五話
彼女からレシピ本を受け取ったその日の夜、妻が眠ったのを確認してから僕はベッドを抜け出した。
リビングの明かりを点け時計を確認すると、そろそろ長針と短針が重なり合う時刻だった。まるで秒針が、生き別れた二人を引き合わせようと頑張っているかのように、時間を刻む音が大きく響いていた。
僕は鞄からレシピ本を出し、テーブルの上に置いた。椅子を引き座る。そのまましばらくレシピ本の表紙を眺めた。
そこには受け取ったときと同じく、ミートソースのかかったパスタが載っていた。湯気が出てていて、触ると火傷しそうな程リアルな写真であった。
そういえばこの本は貸出しの手続きをしなかった。彼女がこっそりやっていてくれたのだろうか?もしかしたら、彼女の私物なのかもしれない。
僕は彼女が自宅で料理を作っている姿を想像する。僕は何でもすぐに頭の中で想像してしまう癖があるように思う。
僕の頭の中での彼女は、ピンク色のエプロンを着け、長い髪を後ろで一つに結んでいた。
彼女はいったい誰に料理を作るのだろうか?
家族だろうか?
それとも自分自身だろうか?
友達はいるのだろうか?
彼氏は……
そのとき、僕は自分が勃起していることに気付いた。
それも尋常じゃないくらい硬く屹立している。
これはしばらく収まりそうにないと思い、とりあえず冷たい水で顔を洗い、ベッドに入る前に一度磨いていたがもう一度歯磨きをした。それでも全く収まる気配を感じはなかった。
僕は深くため息をつき、どうしようかと考えた。このままベッドに行くにも目が冴えてしまった。
何かをするにも妻が起きてきてしまうだろう。少し散歩にでも出ようかとも思ったが、それもその間に妻が目を覚ましてしまったら面倒だと思い止めた。
リビングの椅子に座り窓の外の半月を眺めていると、図書館から帰る前に「寝る前に本を選ぶセンスというものについて考えてみる」と、僕は彼女に言ったことを思い出した。
今まですっかり忘れていた。なんだが図書館に行ったときの記憶がぼんやりとして、思い出せそうで思い出せないのだ。
そういえばこの現象の呼び名について、確か大学の講義でなんとなく聞いた記憶があるが、それ自体も思い出せそうで思い出せなかった。
本を選ぶセンスとはなんだろう?
僕はまず自分の部屋へ行き、本棚から辞書を取り出しセンスという単語の意味を調べてみた。
センスについて辞書には、物事の微妙な感じや機微を感じとる能力、判断力、感覚。と書かれていた。それを見て、少なくとも人の気持ちを考えることについての僕のセンスは皆無だろうと感じた。
センスとはひどく抽象的なものなのだなと僕は改めて思った。
本を選ぶセンスとはなんだろう?
先ほどと同じ問いを自分自身にしてみた。
一度目はとりあえず気になった本を片っ端から手に取り、その中から五冊を厳選した。
二度目は直感で目に付いた本を選んだ。
そしてどちらもダメだった。
人気作家の本はセンスがあるということだろうか?
いや、少なくとも僕が選んだ本の中に誰もが知っている有名な作家の本も混じっていた。
たくさんの人に読まれている本はセンスがあるということだろうか?
いや、誰もが知っていることよりも、誰も知らないことの方がセンスがあると言えるのではないか。
そしてそれらは違うだろうということは、考える前から分かっていた。そういうことではないのだ。分かってはいたが、敢えて表出し、否定した。そういった作業によって、あらゆる可能性を排除していくことが、重要なことのように思ったからだ。
いくつかの可能性について考え、そしてそのどれをも否定した。
そうしているうちに、僕の思考はより深く複雑な方向へと進んでいったが、そうではなく、もっと単純なところに答えがあるような気がしてきた。
センスとは人それぞれ違うものだろう。
例えば洋服であっても、着る人によって似合う似合わないがある。それを見抜く力、適しているものを選ぶ能力のことを言うのではないか。
本においても、その人に合った本、適している本があるのではないか。
それが何なのかは分からないし、何冊もあるものなのかも分からない。
ただ少なくとも、僕が選ぶべき本があの図書館にはあるのだ。
窓の外に浮かんでいた月は、いつの間にか雲に覆われ見えなくなっていた。
そして僕のペニスは、何事もなかったかのように柔らかさを取り戻していた。
キッチンへ行き、水道からコップ一杯に水を入れ一気に飲んだ。眠気は全くなかったが、ベッドに入ればすぐに眠れるだろうという感覚があった。
コップを流しへ置き、リビングの電気を消して寝室へ向かう。
ベッドに入った後は、何も考える間もなく眠りについた。
夢の中では、本棚の本を並び替えるように、記憶がゆっくりと整理されていてく情景を見た気がした。