六話
翌日仕事が終わると、帰り道に近所のスーパーで買い物をした。この日妻は、帰りが遅くなるのでご飯は適当に食べて欲しいと言っていた。妻がどこで何をしているのかは知らないが、時々、月に二、三回こういう日があった。
家に着き手を洗い着替えを済ませると、キッチンに向かった。彼女から受け取ったレシピ本に載っていた料理を作ってみようと思ったのだ。
本の中には様々な料理が載っていた。肉料理、魚料理、丼物、麺類、スープなどなど……。
表紙に載っていたパスタの印象が強く似たような物を眺めていたが、ただそれと同じ物は避けようという気持ちから、茄子とトマトとベーコンのパスタを選んだ。これも初頭効果と呼べるのだろうか。
しかし我ながら良い選択をしたと思った。改めて作り方が載っているページを開き、出来上がりの写真を見た。茄子とトマトの酸味と、ベーコンの塩味が混ざった味。想像しただけで涎が出てきそうだった。
スーパーの袋から買ってきた物を並べる。
茄子。
トマト缶。
玉葱。
大蒜。
ベーコン。
あとはビールを二本。これは料理と一緒に飲もうと思って買ったものだ。冷やしておこうと、冷蔵庫の中へ並べて入れた。
他に必要な材料や調味料は、冷蔵庫や棚の中にあるのは確認済みだ。
ただ、調理に必要な道具がどこにあるのか分からなかった。
キッチンの棚や引き出しを開けては覗き込み、フライパンやボウルなどを揃えるのに二十分も時間がかかってしまった。
準備と同じくらいの時間をかけて、僕は茄子とトマトとベーコンのパスタを作った。
皿に盛りつけ、最後にイタリアンパセリを盛りつけた。いい香りがし、上手く出来たいう手応えがあった。
コップに水を入れ、パスタと共にリビングのテーブルに運ぼうとしたとき、玄関から鍵が開けられる音が聞こえた。妻が帰ってきたのだろう。予想より大分早い帰宅だった。
僕は慌ててレシピ本をキッチン下の戸棚の中へ隠した。別にやましいことをしていたわけでもなく、隠す必要はなかったのかもしれないが、自然とそうしていた。
妻はリビングに入って来るや否やキッチンにいる僕を見て、「あなたどうしたの?めずらしいわね」と言った。
「いやちょっと次に料理物の連載を持つことになってね。それでちょっと……」と嘘をついた。もし料理をしていることを妻に聞かれたら……と用意していた台詞だった。
妻が覗き込む。
「あら、美味しそうね。私にもちょうだい?」
これに関しては想定外だった。
「つわり……とかは大丈夫なの?」
嗟に出た言葉だったが、どうやら効果的だったようだ。
「え?あぁ、そっか、そうだよね。やめとこうかな。あんまり美味しいそうだったからつい、ね?」
それで妻は浴室に向かい、その後すぐにシャワーの音が聞こえた。
僕はすぐに戸棚の中からレシピ本を取り出し、今度はしっかり鞄の中へしまった。
このまま現実から、問題から、目を逸らし続けることは出来ない。
覚悟を決めなくてはならないが、それはもう少し後でも良いだろう。僕はそうやって、逃れられない未来のことについて、考えることを後回しにした。
シャワーの音が聞こえてくる中、僕は床に足が接着されたようにただキッチンに棒立ちになっていた。
パスタから立ち上る湯気だけが、今この空間の中で、唯一自由な存在だなと思った。
次の週末僕は朝から図書館へ出掛けた。休日に僕が出掛けるなんて珍しいことであったが、妻は特に何も言わなかった。
またしても入口で三毛猫に睨まれながら館内に入り、そのまま三階まで階段を上る。僕が受付カウンターの前に立つと同時に、「今日も本を借りに来たの?」と彼女は言った。
僕が挨拶をする暇もなかった。ただ、階段を上り終える前から目が合っていたし、その目は何か言いたげな感じだったので、想定の範囲内ではあった。
「いや、今日は君に借りた本を返しに来ただけだよ」
僕はそういって鞄の中から彼女から借りた料理の本を出し、彼女の真正面に置いた。
「ありがとう」
彼女の顔には生気があまり感じられなかった。いつもと同じ無表情の中に、いびつな何かがそっと溶け込んだような、そんな違和感があった。勘違いだと言われれば、否定しづらいような、コーヒーの中に一滴のミルクを垂らしたぐらいの、ほんの些細な変化。
いつもそうであるが、肌は透き通るように白い。栄養が全く足りていないのかもしれない。
僕は彼女が食事を食べているところを想像するが――僕は彼女に関して想像してばかりだ――しかしなぜか上手く思い描くことが出来なかった。彼女が箸を持つ姿でさえ霧がかかり、具体的な像を結ぶことが出来なかった。
脳が、その画を脳内に映し出すことを拒否しているような気がした。
「その本を見て料理を作ってみた。普段全く料理をしないのだけれど、我ながら上手く出来たと思う。やってみると意外と楽しいものだね」
「そう……」
彼女はそれ以上何も言ってこなかった。いつもなら何か辛辣な言葉を直接的に言ってきそうなものなのだが。
「あと本を選ぶセンスについても考えてみたんだけどね、もう少し考えたいんだ。どうせ今日何か本を選んでも、また借りられそうにはない。だから今日はこのまま帰るよ」
そう言って僕は帰ろうとした。そもそもこの日はレシピ本を返すためだけにここへ来て、最初からそうするつもりだった。
しかし、彼女が目の前に置かれたレシピ本に右手を添え話し始めたので、僕の足は止まることとなった。
「この前……何度来ても同じかもしれないと言ったわよね。ただ、あなたにこのレシピ本を渡した。さらにあなたはそれを見て料理を作ったと言った。やっぱり、始めてあなたを見たときに感じていたことが、これで確信となった……」
彼女は逡巡しているような、しかしその奥には何かを決意しているような、そんな
雰囲気があった。
「最初から分かってはいたの。でも初対面のあなたに急に言うことは出来なかった」
「何の話だい?」僕はたまらず問いかけたが、彼女はそれには答えずに、「あなたも私と同じで無くしてしまったのね」と言った。
「無くした?」
「そう」
「一体僕が何を無くしたって言うんだい?」
「正確には無くしかけているということだけれど、それは言えないわ。でもまだ手遅れの状態ではないから安心して。すぐに見つかるところにいるわ。入口に足を踏み入れたがけ。そう、そこは私と違ってね」
彼女が何を言っているのか、僕にはさっぱり分からなかった。もっとも、それは初めて会ったときからそうであったが。
「大丈夫。そのままにしておくと危険だけれど、何かのきっかけでそれまで何事もなかったかのように解決するわ。ただ自分ではそれに気付かないだけ」
「危険……解決……自分では気付かない……」
僕は発せられた音声を繰り返す玩具のように、耳に入った言葉をそのままつぶやく。
「楔は打ってある。あとはあなたがどう選択して、どう判断するかだけ」
選択して……判断する?
まるで先日センスという言葉を辞書で調べたときのようだと思った。
物事の機微を感じとる判断力。
今がまさにそうなのだろうか?それならば、僕は何かを選択してければならないのだろうか?一体何を?
一体僕が何を無くしたって言うんだい?
僕は自分自身に聞いてみた。
しかしその問いに答えは返ってこなかった。
僕が、僕自身が、おそらく選ばなければならないのだろう。無くしたものが何なのか、そしてそれを見つけるか見つけないのか。探すのか探さないのかを。
その後僕は、一階の自動販売機でコーヒーを買って飲んだ。コーヒーを飲んでいる間、これからどうすべきか考えようとしたが、上手く考えがまとまる気がせず止めてしまった。
図書館から出たところで、誰かの声が聞こえた。「よう、あんた。どうやらかなり困っているようだね」
聞いたことのない声だった。僕の周りには誰もいなかったので、おそらく僕に話かけているのだろう。
「……」
僕が黙っていると、もう一度「よう、あんた。どうやらかなり困っているようだね」と同じセリフが聞こえた。
僕はもう一度辺りを、今度はゆっくり見回してみる。しかし僕以外に人の姿は何も無かった。おかしい。僕以外に人がいないのならば、一体この声はどこから発せられていると言うのだ?
僕は空耳だと結論付けそのまま歩き出そうと足を前に出すと、再び声が聞こえた。
「おいおい行っちまうのか?あんただよあんた、兄ちゃん」
声は、足元から聞こえていた。
僕が視線を向けると、そこにはいつも図書館の入口にいる三毛猫の姿があった。
「そう、おいらだよ。あんたに話しかけてるのはこのおいらだ」
確かに三毛猫の口の動きに合わせて声が響いてきた。少年のようなソプラノだった。
僕はあまりの驚きに何も言えないでいると、三毛猫は続けて喋り出した。
「いいかよく聞け。一度しか言わないからな」
緊張感のある言葉とは裏腹に、三毛猫は大仰に欠伸をしてから言った。
「図書館の中でおいらを探せ」
それだけ告げると三毛猫は、図書館横の茂みの中へと消えていった。
一体どういうことだろう。
分からないことだけが増えていく。
図書館の中であの三毛猫を探す?
あいつは普段図書館の中にいるのか?
もしかして図書館で飼われている猫だということなのか?
そうではないだろう。もっと違うアプローチが必要だ。
いや、それよりも、猫が喋った?
何が起きている?
幻覚や幻聴
疲れているだけなのか?
とにかく、またここへ来る必要があるだろう。
腕時計で時間を確認すると、まだ午前の十時前だった。
今から家に帰ったとしてもお昼にはまだ早い時間だ。
すでに体が鉛のように重かったが、僕は歩いて帰ることにした。
歩くのは嫌いではない。
空を見上げると、上空では強い風が吹いているのか、雲が早い速さで西から東へ流れていた。
地上はそれほどではない。
歩きづらさはない。
歩きながら、いろいろと考えよう。
歩きながら、今日までのことを整理しよう。
帰ったら、ご飯を食べてゆっくり休もう、そう思った。