかし一つだけ分かったことがある。少年の言うお姉さんが誰であるかということだ。僕はお姉さんについて今日はいないみたいだと言った。
少年にかまをかけたのだ。
それに対し少年は何も言わなかった。否定も肯定もしなかったが、おそらくはそういうことだろう。確実にそうであるとはもちろん言えないが、僕を取り巻く一連の出来事を踏まえたら、十中八九受付の彼女がお姉さんで間違いないだろう。
「ちなみに言ってはいけないと言われていることを聞いたとしたら、ノーカウントってことになるのかな?」
「それは質問?」
「え……いや、なんでもない……」
もう始まっていたのか。ちょっと抜けているおっちょこちょいなやつかと思っていたが、どうやらそうでもないのかもしれない。
僕は質問の内容を慎重に考え、そして数回頭の中で反復してから口に出した。
「この本の表紙なんだけど、ここには三毛猫が載っていたはずだ。その三毛猫がどこにいったか知らない?」
「どこにいったのかは知らない。けれどどうやってそこから出ていったのかは知ってる」
「え?どうやって?」
「それは質問?」
「あっ、いや、ちょっと待って……」
反射的に口に出してしまっていた。早く答えを知りたいと逸る気持ちもあったかもしれない。
軌道修正。
いやしかし、修正の必要はないかもしれない。それは知らなければいけない情報だ。
「まあいいや。じゃあ二回目の質問。どうやって三毛猫はこの本から出ていったんだい?」
僕は改めて聞いた。
「出ていったのか知っていると言ったけれど、出ていかされたという方が正確かな。いや……剥がされた、だね。絵剥がしだよ。絵剥がしに無理矢理そこから剥がされていったんだ」
「絵剥がし……」口に出してはみたが、全く聞いたことのない単語だった。僕はそれを語尾が上がってしまわないように気を付けながら呟いた。また少年に質問かどうか質問されてしまう。
「そう、絵剥がし。そいつがこの本から三毛猫を攫っていったんだ。おれにとっても大事な存在だったのに……」
そこで少年は本当に悔しそうな表情を浮かべた。
「え?」
まさか僕と同じ頼みをあの三毛猫からされたわけではないだろうが、もしかして少年も三毛猫を探しているのだろうか?
それならば協力出来るのではないか?
目的が一緒ならば、情報を出し惜しみする必要もない。
ただし、質問するのは次が最後だ。どう転ぶか分からない。そこだけは慎重にならないといけない。
「そういえば僕が今日ここに来た目的を君に言っていなかったかもしれない。僕は今日、この本からいなくなった三毛猫を探しに来たんだ。そういう使命が僕にはある。そしてこれは僕の想像だけれど、君もおそらく三毛猫を探している。それならば僕と君は同じ目的を持っていることになる。協力した方が早く解決出来るかもしれない」
少年の表情は変わらない。ただ一言、「協力は……出来ない」とだけ言って俯いてしまった。
その姿を見て、おそらく僕の予想は当たっているのではないかというような気がした。喋ってはいけない内容があったり、質問に制限があったり、少年には何かと枷があるように思えた。僕に協力すること、それが禁じられているのではないか。
誰に?
日を改めて彼女と話さなければならない、と僕は思った。
僕が何も言わないでいると、「まだ質問が一個残っているけど」と少年が言った。
あと一つ、何を聞こう。
とりあえず必要なことは聞いたように思う。というより何を聞いてもゴールに近づく情報が得られるとは思えなかった。質問の答えがまた新たな疑問を呼ぶように、多くの物事が数珠つなぎになり、されには複雑に絡まっているのだろう。まるで鞄の中から取り出したイヤホンのコードのように。
現状ゴールに近づいたかどうかさえ分からない。
全体の道のりが不透明すぎる。十分の一進んだのかもしれないし、あるいは全く進んでいないのかもしれない。逆にこうしている間にも、ゴールが遠のいているのかもしれない。
しかし次にやるべきことだけ、僕の中でははっきりとしている。そうやって一歩ずつ、進めばいい。僕にはそうすることしか出来ない。
その時ふと視線が本棚に行き、再び僕の両目はそこに存在し続ける闇を捉えた。そうだ、こいつを無視しておくことは出来ない。
「この隙間の暗闇は何なんだい?」
「ああ、これについて聞くんだね。この流れでそうくるとは思わなかったよ。いいよ、教えてあげる。この暗闇の名前はシンエン。そうだな、世界の歪み……かな」
「シンエン……」僕は口に出して呟いてみた。その途端周りの空気が何度か冷えたように、急に寒気を感じた。
「これに触れるとどうなるんだい?」
「二度と、戻ってこられなくなる。というより、戻ってきたものはいない……と言った方が正確かな」
四回目の質問であったが、気づかなかったのか気づいていて答えてくれたのかは分からないが、少年はそう教えてくれた。
僕は「ありがとう」とお礼を言い、少年に三毛猫のいなくなった――少年が言うには剥がされ攫われた――本を渡した。
「これは君が持っていて。また来たときにでも見せてもらうかもしれないけれど、今の僕には必要ないもののように思う」
「分かった。おれはだいたいこの図書館の、えっと、あっちの方。あっちの奥の窓際のテーブルの所に毎日朝からいるからさ。何か用があったら声かけてよ」
少年は本を持っていない方の手で図書館の奥を指さした。
「え、毎日?朝から?君、学校は行ってないの?」
僕は驚いて聞いた。いろいろ気になってしまう性格なのだ。
そういえば始めにここから出られないと言っていたっけ。彼もまた、普通ではないのだ。
「おじさん、質問はもう終わりだよ」
そう言って、少年は本棚と本棚の隙間を抜け、音も無く奥へと消えていった。
「おじさんかぁ」
僕は誰に言うでもなく呟いた。
ちらりと横の本棚を見たが、シンエンはどこかへ行ってしまったのか跡形も無く消えていた。
その本棚には、まるでずっと前からそうであったかのように、一ミリの隙間もなく本がびっしりと並べられていた。